第3話

 感情のない子ではなく表情に出にくい子なのだろうと思っていたが、確かに読み取れた表情と言葉との距離に混乱する。なぜ、と尋ねられたことに驚いたという事は、自分の考えが普通だと思っているのだろうか。むかつくなんて笑顔で言うことだろうか。

 チーズケーキの最後の一口を飲み込んでしまってフォークを左手で器用に弄び始めた彼女は、再び表情を埋めた。ただ雰囲気は店に入ったときよりいくらか柔らかく感じる。まさかお菓子で機嫌を取られているのか。そんな幼い子に対するような推測をする。

「わたしの家の表札、藤見じゃないんだ」

 彼女が自分から喋り始めたことにまた軽く驚きながら、思考を止め唐突に語られ始めた話を理解しようと集中する。

「生活リズムも大多数の人間とは変えているし、あまり目立つ格好では近所をうろつかない。この変な服装では出歩かないようにしているし」

 変な服装だと自覚しているなら何故やめないのか。すっかり冷めてしまった珈琲をすすりながら彼女の言葉に耳を傾ける。どこでどう相槌を打てばいいのか皆目見当もつかないので黙ったまま。冷めきった珈琲は渋さを増しているように感じて、味わうこともなく喉に流し込む。

「だから手紙なんてそうそう届けることも出来ない。そもそも変な噂が随分出回っているみたいだし、態々わたしに近づくようなもの好きはいないはずなんだ」

「手紙」

「手紙といっても郵便受けに直接入れたみたいだけど、そっちの方が気持ち悪い」

 つい呟くと彼女はポケットから一枚の折りたたまれた紙を取り出して差し出してきた。受け取ると几帳面な文字で藤見夏夜様と書かれていて、夏夜でカヤと読むことにまず衝撃を受けた。念入りに折られた紙を慎重に広げて眺める。ふわりと甘い匂いがしたような気がした。A4サイズのコピー用紙かなにかに丁寧な文字で書かれた言葉はひどくそっけなかった。

「藤見夏夜さま、突然のお手紙お許しください。どうか呪っていただきたい人がいます」

 淡々と頭から読み上げていき、自分の名前を目にして声がかすれた。こうして字面で呪いたいと思われていることを確認すると、何か傷つけられた心地がした。

「宛名も無ければ詳しい事情も書いていない。急に匿名の人間から頼みごとをされたらむかつくだろ。それに気色悪い。噂を信じてわたしの家を探すとか」

 そこまで喋ってから彼女は口を閉じた。まあ確かに知らないうちに付きまとわれていたのなら気味が悪いし腹立ちを覚えることもあるだろう。フォークは左手から右手に移り、案外大きな掌の中で回転していた。

「それで、カヤさんは差出人を知って、どうするんですか」

「つばささんは一体だれが自分を呪いたがっているのか知りたくないのか」

 あくまで彼女のペースに合わせなくてはならないらしい。むっとした気持ちを宥め宥め、考えをまとめて慎重に言葉を選ぶ。夕日に変わってしまった太陽の強い光が左手の大きな窓から差し込んでいた。

「別に知りたくはないです。知ったところでその人の気が済むようになれるとは限りませんし、本気で書いたわけじゃないかもしれません」

 言い切った同時に聞こえた、ふぅという短い溜息と細められた目からどうやら回答に不満らしいことはわかる。時折オレンジの光を反射しながらフォークがかたい音を立てて空の皿に置かれる。空になった両手が組まれて、そこに顎が乗せられる。一層細められた瞳が私に向けられていた。

「わたしはこんなむかつく真似したやつをとり殺すよ」

「呪うなんて噂、嘘じゃないんですか」

 信じられない気持ちでうっかり口が滑る。彼女のすっかり打ち解けたような、何回もこうして話したことのあるような態度に釣られているのかもしれないと他人事のように考えながら。

「呪いなんてあるわけないし、神様なんて噂も嘘ですよね。人の死体を食べるとか、そんなことするわけ無いですよね」

「火のない所に煙は立たぬっていうし、大体合っているんじゃない?」

 問い詰める勢いで話すも、のらりくらりとした返答に顔を顰める。私の思考と同じくらい他人事のような言いぐさで、さらに噂を肯定するようなセリフで驚くとともにどこか呆れてしまう。

