第7話

 母に持たされたスポーツドリンクとレトルトパウチのお粥を抱えてちょうど開いたエレベーターに乗り込む。入れ違いに叔父と同じ階に住む顔見知りの老夫婦が下りる。

「こんばんは、これからお散歩ですか?」

「ああ、こんばんは。まあ、そんなものかな」

いつものように挨拶をするが、その歯切れの悪く、どこか落ち込んだ声と顔色が悪かったことが気にかかった。ゆっくりと閉じていくドアの隙間から小さくなっていく二つの背中を見送る。叔父の風邪でもうつっていたら悪いな、そう思いながら三階のボタンを押す。静かに体が上へと運ばれていく。

 エレベーターの扉が開いてすぐ、老夫婦の具合が悪そうだった理由が分かった。長い廊下の先、叔父の部屋があるあたりで立っているのは紛れもなく藤見夏夜だった。変な格好だと自覚している学ランにスカート姿。何か感づいたのか振り返って私と目が合った。無言で手招かれてしまい諦めて近づく。

「ちょうどよかった。店長に話があるんだよ」

「どうしてこの部屋に住んでいるって知っているんですか」

「つばさの母親に教えてもらったんだよ」

 当然のように返されるが、どうして母に聞くことが出来たのか。怪しいとは思うが母も母だ。この子に叔父の部屋を教えるなんてどういう心算だろう。

「ドア、開けてもらって。勿論わたしがいることは内緒で」

 そう言われてしまい、迷ったがそのままドアノブをひねる。そのまま抵抗なく開いたドアを見て不用心だという呟きが聞こえた。家を出る前に連絡しておいたのだ。イヤホンを付けていることの多い彼に鍵を開けておいてもらうため。流石に鍵を開けたまま生活しているわけではないはずだ。さて、彼女を勝手に家に上げるのは良くないことだろう。いつかの反省を生かそうと、一旦待っていて欲しいと伝えようとした。

「ちょっと」

 私の脇をすり抜けて玄関にローファーを脱ぎ散らかした彼女に、慌てて声をかけるも止めることはできない。血の気が引く私をよそに無言で片っ端からドアを開けていく。急いで靴を脱いで追いかけるも、そんなに広い家ではなく彼女が立ち止まってから追いついた。部屋の入口で立つ彼女の背後から部屋の様子を覗き込むと、呆然とした表情の叔父と目が合った。足音に気づいて起き上がろうとしていたのかベッドに腰かけている。

「つばさちゃん、どうして藤見さんの」

 驚きすぎたのか絶句している叔父だが私も理由は知らない。そう伝えようと苦笑いをする。直接聞くしかないと思い仁王立ちの彼女の背中をつつく。それをどう思ったのか彼女は寝室に躊躇いなく入り、ずんずんと近づいて叔父の胸倉をつかむ。そのままぐいと引き寄せれば叔父の体はぐらりと揺れた。

「え、ちょっとカヤさん。何してんですか」

後ろから腕をつかんで引き離そうとするも意外と力強く太刀打ちできない。体調不良とはいえ男である叔父も抵抗して欲しい。そう思って目をやるも、何時か幼いころにみた母親のような表情、心底恐怖を感じているのだと分かった。

「キミがつばさを呪って欲しいんだって?」

 その言葉に愕然として、夏夜の顔をまじまじとみつめた。叔父と対照的に表情のない顔で叔父を見下ろしている。ぎょろりとした目がさらに見開かれていた。そんな目で睨みつけられた叔父は脂汗か冷や汗かを粒のように額に浮かべている。

「一体、何のことを」

「叔父さん、病院行かないと。カヤさん手、放して」

 ひきつった舌を動かして言いたいことを一息に伝えてしまう。先に叔父を放してもらわないと。すっかり夜だがこんな田舎で病院なんて開いているだろうか。違う。

「今、叔父さんが私を呪いたいのだと言いました?」

 ふと冷静になった頭で訊ねる。

「ああ。この手紙、出したのキミだろ」

 いつかみた紙切れが取り出され叔父の目の前でひらひらと揺れる。

「ぼ、僕が、僕は」

 何か言おうとして舌を縺れさせた叔父が急に解放された。夏夜が叔父の服から突然ぱっと手を放し、数歩後に下がったのだ。腕を掴んだままだったので当然私も引きずられるように後退さった。途端鈍い音が叔父からしたと思ったら濁った水音とともに酸っぱい匂いがした。

「ゔぇ」

 嘔吐き続ける姿に数秒立ち尽くす。碌に食べていなかったのか少量の胃液ばかり吐き出している。少し躊躇ったが二人を置いて隣の洗面所からタオルを持って走る。ベッドに座ったまま口を押えた叔父とそれを見下ろす夏夜の構図が変わっていないことに安心するも、安心できる光景ではない。

