a ray of hope

和泉

第1話

 その声は……ヒドく心地が良い。

 教師という職業上声量はあるが、それを五月蠅いと感じた事はない。それどころか高くもなく低くも無いその音をずっと奏でていて欲しいとさえ思う。



  

 ひいらぎ吏津りつは教壇から響く声を聴きながら出そうになる欠伸に耐えた。

 実際には机に俯せになっているため、その努力は全く意味を為さないのだが、欠伸の時に訪れる一瞬耳に膜が張る感じが嫌だった。

 この声を少しも聞き漏らしたく無かった。

 ウトウトし始める自分を叱責する。

 寝ちゃ……ダメだ。

「柊吏津」

 突然の大声にまどろむ眼を擦って顔を上げれば、黒真珠を思わせる瞳と重なった。

 あぁ、今日も綺麗だなと脳天気な事を考えている最中にとんっと軽く肩に手が触れる。

「起きろ柊。今からやる所は試験に出るからよく聴けよ」

 後半は吏津と言うより、クラス全員に告げただけだが、吏津はまるで自分にだけ話しかけたんだとばかりに微笑んだ。



 古典の教師である畑中はたなかれんの声に惚れたのは、二年に上がってすぐの新任教師による自己紹介を兼ねた挨拶の時だった。

 比較的列の後方にいる吏津には、舞台上の教師の顔はよく見えなかったが、マイクを通して聞こえた声に惹かれ、懸命に眼を凝らした。

 尤もその努力虚しく、場所がら顔は見えないままだったが、穏やかで優しい語りはヒドく心地が良かった。そして偶然にも吏津の興味を惹いたその教師は、二年の古典を担当する事になり、直に聴く声に吏津はしばしば眠りに誘われた。

 唄う様に話す人だと思った。

 一定のリズムでどこまでも優しい声音で話す。

 この声が好きだという思いが、この人が好きだに変わるのに、そう時間は掛からなかった。



「ねぇ蓮さん。いい加減落ちてよ」

 国語科教員用控え室の自身の机に座っている蓮の横に、キャスター付きの椅子を移動させた吏津は、逆方向からそれに跨りその背に腕を絡めて頰杖を付く。

「先生と呼べ」

 間近に来た吏津の額を指先でつんっと弾いた蓮に、吏津はにっと笑う。

「蓮さんが俺のお願いを聞いてくれたら、俺も蓮さんのお願い聞いてあげる」

 蓮はもう何度目になるか分からない溜め息を零した。

 平穏だったのはものの二ヶ月半。

 それ以降は、目の前の教え子に告白され、毎日の様に付き纏われていた。そしてその度に「付き合って」と迫られる。

 「好きだ」と言われていただけの頃は単純に嬉しかった。

 好かれて悪い気はしない。

 けれどそれはあくまでも教師として好かれているなら……という前提付きだ。

 蓮はそういう意味でしか捉えていなかった。しかし何度目かの来訪時にいつまでも気付いてくれない蓮に焦れて、吏津がついに行動を起こした。突然頬に触れた唇に、蓮は言葉を失う。

「分かってる? 俺はこういう意味で蓮さんが好きなんだ」

 どういう意味だ!! と思わず素で突っ込みそうになる。

 名前で呼ぶ事を何度か咎めたが、蓮自身教師になって日が浅く、先生と呼ばれるよりは、名前で呼ばれる方がしっくりきて、咎めつつもどこかに安心感があった。それに二人きりの時以外は吏津はその呼び方を使わなかったので、さほど問題が無かったというのもある。

 だが、そういう意味でだったのなら話は別だ。

「俺は男だ」

 間抜けな答えだと思った。無意識に出た言葉に、目の前の生徒がクスッと笑う。

「大丈夫、蓮さんは女には見えないから」

「ああ、そう。良かった」

 ……のか?

 ふと首を傾げると吏津が口元を緩める。

「蓮さん、もっと何か話して。俺、蓮さんの声大好き」

「え?」

「笑った声も困った声も怒った声も……古文を詠む声も、全部好き」

 礼を述べるべき所なのだろうか?

