第8話

「ちょっと、待って、ください」

 叔父の部屋を出てすぐ、エレベーターで降りた夏夜を追いかけて反対側の階段を駆け下りた。もう夜なのだし、幼い子供も住んでいるのでいけない事だとは分かっていたが、大きく足音を響かせて一段飛ばしに駆けていった。久しぶりに走ったせいかすぐに息が上がり、風呂上りなのに汗をびっしょりとかいている。だがこのおかげでアパートの前の通りで夏夜を呼び止めることが出来た。

「なに?つばさももう帰ったら」

 どうやら立ち止まって私のことを振り返ったようだった。こんな田舎の寂れた住宅街では街灯なんてぽつりぽつりとしかない。暗闇の中で猫のように二つの光る眼が浮かんでいた。何メートルか先の彼女の姿を視認できないまま、柔らかなオレンジ色の光の中で息を整えた。

「ごめんなさい、叔父が失礼なことをしてしまって。私ももっと早く謝るべきでした」

「なんでつばさが謝るの?まだ店長も謝ってないのに」

 顔の輪郭もよく見えないまま薄明りの中に深く頭を下げる。声からは驚いているのか、呆れているのかよく分からない。少なくとも叔父に向けられていたような怒りは感じないことに一旦は眉を開いた。とにかく許してもらいたい。許すと言って欲しかった。

「だって、叔父のせいでムカついたんですよね。付きまといとかも、私の家族のせいで不愉快にさせてしまって申し訳ありませんでした」

 頭を下げ続ける私に対してどう思ったのか。たっぷり十秒は沈黙して、かつりという音で少し顔を上げた。

「気づいていたんだろ、この手紙を書いたやつのこと」

 街灯の照らすぼんやりとした光の円の中にローファーが現れた。笑いを含んだような声がする。低いが良く通る声。さっきの笑顔が思い出されて指が強張る。声が出せないままゆっくりと頭をあげた。少し細められた狼のような瞳が、まっすぐ私を見ていた。透き通った金の虹彩に沈む黒い瞳孔。さっきまでの冷たい雰囲気は感じないものの腕に鳥肌がたつ。唾をのんで手を固く握った。

「わたしもすぐ気づいたしな。悪意に気づかないほど鈍感でもなさそうだし、薄々勘付いてはいたんだろ?」

「なぜ、気づけたんですか?」

 強張る体と上手く働かない頭に比べ、口ばかり回る。ただ質問を無視してしまっていることに遅れて気づき冷や汗がふきだした。気に障ってしまうなんてことにはならなかったようで、例の手紙を無言で渡される。何度も開閉されたようで折り皺が刻み込まれていた。

「この独特な臭い、バターかバニラエッセンスか何か?あの店でもしたんだよ」

 確かに紙からはうっすらと何かの、おいしそうな香りが立つ。店でそんな匂いしていたのだろうか。働いていても気づかなかったが、十分考えられる。父の淹れる珈琲の香りが思い出には満ちていたが、いつの間にか変わっていたのだろう。

「ポイントカードに書いてもらった字も手紙に書いてある字と似てる。キミの母親にも確認した。止めはねが強い右肩上がり、筆圧強めの文字」

ああ、叔父の筆跡を知っていたら気づくのかもしれない。納得しつつ腑に落ちない。母は何故夏夜に叔父のことを教えてしまったのだろう。母が夏夜と仲良くお話をするとは思えないが、接触があったことにも気づけなかった。

「匂いと文字が似てる、それだけで叔父が犯人だと思ったんですか」

 特に気にしてもいないことを訊く。自分の声だという実感の持てない、奇妙に響く音だった。その考えは正しかったのだから、理由なんてどうでもいい。だが彼女が叔父だと気づいた原因が何だったのか、少し興味はあった。

「まだ理由はある」

 そんな私の意図を知ってか知らずか素直に話してくれる。少し自慢げな表情はどこか幼い子供の話を聞いているような感覚にもなる。

「わたしの名前。カヤに夏と夜をあてるなんて知らないと書けない。それなのにあの男、聞かずに書いて見せたんだ」

 スカートのポケットから、おそらくポイントカードであろう小さな紙きれを振って見せる。確かにそうだ、あの時叔父は名前を聞かずに記入していた。藤見という姓は知っていただろうが、カヤという名前の漢字は校上町で生まれ育った私も知らなかった。

「みんなわたしの名前じゃなくて名字にばかり気を使うからな。名前なんて知らないやつばかりだ」

「手紙にも、カードにも夏夜と書いてあったんですね」

 ぽつりと呟いた。聞こえているのか、適当な相槌が打たれたもののカードを丁寧にポケットに仕舞い直すことに集中しているようだ。ようやく血の気が戻って来た指を組み直した。