「叔父さん、ほら早くお医者さんにかからないと」

 床に散らばった胃液を踏まないように慎重に近づく。震える叔父にそっと触れて、口元から腕にかけての吐瀉物をふき取りつつ声をかけた。

「無駄だよ、犬神が憑いているんだ。医者に何とか出来るもんじゃない」

ぱっと振り返り夏夜の顔を見上げる。私と目が合うと、にっと口だけが横に引き伸ばされる。細められるどころか一層大きく開かれた瞳は金色に輝いていた。

「その目」

 唖然としてそう呟くと後ろからぐっと肩を押されてバランスを崩した。しりもちをついてズボンに吐瀉物がべったりとついてしまった。タオルを床に放って、立ち上がり押した叔父に向き直る。

「叔父さん、何するんですか」

 語気を強めて抗議するもいつの間にかベッドの縁から壁際に張り付くように移動した叔父の目は私ではなく夏夜に注がれている。力ない目で夏夜を見上げて口をぱくぱくと開けたり閉じたりしているばかりだ。正気ではなさそうな雰囲気に腰の痛みと腹立ちを脇に置いて再び近づこうとした。

 一歩踏み出したところで夏夜に腕をひかれる。前に出ようとしたはずが夏夜の後ろに下がらされ、黙っていろと言わんばかりに人差し指を立てられた。琥珀を思わせるような目に見惚れてしまい、開けた口をそのまま閉じる。小さな背中に仕舞い込まれたような感覚のまま突っ立っていた。

「それで、この手紙のことなんだが」

「話す、話すから犬神をとってくれ。とってください」

 遮られたことに腹を立てたのか夏夜は眉をひそめた。眉間にしわが刻まれる。

「まだ交渉できる位置に自分がいると思っているのか?」

 低いうなり声にも似た声で詰問されると、恐怖の表情が張り付いていく。よほど恐ろしいのか、声にならなかった音が徐々に形を得ていく。ごくりと唾をのんだ、そのあとに叔父は語り始めた。

「引っ越してきて、つばさちゃんの母親の、亜由美さんからあなたの話を聞いたんです。最初は人を呪うことが出来るなんて、そんな馬鹿なって思っていた」

 口の軽い母ならすぐに話してしまうだろう。いきなり逆鱗に触れるようなことにならないかと顔色を窺うが、最初に会った時のような無表情で耳を傾けている。

「でもたまたま同じバスに乗り合わせたことがあって、気にしていたら家を知ってしまって」

「知ってしまって?知ろうとしたんだろうが」

 耳打ちするように間近で呟かれる。叔父には聞こえなかったようで話を続ける。

「ずっと、気になっていて。それで、亜由美さんに誕生日を一緒に過ごしたいと誘ったら、つばさちゃんを理由に断られてしまって」

「つばさがいなければ、付き合ってもらえるのに。そう思った?」

「はい、そう思って。そう思ったら憎くてたまらなくて。手紙を書いた、その勢いのまま郵便受けに入れていました」

「一夜明けて、なんて事をしてしまったんだって思って。そして、手紙を回収しようと思ったのに」

「わたし朝の四時に起きたからな。最高の朝だったよ。殺人の依頼が来て」

 皮肉の効いた文句に一層叔父が青ざめている。これ以上血の気が引いたら死体と見分けがつかないんじゃないだろうか。

「まあ、やっと犯人がはっきりしたわけだ」

 淡々と判断が下され、夏夜は一つ頷いてくるりと踵を返す。背後からこっそりと表情を盗み見ていたので慌てて目を逸らした。胸倉をつかんで暴力沙汰にでもなるのかと思っていたので胸をなでおろしたが、叔父はそうではなかったようだ。

「待って、犬神をなんとか」

 さっきまで壁にへばりつく様にして夏夜と距離を取ろうとしていたくせに追いすがるように手を伸ばす。

「しっかり食い込んでいるし、当分外れないんじゃないかな」

 しかし懇願するそんな姿を蔑むように一瞥すると、あっさりと一蹴した。そして、これ以上ないといった楽しそうな笑顔を浮かべた。

「触らぬ神に祟りなしっていうだろ。触ってしまった報いを受けろ」

 そう吐き捨てて突き放した。悠々とした足取りで、開け放たれたままの寝室の扉から暗い廊下に溶け込んでいく。

「つばさちゃん、何とか、藤見さんを」

 呆然と見送っていると冷たく湿った手で私の手を握られた。こうして間近で見ると少々やつれて顎には無精ひげが生えている。なんて声を掛ければいいのか分からず、気まずい空間にこれ以上いられずこの言葉をきっかけに夏夜を追いかけて部屋を去った。

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