(4)


 茉衣子は地上に戻った後、入手困難なアーティストのライブチケットが欲しいと願った。その翌日に、願いは叶った。

 アーティストが関東限定ツアーを発表し、そのチケットの抽選が行われたのだ。いつもは全然繋がらないサイトにすんなり繋がり、なんと希望日すべてのチケットを獲得することができた。

 さすがにおかしいとは思ったが、これもラッキーアイテムの力なのかもしれない。あるいは単なる偶然で、ツイていただけなのかもしれない。

 それでも何となく、もやもやとした得体のしれない不安を茉衣子は覚えた。

 それを裏付けるように、ある夜、不安は形となって表れる。会社から自宅のマンションに帰って鞄の中を見ると、見覚えのある赤い封筒が入っていたのだ。


『えっ……』


 驚きのあまり、茉衣子は鞄ごと取り落とした。

 開いた鞄の口から、中身が床に零れ落ちる。それらの一番上に、存在を主張するかのように紅包ホンパオが鎮座していた。

 常夜街から持ち帰って以来、机の引き出しの奥にずっと入れておいたのに。


 どうして、鞄の中に。


 誰かが別のものを入れたのかと思い、紅包を入れていた引き出しを急いで確認すると、中には何も入っていなかった。

 自分で鞄に移した覚えが無く、茉衣子は困惑し、それ以上に恐怖を覚えた。


 ――願いが叶う紅包。

 どうして願いは叶ったのか。

 中身を見てはいけないのはなぜか。


 考え出すと、無性に中身が気になって仕方なくなった。

 本当は触りたくないのに、身体が勝手に動く。震える指で紅包を拾って、封に指先を掛けると、予想以上の軽さで封は開いた。


 照明に照らされた赤い紙に包まれていたのは、血塗れの爪と、血の付いた髪の毛だった。


『ひっ‼』


 慌てて紅包を投げ捨て、床に落ちたそれを呆然と見つめていると、インターホンが急に鳴った。

 音に肩を跳ね上げながらも、助けを求めるように、無意識にインターホンの表示ボタンを押す。すると――

 わあっという歓声と共に、大きな拍手の音が聞こえてきた。


『茉衣子さん、結婚おめでとう!』

『おめでとうー‼』


 インターホンの向こうから、大勢の声が響いてくる。

 画面のエントランスにいるのは、十人を超える人の影。皆、顔が塗りつぶされたように真っ黒な影になっていた。


『うちの死んだ息子との結婚、おめでとう!』

『息子は死んでいるけれど、よろしく頼むわね!』

『おめでとう!』

『結婚おめでとう!』

『結婚おめでとう!!』

『おめでとうおめでとうおめでとうおめでとう――』


 パチパチパチパチパチパチパチパチ……。


 気づけば拍手の音はインターホンだけでなく、玄関の外、そしてベランダから聞こえていた。


『な……何よ、これ……』


 茉衣子を取り囲むように鳴り響く拍手の音と歓声に、震える手でインターホンを切って後ずさる。それでも止まない音が恐ろしくて、両手で耳を塞いだ。


 ――『規則を守らない場合、何が起こっても一切の責任は負いません』


 脳裏に浮かんだのは、常夜街の決まり文句。

 その時初めて、茉衣子は常夜街が恐ろしい場所であり、自分はルールを破ったのだと実感した。




 茉衣子はその後すぐに新宿駅にある常夜街の受付に向かった。

 そこで偶然にも鈴木に出くわし、彼女が巻き込まれたトラブルが陰陽局関連のものだと分かり、こちらに連れて来た――というわけである。


「常夜街で販売している物以外は、決して持ち帰らない……が基本なんですがねぇ」

 

 さすがに苦言を呈する鈴木に、茉衣子は項垂れるばかりだ。

 白蓮は、いつの間にか取り出していた扇の先端で、机に置かれた紅包を示した。


「……中を拝見しても?」


 茉衣子がこくこくと頷き、白蓮が扇で紅包に触れた。途端、扇の先で、小さな光がばちっと弾ける。


「きゃっ⁉」

「……ふん」


 突然の光に茉衣子は驚くが、白蓮は平然とした様子で扇を放し、傍らの大河に言う。


「私がやると壊してしまう。大河、開けろ」

可以りょーかい


 躊躇いなく大河は紅包を手に取り、封を開いてテーブルの上で逆さにした。かさりと軽い音ともに、中身が零れ出る。

 途端、大河は顔を顰め、白蓮もまた目を細めた。

 中には茉衣子の言った通り、爪と髪の毛が入っている。もう何日も経っているだろうに、爪についた肉片はてらりと赤い血に濡れて、つい先ほど剥いだばかりのようにも見えた。髪の毛も同様で、長い黒髪はどれだけの力で引き抜いたのか、毛根には血がついている。


「うげ……生爪剥いだやつじゃん。痛そう……」

「……」

「おやおや大河君、そんな怖いこと言わないで下さいよー」


 鈴木がやんわりと窘めると、大河は茉衣子の顔を見て「あ、ごめん」と急いで謝った。

 白蓮は顔色一つ変えずに、ぱちりと扇を鳴らしながら、茉衣子に尋ねる。


「お金は入っていなかったのですね?」

「……はい……」

「願いを叶えることが金銭の代わり。願いが叶えば、代償の支払いがある。中身を見たときから、それは始まる……浅川さん、あなたの願いは叶えられた。ならば代償を支払わなくてはならない」

「……」


 白蓮の静かな、しかしきっぱりした言葉に、茉衣子はとうとう堪えきれなかったようで泣き出してしまった。

 鈴木は慌てて彼女を宥める。


「あああ、大丈夫ですよ、浅川さん。蓮夢堂さんが何とかしてくれますから!」

「安請け合いしないで下さい、鈴木さん」


 鈴木の軽い言葉に白蓮は釘をさして睨むものの、その視線はすぐに紅包へ移る。


「……とはいえ、これは悪質だ。引っ掛かった者にまったく罪が無いとは言わないが、このような罠を仕掛ける方が罪深い」


 白蓮は空になった赤い封筒の横を、とんと扇で叩く。


「『常夜街の者は己や身内を守る目的以外に、人間に手を出してはならない』――これもまた、常夜街の規則。ましてや、地上にいる人間に仕掛けるのはもってのほか。……対処すべき事案だな」


 口調をすっかり元に戻した白蓮は、鈴木を見返して答える。


「この件、引き受けてやろう」

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