第5話
帰宅ラッシュに巻き込まれないよう、少し早い時間に香織をバス停まで見送る。店の戸締りを確認したら、家と反対方向のスーパーマーケットに寄った。手帳に書かれた買い物メモに従って、生鮮食品や調味料を次々に買い物カゴに入れてすぐレジに通す。右手にエコバック、左手にティッシュボックスを提げて店を出れば、夕日とまでは言えないものの傾いた太陽が目に痛い。慌てて目を逸らし、かかとに踏みあとがついたスニーカーで踏ん張りながら再び喫茶店の前を通って家へ向かう。
授業が終わったのだろう、ちらほらと見られる下校中の小学生たちとすれちがいながら家につく。町内では大きめのまだ新しいアパート、その一階にある。階段を上ったりエレベーターを使ったりするのが面倒だという父の希望と少しでも家賃を安く抑えたいという母の要望から決まった。私も下の住人に気を使わなくて済むのなら、と賛成したのだ。重たい荷物を持つ今のような状況にとっても一階に住んでいて良かったと思う。一旦荷物を置いて鍵を開けた。若干涼しすぎる空気に包まれる。開け放たれたリビングのドアにため息を吐く。何度も言ってこれならもう無駄なのだろうが改めて注意する。
「ただいま。またドア開けっ放しになってるよ」
「はーい、おかえり。ごめんね、閉めといて」
大きな声で呼びかけると機嫌のよさそうな声が返ってきた。寝室で雑誌でも読んでいるのだろうか。手早く買ったものを仕舞ってキッチンの流し場で手を洗う。下げられていた冷房の設定温度を変更する。更年期障害なのか暑がる母がいない時くらい節電したい。父の使っていた書斎に向かう。
「ただいま」
小さな窓に掛けられた分厚いカーテンも、所狭しと積まれた本の山も三年前と何も変わっていない。小さな仏壇の前で手を合わせる。仏壇と言っても本棚の一団を使って位牌と遺影の前に香炉とおりんを置いただけのものだ。遺影の父は変わらず困ったように眉を下げて笑っていた。
キッチンに立った母が料理を盛り付けていく。無言で横に控えて渡される皿を受け取る。父がいたときは手狭に感じていたが二人で囲むには大きすぎる机に、半端な距離を置きながら皿を並べる。チキンの照り焼きにほうれん草の小鉢、なめこの味噌汁。念のため開けた電子レンジの中に焼き魚を発見した。
「ねえ、これいつレンジに入れた?」
みそ汁の余りが入った鍋に蓋をした母が振り返り、考え込む。
「あぁ、一昨日のホッケだ。昨日の昼に食べようとレンジに入れたんだっけ」
また電子レンジに入れっぱなしにされていたのか。取り出しかけたそれを、もう一度レンジで温める。炊飯器からご飯をよそい、箸とともに机へ運ぶ。私の湯飲みと母のグラス、小さなビールジョッキにポテトサラダの入ったボウル。料理が終わったことを母に確認し、温め終わったホッケを運べば夕食の準備が終わる。母が向かいの席に座ってから、空席のビールジョッキによく冷えた発泡酒をゆっくり注いだ。
「いただきます」
静かに、いつも通りに食事を始める。少々表面のこげた鶏むね肉を細かく切ってご飯と一緒に口に含む。週に一度は口にする母の得意な味付けだ。少し辛口の、ご飯によく合うたれがねっとりと舌に絡む。みそ汁をゆっくりと流し込んでいると、ホッケの身から骨を外そうと苦戦していた母が不意に口を開いた。
「今日香織ちゃんとお店で遊んだんでしょう。どんな話したの?」
「あぁ、秋から新メニュー出すって言ったでしょ。味見してもらって感想教えてもらったの」
「わざわざ来てもらってお店につきあわせちゃ悪いじゃない。もっと楽しいところとか遊びに行きなさいよ」
小言に適当な返事をする。祖父母ほどではないものの、校上町で生まれ育った母は藤見家の彼女に近づくことを避けていたと思う。直接言葉にすることこそなかったが、町で彼女を見かけたときの母の顔と私の手を握った大きな手の力強さは忘れられない。あの表情が何を意味していたのか、当時は分からなかった。叔父もどうやら伝えていないようなので、藤見夏夜が店に来たということは隠していた。
「それより母さん、ティッシュのストックなかったよ」
「あれ、そうだったの。気付かなかったな」
丸い目が瞬く。今日買っておいて良かった、と机の上に置かれたティッシュボックスから最後の一枚を引き抜いて思った。骨を箸で外すことは諦めたのかホッケを口に放り込み、口から器用に骨だけ吐き出している。
「もうすぐ台風シーズンなんだし、水とかチェックしておかないと」
はいはい、と相槌なのか返事なのかわからない応答にため息が漏れる。一度家の貯蓄を確認しないといけない。この人が結婚する前、しっかり者の長女だったという父親の評価は疑わしいものだ。能天気にポテトサラダをつつく姿からは時間に厳しかった委員長を想像することも出来ない。同級生だった父が言っていたのだから、そうなのだろうと信用するしかない。あぁ、叔父に聞いてみるのもいいかもしれないが。
母が手つかずになっていたビールを飲み干して手を合わせる。いつの間にか机上の皿は全て空になっていた。私も手を合わす。
「ごちそうさまでした」