 しばし考えてから、やはり褒められたのだから言うべきだよな。という結論に達して「ありがとう」と言うと、吏津は本格的に声を上げて笑い出した。

「俺、やっぱり蓮さん好きだ。ね、付き合って」

 お茶にでも誘うかの様な調子で告げられて蓮は何と答えたものかと思案する。

 本気なのか、からかっているだけなのかいまいち掴めない。それ故どう答えれば良いのか分からなかった。

 もしかしたら真剣に捉える様な意味の言葉では無いのかもしれない。

「…………どこに?」

 長い沈黙のあとにやっと出した答えに、吏津はふぅと息を吐いて蓮の顎を捉えた。

「天然なのか、煽ってるんだか……。そんな蓮さんも可愛いと思うけど、あんまりにも気付いて貰えないと少し寂しい」

 吏津の親指が下唇をなぞる。

 その事にも驚いたが、それ以上に今まで見た事が無いほど真剣な吏津の眼に見据えられ、蓮は微動だに出来なかった。惚けて薄く開いたままの口に侵入した指の腹が舌に触れる。

「柊!」

 我に返ってその手を振り払い名を呼ぶと、吏津はその指にそっと唇を寄せた。

 それから蓮の額にキスを落とす。

「な……」

 開いた口が塞がらないままでいる蓮を楽しげに見つめて、吏津は軽く反動をつけて椅子から立ち上がると歩き出した。

「またね、先生」

 控え室の扉を開けて振り返ったその顔は、年齢よりも若干大人びた笑みを浮かべていた。



 吏津が出て行って数分経つか経たないかくらいに授業開始のベルが鳴る。

 蓮はどっと気が抜けて机に俯せた。

 この時間は偶然にも空いていて、それが少し有り難かった。

「好きって……俺?」

 蓮自身告白された事は初めてでは無い。

 目立つと言う事は無いが、元々整った顔立ちをしているし、格好良いというよりは可愛らしい部類に入るらしく、よく年上の女性に声を掛けられた。そして強引に押し切られ何人かと付き合いはしたが、結局は弟扱いのまま別れた。

 だが今回は自分より年下で……何より男だ。

 深く息を吐くと、机がその息で曇る。

 その様子を眺めながら、再び息を漏らした。

 考えるまでも無い。

 彼は生徒で自分は教師だ。そして何より男同士。

 気持ちを受け入れてやる事など出来ない。

 ただ、あの真っ直ぐに見つめていた瞳を思い出すと、少し胸が苦しかった。

 いつも穏やかに自分を見つめていた彼が初めて見せた、真剣な眼差し。

 濁す様に答えた自分が酷く幼く思えた。

 吏津の唇が触れた額を指で撫ぞる。

 それから己の唇に触れた。

 吏津はあくまで優しく触れていた。

 キスは確かに不意打ちではあったけれど、彼が触れたのは頬と額だ。本当に蓮が困る様な場所にはキスを落とさなかった。

 今時分の高校生にしては可愛らしい接触。たけど彼の指は告げていた。まるで唇にキスをしたいのだとでも言う様に……。

 蓮はもう一度息を吐いてから上体を起こした。

 こんな事を悩んでいる自分を馬鹿だと思う。答えなど出ている。

 受け入れられるはずが無い。

 でもそれを告げたら、もう二度と吏津が優しい瞳を向けてくれない気がした。

 それを寂しく感じて、締め付けられる様な痛みに胸元の服をぎゅっと手繰り寄せる。

 真意を計りかねた。そんなのは所詮言い訳だ。

 あんな風にしか答えられなかった事を今になって悔やんだ。

 吏津は真剣だった。だから蓮も真剣に答えを出してやらなければならなかったはずだ。

 だが今度あの瞳に見つめられたら、自我を見失わずにいられるだろうか?

 言うべき言葉を伝えられるだろうか?

 眼を閉じると吏津の顔しか思い浮かばなくて、蓮は数回頭を振って息を吐いた。

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