第6話

 大きなあくびをかみ殺す。寝不足なのかとたずねる声に返事を濁した。あの後ついつい漫画を読みすぎて夜更かししたなんて社会人として恥ずかしい、そう思ったのだ。いらない見栄かもしれないが。まだ八時になってもいないのに、寝転んでいるから眠くなるのだとソファの上で座りなおした。

「それで結局、つばさのお母さんはどうしてご機嫌だったの?」

 耳元に近づけたスマートフォンから興味津々といった声がする。昨晩のことを何気なく話してみたがどうやらお気に召したようだった。もう五年以上の付き合いでも他人の興味は分からないものだ。

「それが、小学生の頃私が書いた作文読んで爆笑していたらしいの」

「ああ、親ってそういうとこ残酷だよね」

 同情してくれているのか急に香織も沈んだ声を出した。香織の母親は香織と大分印象の異なる女性だった気がして、数回しかあったことのない顔を思い浮かべた。きれいなまっすぐの黒髪と切れ長の目。色のない固く引き締められた唇に眉間の皺と、細い眼鏡の似合う厳格そうな人だった。あの人が香織の作文や読書感想文やらを読み上げて笑っている様子なんて想像できない。

「ほら、あたしのお母さん完璧主義だったからさ。ちょっとでもミスると嫌味っぽくなるんだよね」

 はあ、と息が吐き出される。電話越しにもしかめっ面をしているのが分かった。

「でも香織のお母さんって料理も上手だし、勉強も教えてもらえたんでしょ」

「まあね。自慢はできるけど」

 彼女自身も自慢できる母親だとは認識しているらしい。うちの母親とは違って頼れる母親という感じで私にとっても羨ましい。いかにも才色兼備な彼女の母親を考えていると、香織もよく自分で作ったお菓子を配っていたことを思い出した。

「ねえ、ケーキとかクッキー上手くなりたいから、今度教えてよ」

「いいよー、今度はうちに遊びに来な」

「ありがとう、近くに叔父くらいしかお菓子作り出来る人いないんだよね」

 思いついた勢いのまま言ってみるが、快く受けてくれたことに安堵する。

「叔父さんに教えてもらえばいいのに」

「あんまり仲良いわけじゃないし」

母にはああ言ったが出来れば父の夢だったこの店を潰したくはなかった。ケーキが焼ければ店が続けられるとも思わないが、出来ないままよりは出来るほうが良い。今日みたいに叔父が体調を崩しているときなどは特に。

「本当ありがとう。お礼に何か持っていくよ」

「それより、遊びに来るついでに頼まれて欲しいんだけど」

「どうしたの?珍しいね」

 いつも私が頼む側だったので頼まれごとをされたことに少々驚きつつも嬉しく思う。

「お母さんのこと説得して欲しいんだよね」

「え、ええっと私が香織のお母さんを説得するの?」

 戸惑いしどろもどろに確認すると恥ずかしい話、という前置きがされ簡単に事情が説明された。

「つまり、香織の卒業後についてお母さんと揉めているのか」

「そういうこと。うちのお母さん束縛きついのよね」

 まあ、それは想像できる。

「役に立てるか分からないけど、私で良ければやってみるよ」

「ほんと?いやぁ、助かるわ。あたし一人じゃ太刀打ちできないんだよね」

 私より強気な香織がだめなら私も無理かもしれない。受けておいて不安になるが、やるだけやってみるしかない。

「いや、つばさが羨ましいなあ。あんなお母さんで」

 しみじみと言われて思わず笑い声が漏れる。

「嘘でしょ?香織のお母さんの方が私の母さんよりすごいよ」

 本心からそう言うが、無言のままの電話の向こうの相手の顔は見えない。落ち込んでいるのではないかと思い焦り始めた。

「進路のことで悩んでるの?香織のお母さんも香織のこと想って言っているだけだよ。私の母さんなんて放任主義なだけだし」

「わかんないよ、そんなこと」

 ようやく聞こえた声は私の想像を裏付けるかのように暗い。いつもの甘えたような声とは別人のようなそれにますます気が動転する。こんな声、聞いたことがあっただろうか。狼狽しつつ問いただす。

「どうしたの?香織。何かあった?」

「また、相談させてね」

 こうも分かりやすくはぐらかされてしまっては電話越しだということが歯がゆい。自分がこれからいう事が適しているのか、じっとりと手汗がにじむ。

「ねえ。協力はするけど、一度冷静に話し合ってみた方が良いと思う。逆に相手がどう思っているのか、聞いてみるのもいいと思うよ」

「なにそれ?昨日のつばさのお母さんとの話のこと?」

「うん。相手はこう思っているのかも、っていうのを確認したり、自分はこう思っていますってちゃんと言葉にするのって、意外と有効って昨日気付いたんだよね」

 どぎまぎしながらも言い切った。香織も茶々を入れず口を挟まずに聞いてくれて、こういう優しいところ変わってないなと頭の片隅で考えた。

「ちょっと意外だな」

「え、なにが?」

「つばさがちゃんとこうやって意見言えるのが。高校の時も内向的だったし、平和主義っていうか事なかれ主義?昨日お母さんとそんな話したっていうのも驚いたし、あたしにこんな言い方出来ると思わなかった」

「ごめん。気分悪くした?」

「ううん、ちょっとえらそーって思ったけど、でもありがと。もう一回話してみる」

 確かにちょっと上から目線だったかもしれない。そう思いつつもどうやら収まるところに話が収まったようで少しホッとする。

「それはそうとお店のSNS見たけど、叔父さん体調不良なんだって?」

「そう、店長が体調不良だとお店開けないから困るんだけどさ、病院には行かないんだよね」

「それじゃお店しばらく開かないんだ?」

「うん、でも予定立てられないし定休日に遊びに行くよ」

「たしかに」

面倒で滅多に更新しないアカウントに一応臨時休業のお知らせを流していたのだが、見てくれている人がいたとは驚きだ。常連さんは皆中高年層だし、シャッターに貼った張り紙の方が発信力があるだろう。そう思っていると、かすかに私の名前を呼ぶ声がした、気がした。息をひそめるともう一度、確かに呼ばれている。

「ごめん、母さんがなんか呼んでるわ」

「ううん、じゃあまた。遊びに来られる日決まったら連絡してね」

 途中どうなる事かと思ったが無事に電話を切った。自分の寝室を出て、リビングに入ると相変わらず冷たい空気に包まれる。きちんとドアが閉められているだけ褒めないといけないだろうか。

「母さん、呼んだ?」

 リビングのテーブルに座りパソコンに向かう母が顔を上げた。仕事が残っているようで最近夜遅くまで粘っている。

「ええ。つばさ、弟さんにこれ持ってお見舞いに行ってきて」

「え、もう八時過ぎてるしお風呂入ったのに」

 一体何の用かと思えば。不満を込めて口を膨らませる。母も悪いとは思っているのか苦笑した。

「ごめんね、お母さん手が離せないし行って欲しいの」

 眉を下げられて見上げられてしまえば断れない。もう五十だというのについ甘やかしたくなる人だ。

「病院嫌いの人だって聞いたことあるし、もし辛そうだったら病院勧めてきてね」

 そしていらない世話を焼きたがる人だ。言い寄られているのに、中途半端に優しくして期待を持たせるようなことにならなければいいが。そう心配しながらまだ蒸し暑い夏の夜に踏み出した。


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