(7)


「っ……」


 悲鳴を出すこともできず、茉衣子は大河と共に常夜街の巨大な空洞を落下していく。衣服が下からの風で煽られ、大きな音を立ててはためいた。

 無数の提灯に照らされるのは、立体迷路のように複雑な常夜街だ。

 所狭しと密集した古い建物に、蜘蛛の糸のように張り巡らされた回廊や階段。派手なネオンに古風なランタン。光を反射して輝く立派な屋根瓦に、剥き出しで削れたコンクリート……。

 時代も文化も混ざり合って、退廃的で妖しげな美しさを持ちながらも、どこか懐かしさを感じる。常夜街を中空から見る景色は、こんな状況で無ければ見惚れてしまうほど幻想的であった。

 しかし、上を見た大河が「げっ」と顔を顰める。

 つられてそちらを見た茉衣子も目を瞠った。先ほど自分達が飛び出した窓から、黒い大きな塊が溢れ出していたからだ。

 みちみちと膨らんで、蓮夢堂の建物よりも大きくなった黒い塊は、まるで巨大な肉塊だ。

 膨らんだ表面にはぼこぼこと無数の顔が浮かび上がり、それぞれに口がついている。一斉に開けた赤い口から、白い歯を覗かせてけたけたと笑う姿はおぞましい。

 さらに無数の白い腕や脚が飛び出て、蜈蚣の足のように蠢いた。周囲の建物を白い手で掴んで、そのでっぷりと重そうな見た目とは裏腹に恐ろしいほどの速さで大河達に向かってくる。


「うっわ……でかすぎでしょ」


 大河の呟きは、茉衣子がようやく上げた悲鳴に掻き消されてしまう。おぞましい肉塊の化物の姿に、茉衣子は恐怖のあまり空中で暴れ始めた。


「わっ、ちょっ、落ち着いて!」


 大河が慌てて注意するが、身を捩った茉衣子の腕が手から外れてしまう。大河の側から離れた茉衣子目がけて、黒い肉塊が肉薄した。


「いやあああっ‼」


 肉塊が大きく口を開けて、茉衣子を飲み込もうとした時だ。

 黒い閃光が走り、空気を切り裂く勢いで茉衣子をその場から攫う。

 茉衣子の目に映ったのは、長い黒髪から覗く白皙の美貌だった。紫の長袍をはためかせた白蓮が、茉衣子を抱きかかえていた。

 垂直落下の浮遊感から、今度は横へ猛スピードの移動だ。ジェットコースターさながらの動きに、茉衣子は目を回しかける。やがて速度が落ち、気が付いた時にはどこかの回廊に下ろされていた。


「大丈夫ですか?」

「は、はい……」


 立つのもままならず、茉衣子は座り込んだまま回廊の手摺に縋る。

 自分は助かったのだろうか。『めちゃくちゃ強い』と大河が言っていた白蓮がここにいるのだから、きっと大丈夫なのだろう。茉衣子が胸を撫で下ろしかけた時、頭上の回廊の屋根に何かが落ちてきた音がした。


「ひっ!」


 肩を跳ね上げて身を丸める茉衣子だったが、傍らの白蓮は微動だにしない。すると、回廊の屋根から大河がひょこりと顔を出した。


「ごめん白蓮! 浅川さんは無事?」

「馬鹿者」


 逆さになった大河の額を、白蓮がいつの間にか取り出した扇で叩く。

 いてっ、と声を上げた大河はバランスを崩し、屋根から滑り落ちて真っ逆さまに常夜街の底へと落ちていく。

 驚いた茉衣子は、慌てて手摺の間から下を見下ろしたが――。


「――痛いなぁ、もう。すぐ叩かないでよ」


 下から何事も無かったように大河が顔を出してきたので、またもや小さく悲鳴を上げてしまう。

 手摺の向こうには何もないはずなのに、どうやって――。

 目を丸くする茉衣子の前で、大河がふわりと宙に浮いた。

 よく見れば、大河の紫色のスニーカーの下には、白い剣がある。剣から身軽に回廊に降りた大河は、宙に浮いた剣を「暘谷ようこく」と呼び寄せた。

 まるで魔法のように浮いた剣は、するりと大河の手に収まる。凝視する茉衣子に、大河はのんびりと説明した。


「ええと、これは『御剣ぎょけん』って言って、霊力で剣を自在に操る技で……」

「大河、来るぞ」


 白蓮の声に、大河も茉衣子もはっと外を見た。

 しばらくの間は茉衣子を見失っていたのだろう、黒い肉塊がこちらへと向かってきている。だが、白蓮がいることに気づいたのか、肉塊から突き出る手足の動きは鈍くなり、勢いが弱まっている。

 獲物を襲うか、それとも逃げるか。

 肉塊の化物の逡巡を見透かしたように、白蓮は命じる。


「大河、逃がすな。下に落とせ」

可以りょうかい!」


 答えるなり、大河は回廊の手摺を蹴って飛び出す。


「暘谷!」


 落ちる大河は白い剣に乗り、ひゅうっと風を切って上空へと向かう。一方、回廊に残った白蓮は、右手の人差し指と中指を立てて剣印を結ぶ。


「『虞淵ぐえん』」


 静かな声と共に、白蓮の傍らに黒い剣が浮いた。

 色や飾り、彫りは少し異なるが、大河の白い剣と全く同じ形状の剣だ。

 それもそのはずで、大河の『暘谷』と白蓮の『虞淵』、二つの白黒の剣は対となる双剣であったのだ。

 浮いた虞淵剣もまた、目にも止まらぬ速さで肉塊に向かう。鈍い光を伴った虞淵剣が翻り、肉塊に逃げる暇を与えず真っ二つに切り裂いていった。

 ぎゃああああ、とたくさんの人の声が混じり濁った悲鳴が、常夜街の空気を震わせる。

 しかし、巨大な肉塊は切り裂かれてもなお動きを止めない。二つに分裂したそれらは、一方は白蓮から逃れようと上へ向かい、もう一方は茉衣子のいる回廊へと向かった。


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