第2話 いつもと同じか、そうでもないような朝


 澄んだ風の中に朝餉の気配が漂う。


 芳ばしい焼き魚の匂いに、ほんのり甘い味噌の香り。食欲をくすぐるのは、鉄釜で炊かれた米の匂いか。


 そんな心地よい朝の空気をかき消すがごとく、苛立たしげな足音が近づいてきた。


「朝陽!! いつまで寝ているんです!」


 引き戸が跳ね開けられ、容赦ない叱責が耳に刺さる。心地よい目覚めを迎えようとしていた朝陽は、寸手のところでたたき起こされた。


「ふわ……あ……? 一生いつき……?」


 目をこすり、やけに重だるい体を起こす。すると、涼やかな目元の秀麗な青年――見習い退魔師仲間の一生いつきが、剣呑に腕を組んでこちらを見下ろしていた。


「ほかに誰がいると? 毎朝、毎朝、ペアだからとあなたを起こさなければならない私の身にもなってください」


「起こしてくれなんて頼んでないじゃん。今日も、あと少しで目が覚めるところだったのに」


「どの口が言いますか。今朝の食事当番は私たちなのに、ちっとも起きてくる気配がないから、私がくる羽目になったんです」


「げっ!? 当番、俺たちだった!?」


「……なぜこんなにも弛んだ男が私のペアなんでしょうか」


 最後のは朝陽に向けた言葉ではなく、個人的な愚痴らしい。朝陽を軽蔑した目で見下ろしてから、一生は不快げに嘆息した。


「とにかく。朝餉の準備はアキ殿らと整え済みです。それ自体に不満はありません。あなたがいたところで役には立つとは思えませんし、むしろ感謝しています」


「寝坊したのは悪いけどさ。そこまで言わなくても良くない?」


「身から出た錆びですよ。これ以上嫌味を言われたくないなら、さっさと食堂に向ってください。座学にまで遅刻されたら、いよいよ迷惑です!」


 告げるべきことはすべて告げたと一生は身を翻す。


 残された朝陽はがしがしと頭を掻きむしった。


「だーっ! 正論なのはわかるけど、なんか腹立つな!」


 一生は退魔師の名家、吉備家の長男だ。年は同じ17歳でも、退魔師の家系でも何でもない田舎生まれの朝陽とは育ちが違う。だからか朝陽がペアなのが気に食わないらしく、事あることに細かいことで突っかかってくる。


 たしかにいくらか朝陽の方がルーズで、少しだけ迷惑をかけている自覚はある。だからって、あそこまで辛辣な態度をとらなくもいいだろう。


「どうせ俺は、あいつと違ってみやびな生まれじゃありませんよーだっ!」


 伸びをしてから、布団を跳ね上げ起き上がる。遅くなると、再び一生が飛んできてギャンギャン嫌味を言いかねない。朝陽は手早く着替え、欠伸を嚙み殺しながら水場に向かった。


 ――それにしても昨日はどうやって床に入ったのだろう。


 昨日は六坊通りの団子屋のおばさんから、飼い猫探しの依頼を受けた。


 退魔師の仕事は幽鬼退治や霊魂のお祓いがメインだが、ほかにも加持祈祷や失せ物探しなんかも請け負っている。特に朝陽みたいな見習いは、都の人たちに顔を売る意味で日々の困りごとを手助けして回っているのだ。


 おばさんが来た時にそばに一生がいなかったので、依頼は朝陽ひとりで受けた。


 幸いおばさんの猫は失踪の常習犯で、過去に何度も依頼を受けており、今回もあっさり見つかった。お礼にと店のお団子をご馳走になり、腹も膨れて詰所に戻ろうとした――ところまでは覚えている。


 けれどもその後がわからない。どうやって詰所に戻ったのかも。夕餉に何を食べたのかも。床に入ったのが何刻だったのかも。妙といえば今朝はやたらと眠く体がだるいが、昨夜何かあったのだろうか。