流し場で、水に漬けられた皿や調理器具を洗って重ねていく。母親が見ているテレビからタレントの聞き覚えのある笑い声が聞こえる。母があまり見ない番組なので珍しいと思いながら、なかなか落ちない焦げ付きと格闘する。
「そういえば、今日機嫌よかったけど何かあった?」
「え?ああ、そう。そうね、あったわ」
考えるより先に喋ることが多い彼女の、珍しい態度に顔を上げた。ぼんやりとした顔をしていたが目が合うとすぐ笑顔が向けられる。どこか遺影の父と似通った笑み。長い間一緒にいると表情も似るのかもしれない。
「なにがあったと思う?」
面倒くさいが、手は動かし続けながらもしばらく考えてみる。今日はたしか九月の十九日、火曜日だ。給料日ではないし何かの記念日でもないはずだ。またテレビの方に向き直った母は結局つまらない報道番組に代えてしまう。
「父さんの書斎でへそくり見つけたとか」
テレビの音か、皿をすすぎ始めた水音のせいか振り向かずに聞き返され、つい眉間にしわが出来る。ほんの少し声を張り上げて違うことを言ってみる。
「とうとう叔父さんから求婚された?」
「やめて、つばさ。あの人の弟さんとそういうことになる気はないって言ってるでしょ」
とたん大げさに顰められた顔が向けられる。想定より気に障ることになってしまったようでまずい、と思った。同時に反省する。つまらないことに腹を立てて関係のない、わざと嫌がることを言うなんて、我ながら随分子供っぽいことをしてしまった。それでも謝罪の言葉どころか追撃するような言葉ばかりが口をつく。
「母さんになくても叔父さんにはあるじゃん」
「そんなこと分からないわ」
父が亡くなってから私に対して何かと手を貸そうとするのも、県外から近所に引っ越してきたのも、彼が仕事を辞め喫茶店をやるといったのも。義理の姉とその子に対する優しさだけからの行動ではないのだろう。もちろん性質として優しい人なのだろうが、母に言い寄っていることも事実だ。まだ遠回しで、親族付き合いを前提とした誘いだが、私に母の好みのタイプや恋人の有無を聞くなんて答えが出ているようなものだ。いつまで目を逸らし続けることが出来ると思っているのだろうか。
「もうそろそろ告白されるんじゃない。どうするの」
「あの人のお店を守ってくれたのは嬉しいけど、それだけなの。今のままでは駄目なの?」
私に聞かれても困る。叔父に聞くべきだろう。父といい叔父と言い何故優柔不断でだらしのない母を好きになるのだろう。未だに彼氏のできたことのない私には分からない。
「それは、私たちにとって都合がよすぎるんじゃないかな。ねえ、母さん。今までのお誘い、私を理由に断ってないよね」
今までの誘いについて、気になっていたことを訊くと図星だったようで目が泳ぎ始める。とっくに成人した娘がいることは再婚しようとしない理由になり得るのだろうか。
「でも、理由もなく断ったら愛想尽かされてお店捨てられちゃうかも」
「母さんが思うようにしていいよ。お店が無くなったって良いし、でもなくなって困るのは叔父さんも同じだろうし無くならないんじゃないかな」
少し楽観的な予想を話してみる。しばらく無言で考え込んでいる。その間に手元の皿に集中する。すすぎ終わった皿の山を完成させ、フライパンを洗い始めたとき、ようやく母の声が聞こえた。
「つばさが失職しちゃうかもしれないし、顔あわせるのも気まずくなる」
考えた挙句に断れない理由を挙げていく。本当は叔父が好きだったりするのか少し不安になったが、以前絶対無理と言っていたのを思い出す。私ではなく直接叔父に無理だと伝えて欲しいものだ。
「バイトでもしながら職探しするよ。同じアパートに住んでいるから顔あわせるんでしょ。市営住宅とか探してもいいんじゃないかな」
それでも不安そうな顔をしている母にため息が漏れる。ちょうど洗い終わった皿を食器乾燥機に割れない程度に突っ込む。手を布巾で吹きながら母の横、父の席だった椅子に腰かける。
「母さんのしたいようにしたら良いんだよ。父さんの店が守れるなんて結局私たちのエゴなんだよ。再婚だって父さんより格好いい人見つけたらしたらいいんだよ。父さんは死んでしまったし、怒ったり悲しんだりなんて出来ない。お坊さんは複雑なこと言っていたけど」
冗談めかして言えば困ったような表情のまま笑みを浮かべる。あの朗らかなお坊さんのようにつらつらと話が出来ればいいのに。説法とまではいかないがもう少し口が上手ければ母も安心できる気がする。ただ母ももう少し安心させてほしい。
「それもそうよね。ちょっと自分勝手にやってみようかしら」
案外明るい声音にはっとした。父親も苦笑している顔が普通の笑だったことを思い出す。無理して笑っているのか、本心からの笑みなのか判別しにくい人だったが、母もそうなのかもしれない。そうなったのかもしれない。
「つばさも言ってくれてるし、今度強めに言ってみる。がつんとね」
「ちょっと、私に言われたからとか言わないでね」
知らない間に恨みを買ったりするんだから。そんな文句は言えなかった。
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