「まあ、こうやって確信を持ったから本人に聞きに来たわけだ」

「よく気が付きましたね。私はただ、叔父くらいしか思いつかなかっただけでした」

「それ、最初に言っておいてほしかったな。こんな面倒なことしなくて済んだ」

 口がへの字に曲がった顔を見てしどろもどろに謝る。

「えっと、ごめんなさい。叔父がお店にいたので」

「そのために電話番号の紙渡したんだが」

 あ、と声が漏れた。すっかり忘れていたが今日までこんなことになるとは思っていなかったのだ。香織に見せてからずっと手帳に挟みっぱなしだった紙切れを思い出す。

「まあ、もういいよ。終わったことだし」

 血の気が引いた私の顔から察してくれたのか、うっすらと笑みが作られた。

「話はそれだけ?もう遅いから帰るよ」

「待ってください。もう一つだけ」

「今度はなに?」

 こめかみを掻きつつため息交じりに促される。噂で築き上げてきた彼女の印象や、さっきまでの態度とは全く違う常識的な応対に希望を込めて言った。

「カヤさんが犬神っていうもので、叔父を呪ったんですよね」

「そういう表現も出来る」

 犬神というものが、本当にいて、本当に叔父が犬神によって苦しめられているのなら。

「叔父を、許してやってはもらえないでしょうか」

丸くなった目で私をじろりと上から下まで見回される。心底驚いているようで、口が半開きになっている。自分の心臓の音が聞こえそうなほど静まり返ってしまった空気。ふ、という笑い声で震えた。

「悪い。でも実の叔父に呪われていたっていうのに、随分庇うんだな」

「呪われるぐらい邪魔にされていても、実の叔父ですから」

「お人よしってよく言われるだろ」

 軽い溜息と同時に香織と同じ指摘をされる。認めたくはなかったが、しぶしぶ頷く。何が面白いのか、または面白くなかったのか、今度はふんっと鼻で笑われてしまう。

「犬神はわたしの感情で動くっていうのは、噂で聞いているのか」

「はい、羨ましいと思ったものは持っていかれると」

 本人にこんな話をしていいのか、迷いつつも香織に聞いた話を説明する。しかし夏夜の反応は意外なものだった。

「それはごく一部の話だよ。つばさの叔父には、わたしが憎く思ったから犬神が憑りついたんだ。人によって症状みたいなものは違うけど、あの感じだとこのまま衰弱して死ぬんじゃないかな」

 何を言っているのか分からず、ただ息をのんだ。

「喫茶店に行った日、こいつが手紙を寄こしたんだと思ったら無性に腹が立って。でも思い込みで憑り殺したら悪いだろ。今日一応確認に来て、お墨付き与えたから犬神にしっかり憑りつかれているな」

「じゃあ、叔父の風邪はカヤさんが?」

「わたしじゃなくて犬神だな。わたしはただ腹が立っただけだ」

「腹が立ったからって、呪ったりしなくても」

 つい反論じみたことを口走る。冷ややかな目が注がれた。

「じゃあただ憎いと思っただけのわたしと、行動に移したつばさの叔父。どっちが悪いと思う?」

 犬神というものがよく理解できない頭でも、言われて分かった。かっと熱くなった顔を晒さないよう俯く。

「ごめんなさい」

「別に、つばさを怒っているわけじゃないし。犬神は一匹だけだから憑かれるなんて心配しなくていいよ」

 少し疲れたような声を聞きますます項垂れた。そう言われても私にできることは夏夜に謝り頼むことぐらいしかない。意を決して顔を上げた。

「本当に申し訳ありませんでした。身勝手なことだとは分かりますが、数少ない私の家族なんです。お願いします、叔父を助けてください。私にできる事ならします」

「別に、殺してやりたいほど憎いわけじゃないし、わたしはいいよ」

 あっさりと許されたようで目を瞬かせた。本当にこれで叔父を助けてもらえるのか。だが次の言葉に顔が曇る。

「でも犬神って全然言う事聞いてくれないからな。言っても聞くかどうか。憑物落としでも頼んだらいいかもしれないが」

 憑物落とし、聞いたことのない言葉に眉を寄せる。言葉を失った私をどう思ったのか、ずいと近づいてきらきらとした目で興味深そうに私の顔を覗き込む。なぜか目を逸らしてはいけないと見つめ返した。神々しくも感じる金色の瞳が先に泳いだ。腕を組み、片方の眉を吊り上げて仕方ないとでも言いたげに首を振る。

「どうしてもって言うなら、条件がある」

「え、何でしょうか。叔父と私にできる事なら何でもします」

「わたしとあと犬神の分もケーキ、食べさせてくれるならいい」

 提案された条件が予想していた方向性と違いすぎて、しばらく黙りこくって考えた。そんなにあのケーキが気に入ったのか。そもそも犬神も食べるのだろうか?

「それだけで、いいんですか」

 控えめに確認する。先に手を出したこちらに遠慮することなんてないのに。そう思った私の右手が絡めとられて強引に小指を立てられる。指きりなんて何時ぶりだろうか。いつの間にか私よりも暗い色に戻っていた瞳孔はいたずらっ子のような表情を湛えた。

「犬神飼うのって結構大変なんでね」


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