 ……濡れた顔を拭いながらそこまで考えたところで、ぶるりと背筋が震えた。同時にちくりと袖の下の腕が痛む。


 何か今、記憶の底に押し込められたものが、封印をこじ開けて手を伸ばしてきたかのような。


 肌に絡みつく、湿り気を帯びた闇。燻された地獄の香り。深淵から覗く、一切の光を呑みこむ漆黒の瞳――。


 なんだ、この光景は。朝陽はちくちく痛む腕に触れようとする。けどそのとき、廊下の向こうから明るい声が呼びかけてきた。


「おはようございます、朝陽さま!」


 柱の向こうから顔を覗かせたのは式神のアキ。10歳くらいのおかっぱ頭の子供にとんがり耳と猫の尻尾を付け足したような、愛らしくも妙ななりをしている。


 アキたち駒一族は、こう見えて何白年と生きる妖怪だ。代々の百徳院当主に仕え、退魔師たちの身の回りの世話などをしてくれている。


 縞模様の尻尾を揺らして、アキは駆けよってくる。朝陽は頭に浮かびかけた光景を追い払って、ぱちりと両手を合わせた。


「ごめん、アキ! 俺、朝当番だったのに、すっかり寝坊しちゃって!」


「起きられない朝は誰にでもあるもの。一生さまにたくさんお手伝いいただきましたので、どうか気にしないでください」


 にこにこと首を振ったアキは、ぴょこんと背伸びをする。そして小さな手で朝陽の頭を撫でた。


「ふふふ。朝陽さまは、今朝もかわいいですね」


「だーかーら。俺を可愛いって言うなよ」


「すみません。けど、朝陽さまを見てたら我慢できなくて」


 ほわほわと幸せそうなアキに、朝陽も苦笑した。


 朝陽はくりっと大きな目をしているせいか、小さい頃はよく女の子に間違えられたし、いまだに童顔で背もあまり高くない。それがコンプレックスで「かわいい」と言われると腹が立ってしまう。


(だけど、相手がアキだと腹が立たないんだよな)


 アキは朝陽がお気に入りだ。朝陽を見つけると嬉しそうに飛んできて「かわいい、かわいい」と連呼する。


 ほかの相手なら腹が立ちそうなものだが、アキは朝陽よりよほど小さく、可愛いなりをしている。そのせいか和んでしまって怒る気にもならないのだ。


 その時、アキが朝陽の顔を覗きこんだ。


「けど朝陽さま、なんだかお疲れですね。心なしか顔色が優れないような」


「あー、うん。実は起きてから、体がずっしりだるくてさ」


「それは大変。季節の変わり目ですし、風邪を引かれたのでしょうか」


「そんな感じはしないんだけどな……?」


 自分で言うのもなんだが、朝陽はとんでもない健康優良児だ。幽鬼にとり憑かれたとかでもない限り滅多に体調を崩さないので、逆に風邪を引けばすぐにわかる。


 首を傾げる朝陽に、アキはぽんと手を打った。


「元気が出ないときは、栄養たっぷりのごはんですね。ささ、食堂に参りましょう!」


 そう言って、アキは朝陽を食堂へと引っ張っていった。


「おはよう、朝陽ちゃん! うわ、すっごい眠そう!」


「また一生に叱られるぞー? 『曲がりなりにも私のペアなのですから、少しはしゃきっとした態度で過ごしてください』とかって」


 朝陽に気が付いた先輩たちが、口々に声を掛けてくれる。


 百徳院の詰所の奥座敷では、籍をおく退魔師たちが寮生活を送っている。家庭を持つ者は座敷を出て外に居を構えるが、独り身や朝陽のような見習いは、家賃・生活費がタダなこともあってここに住むのが常である。


 食事の受け取り窓口に向かいつつ、朝陽は大袈裟に肩を竦めた。


「止めてくださいよ。さっき似たような嫌味を言われたばかりなんすから」


「はは、言われたあとか!」


「あんたたちってほんと、ペアのくせに正反対ね!」


 やいやい言われるのに笑いながら、米とみそ汁、焼き鮭と漬物を受け取る。そうして席を探したところで、最奥でひとりで食事する一生を見つけた。


 味噌汁を口に運ぼうとしていた一生も、一瞬だけこちらを見た。けれども一生はすぐに眉間に皺を寄せて目を逸らすと、ぐいと味噌汁の椀に口を付けた。


(……ほんっと、感じ悪いなあいつ)


 ムッとしつつ、朝陽は一生がいるのとは反対の席へと足を向けた。

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