第3話
机に片肘を付き、その手に顎を乗せた体勢のまま吏津がシャーペンを走らせている。
蓮はちらりとその様を視界の端に捉えて、黒板に向き直った。
あの日から、吏津は俯せにならなくなった。
それは教師としては有り難い事のはずなのだが……何処かで彼が前の様に寝入ってくれないかと願ってしまう。
そうしたら名を呼べるのに……。
なんて身勝手な考えだろうと自分自身に呆れて、その不甲斐なさにチョークを持つ手に力を込めた。
真新しいチョークは黒板に強く押しつけられ、小さな音を立てて二つに折れる。
床を転がるチョークと、手に残った片割れを、思わず見比べた。
まるで、もう戻れない二人の関係を示唆している様だと蓮は微かに笑う。
戻りたいと思った。
彼に酷い事を告げてしまったあの日に戻りたいと。
けれども戻れたとしても、結末が変わらない事も分かっていた。
床に落ちたチョークを拾い、再び文字を書き始めた所でチャイムが鳴る。
蓮は深呼吸してから振り返った。教室全体を見渡し、不自然にならないよう吏津を見たが、吏津は蓮を見ようとはしない。
「今日はここまでにします」
クラス委員に目配せすると、その生徒が号令を掛ける。挨拶がすむと、生徒がちらほらと立ち上がった。
教科書を纏めながらもう一度吏津をそっと窺い見ると、椅子に座ったまま手元のノートを見ている。
『柊』と名を呼びそうになった。
あれから一度も重ならない瞳。
微かに笑うあの顔が見たくて、何度も彼を見つめた。
けれど一度として蓮を見ようとはしない。
時折眠そうにしているのに絶対に俯せにならない吏津を見て、蓮は己の出した答えが間違っていた様な気がしてならなかった。
本来間違ってなどいないはずなのに、あの時あんな答えしか出せなかった自分に後悔している。
吏津に顔を上げる様子が無いと諦め、蓮は教室から出て行った。
蓮の姿が見えなくなってから、吏津は机に俯せになった。眼を閉じるとあの大好きな声が耳の奥で繰り返し響いているように感じる。
いつからか……古典の時間が好きになっていた。
授業が無い日は自分から会いに行かなければ顔も見れないが、授業さえあれば蓮の方から来てくれる。
蓮に会いに行くのを面倒などと思った事は無いが、会える時間が増えるのは単純に嬉しい。
しかし蓮の声はいつでも心地良くて、うつらうつらと意識がまどろむ。教室内に響くその音だけが優しく耳に届いた。
あの後から、蓮が時折困った様な……悲しそうな、そんな瞳を向けているのに気付いてはいる。
それでも眼を合わせたなら、もっと困らせてしまう事も知っていた。
嫌いになんてなれなくて……だからせめて困らせない様にするくらいしか出来ない。
でも……見つめても、見つめなくても悲しそうな顔をする蓮に吏津は少し泣きたくなった。
男同士だから幸せになどなれないと言った蓮。
吏津だって何も分からない子供では無い。
蓮の言葉の意味を理解している。何より、それを真っ向から否定出来る程の経験を持ち合わせていない。
けれど未来は決まっているなどど誰が言える?
この恋がうまくいかないと誰が決められる?
いっそ嫌われていた方が良かった。
そうしたら未練など無かったかもしれない。
あんな顔で見つめられて、諦めろと言う方が無理だ。
遣る瀬無くて、吏津は組んだ両手に額を乗せた。
――諦められない俺が悪いの?
黒板を見つめると、先程まで見ていた蓮の背中を思い出した。
何度か振り返った蓮から反射的に眼を逸らしてしまった。
微かに映った蓮の悲しそうな顔を思い出して、吏津は唇を噛む。
――もう一度……もう一度名を呼んでくれたなら、俺は諦めなくても良いかな?
古典の授業は、週に2回しかない。休み時間や放課後会いに行く事はもう出来ないから、この時間が何よりも大切だった。
一昨日ぶりの蓮の姿に一瞬魅入ってしまったが、蓮と眼が合いそうになって吏津は慌てて顔を伏せた。
組んだ指が微かに震えて、その震えを鎮める為に力を込める。
今日……実行しようと思っていた。
もし、前と変わらない態度で名前を呼んでくれたなら、まだ頑張れる気がした。まだ……許される気がした。
片肘を付いて、いつもと同じ心地よい声に瞼を閉じる。少しだけ、躰が緊張していた。
しばらくはその姿勢のままでいたが、そのうち机にゆっくり俯せる。
ほとんど賭けのようなものだったけれど、心のどこかで信じていた。
蓮が、前と同じように呼んでくれるものだと思っていた。
俯せになった吏津を見つけて、一瞬蓮の声が途切れる。
その事に安心して、吏津はほっと息を吐いた。
流れたのは……ただ静かな時間。
ほんの数秒もなかったかもしれない。けれどそれは吏津にとって何よりも長い時間だった。
突然の静寂に教室内がざわめきだす。
いつまで経っても蓮は名を紡いではくれなくて、終いには授業の続きを始めた。
耳に届く声はどこまでも優しくて、吏津は泣きそうになるのを堪え、強く下唇を噛んだ。
気を抜くと歯がカチカチと鳴ってしまいそうな程、躰が震えている。
吏津はぎゅっと力を込めて、自分の躰を抱き締めた。
そうしたまま、どのくらい経ったのか……。躰の震えがどうにか治まりかけた頃、やはり終わったんだ。と始まってもいない関係の終焉を悟った。
結局その時間、吏津が顔を上げることは無かった。
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