第2話
授業中の吏津は、はっきり言ってちゃんと内容を聞いているのか分からない。
机に俯せになっている事がほとんどで、寝ているのかと思えばそうでも無く、名を呼ぶと必ず顔を上げて眠そうにしながらも微かに笑う。
板書を書き写している様子も無いのに、ノート提出の時にはしっかり纏められていて嫌味にも成績が良い。
他の授業ではどうなのかと空いてる時間に探りを入れると、彼は片肘を付いて顎を乗せ、眠そうにしていたが決して俯せにはならなかった。
何人かの教師に尋ねても、特に目立つ事はしないらしく、普通の生徒という答えしか返って来なかった。
益々分からない。
あんな態度を取るのは自分の授業でだけなのか?
蓮はいつもの様に俯せになっている吏津の名を呼んだ。
すると眠そうに瞼を擦りながら蓮を見つめて、ふっと優しく笑う。
この顔が好きだった。
無防備でまるで一緒に朝を…………。
そこまで考えて蓮は頭を振った。
何を考えているのか。
彼は生徒で己は教師だ。それを忘れてはならない。
蓮が眼を逸らすと、吏津は寂しそうに瞼を伏せた。
それを視界の端に捉えて、妙な罪悪感を覚える。
早くちゃんと断らなければ。
蓮は唇を噛み、黒板に向き直った。
吏津がもう一度顔を上げた時には、すでに黒板に向かう蓮の背中しか見えなかった。
文字を書きながら説明する声が教室に響く。
優しく流れるその声の心地良さに、何度か寝入ってしまった事がある。
けれどいつからかそれを勿体ない事の様に感じて、ウトウトとしながらもどうにか起きている日々が続いた。
しかしある日、ついに眠気に負けて俯せになってしまい、瞼が重く閉じてきた。
まどろみ、意識が遠のき始めた頃、その声を聞く。
「柊。柊吏津!!」
夢現に響く声を心地良いと思ったのは初めてだった。
うっすら瞼を開けると吏津の顔を映す真っ黒な瞳がそこにはあって……綺麗だと思った。
思わず笑うとトンっと教科書が肩に触れる。
「起きろ。柊」
そう言って去って行く後ろ姿を見ながら、もっと呼んで欲しいと思った。
出来るなら名字では無く、名前を。……名前だけを。
あの声で『吏津』と紡いで欲しい。
教壇に戻った蓮の声が教室に響いた。
教科書を詠む彼の声に再び瞼が閉じてくる。
波長が合うとでも言うのだろうか?
心地が良すぎて眠りそうになる。けれど寝てしまってはこの声が聞けない。それ故いつもギリギリの状態で起きているが、それでも時々眠りかけた。しかしその度に蓮が名を呼んで起こしてくれる。
それから吏津は古典の授業ではよく俯せになるようになった。そうしたらあの声で名を呼んでくれる。俯せの状態で眠りに墜ちない様にするのは実はかなり難しかったが、それでもそうする事で蓮が名を呼んでくれるならそんな努力はたいした事では無かった。けれども、蓮の教師としての立場を危ぶませる事は望んでいなかったから、いつも授業の後で友人のノートをコピーさせてもらい、成績も落とさない様にと努力した。しかしいつしかそれでは物足りなくなってきた。
どうすればこの声をずっと聞いていられるのだろう?
そんな風に考えて、己の出した答えに吏津は薄く笑う。
それはとても単純で、多分難しい。
『せんせ、俺と付き合ってよ』
吏津は黒板に文字を書く蓮の背に向って、音には出さずに唇だけを動かした。
「柊。いい加減ここに来るのをやめろ」
疲労を窺える顔に、吏津は心配そうに眉を寄せる。
「蓮さん疲れてる?」
「お前のせいでな」
どうしてと言いたげな顔に、蓮は深く息を吐き出した。
「お前の気持ちには答えられない。いい加減諦めてくれ」
机に片肘を乗せて、その手で額を覆った蓮に近付き、吏津はそっとその肩を抱き寄せた。
「柊っ」
驚いて顔を上げると、悲しそうに見つめる瞳と重なる。
「蓮さん……」
――俺は貴方の負担にしかならない?
吏津だって蓮を苦しめたい訳では無い。
ただ好きなだけ。
それはそんなにも罪深い事なのだろうか?
「俺の気持ちは、蓮さんの迷惑にしかならない?」
「…………」
そうだと口にするだけで良いのだと、蓮自身分かっていた。
けれどもあまりに辛そうな、まるで泣くのを堪えている様な子供を前に、その言葉を告げる事は思っていたより難しい。
好きとは少し違う。
ただこの子のこんな顔を見ていたくない。
思わず「そんな事は無い」と言いかけて、口を噤む。
一体何をやっているんだか……。
ここで絆されれば墜ちるだけだ。
それは吏津にとっても蓮にとっても辛くなるだけ。
この子の未来を考えるなら、今言うべき言葉は決まっている。
流されるなっ。
自身に喝を入れ、蓮は拳を強く握った。
「柊、現実を見ろ。俺は男で、お前も男なんだ。俺達が付き合ったとしてもうまく行くはずが無い」
淡々とした口調に、吏津は瞼を閉じる。
こんな時ですらこの声を愛しいと思ってしまう自分に、何故だか笑いそうになった。
それは酷く乾いた笑い。苦しくて泣きたいほどに心は痛むのに、涙は一滴も出てはこない。
「どうしてうまく行かないって決めつけるの? 俺には……貴方との未来しか見えていないのに……」
語尾が掠れた。
「ひいら……ぎ?」
その事に驚いた蓮が吏津の顔を覗き込もうとすると、吏津は抱き締めていた蓮の躰を解放して、控え室を急ぎ足で出て行く。
もう一度名を呼んだ蓮の声は、静寂を破って響いたドアの開閉音に掻き消された。
独りになって、蓮は無意識にネクタイを緩めた。
苦しかった。
何処が苦しいのか分からないけれど、胸を掻きむしりたいくらいに苦しくて息が詰まる。
……傷付けた。
受け入れてやれないのだからそれは仕方が無い。
繰り返し自分に言い聞かせた。しかし、吏津の泣きそうになりながらも無理矢理に笑んだ顔ばかりが浮かんでくる。
自分は聖人君子ではない。
誰も傷つけないで生きていくなど出来はしない。
けれど、何故あの子でなければならなかったのか?
己の何を吏津が好いてくれたのか……。
何故自分だったのか?
絶え間なく押し寄せる疑問の答えなど見つけられず、蓮は髪を乱暴にかき上げ、その手で顔を覆った。
辛いなどとは言えない。
告げた蓮よりも告げられた吏津の方が痛みは大きいはずだから。
「ごめん、ごめん……」
愛おしいと思った。
恋愛感情とは違う想いだけれど……自分を好いてくれた彼を突き放すには痛みを伴うほどに、彼は身近な存在になっていた。
それが……何よりいけなかったのだけれど……。
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