「カヤさんが呪うことが出来るとして、どうしてそんなことしたいんですか」

「だからむかついているからだよ」

 少々面倒くさそうに同じ言葉を繰り返す。むかついたから呪うということがあり得るのか。内心頭を抱えた。

「で、心当たりないの?それとも庇っている?」

「いや、殺すなんて言われて教えられるわけ」

「邪魔するつもりならキミも殺す」

 案外軽い口調で告げられた言葉に何も言えなくなる。私を呪おうとしていた人が、それほど気に食わないのか。本当に呪いや祟りがあるとは思えないが、そんなこと考えるのはきっと良くないことだ。倫理についてももちろん、人を恨めしく思う精神状況にとっても。説得しよう、そう思って口を開く。しかし出鼻をくじかれた。

「いや、冗談だよ。つばささんはどうでもいい」

「私は、ですか」

 釈然としない気持ちで復唱する。少々面白がっているような声音で冗談だと言われてしまえば、これ以上追及することも憚られる。続く落ち着かない話題に、無意識に弄っていたペンダントの金具が爪に引っかかって嫌な音を立てる。

「そのネックレスの、羽がモチーフなんだな」

「はい、父親の形見みたいなものです」

 不意に話題が変えられたことに戸惑いつつ、目障りだったかと手を下ろす。相変わらず首元に集中しているような視線を受けながら、話題を戻すタイミングをうかがう。

「それは、悪い」

 そう言いながらなんとも思ってなさそうな涼しそうな顔をみて、また噂の一つを思い出す。彼女に父親は存在しないとか。そしてまた別の噂には彼女の父親は妻を殺して逃亡中だという。噂なんて適当なものだ。

「さっきの男は父親じゃないのか」

「私の叔父です。父親がもともとこのお店をしていたのですが、叔父が仕事を辞めて継いでくれたんです」

 今の喫茶店の経営が上手くいっていないのも当然のことなのかもしれない。会社勤めだった叔父が飲食業を始めるのはとても大変だったと予想できるし、感謝している。ただ洋菓子にかける情熱を珈琲にも向けて欲しいとは思うが。

「まあ、確かにあまり似ていないか。髪の色とか、顔立ちとか」

 その言葉に思わずツインテールの右の髪束を掴む。まだ慣れない髪のきしむ音が耳元で鳴る。薄い灰色の毛が橙色を映していた。と同時に店長の薄くなったもののまだ黒い頭を思い出す。

「髪は脱色しているんですよ」

 教えたもののふーん、と気のない相槌が打たれる。ほんの世間話のつもりだったなら仕方ないか。彼女もせっかく髪を伸ばしているのなら気を使ってみればいいのに。かなり癖のついた黒髪を眺めてどうでもいいことを考える。

 壁にかけられた鳩時計が六時になったことを告げる。すっかり暗くなった店内を電球と夕日の暖かい光が照らしている。少しずつ日没の時間が早まって確実に夏の終わりが近いのだと感じた。そしてこの不毛な会話が思ったより長く続いていたことにも気づく。

「この手紙の差出人を探れないならもういいや。長い間邪魔しました」

 それは彼女も同じだったようで、そう言ってソファから立ち上がる。強制的に話題が切り上げられてしまった。慌てて私も立ち上がりながら本題がどうも宙ぶらりんになってしまったことに気持ち悪さを抱く。だが、そもそもこの子の事情に深入りすることは避けた方がいいのだろう。どうも噂に本当の部分もあるような言い方をするし。説得も協力もしないという選択が一番良いはずだと言い聞かせて退店しようと歩き出した彼女の後を追う。

「ケーキは美味しかったです。ご馳走様」

 私はいたことを忘れてしまっていたが、彼女に声を掛けられた店長はうれしそうな顔をした。最初に来たことを告げたときは迷惑そうな顔をしていたくせに、名残惜しそうに見える。そんな彼のことは放っておいて、前に出て店のドアを開けて彼女が出て行くのを待つ。

「これ、ポイントカードか何か」

 ふと立ち止まってカウンターに置かれたカードの束を指さしている。叔父が新たに始めたサービスの一環だ。

「ええ、発行だけさせていただきましょうか」

「いいですか」

 その答えを聞いた店長は手早くカードの裏に彼女の名前、発行日時を書きこんで渡している。そんなことしてまたこの子が来店したらどうするんだ、と思うもののカードに興味を持ってもらった店長は嬉しそうだ。ケーキが気に入ってもらえたようなら私も嬉しいが。カードを無造作にスカートのポケットに入れると今度はまっすぐドアへ向かう。

「思い当たることがあったら教えてほしい」

 私には少々低いドアを難なくくぐっていった彼女は、最後に私にささやき声で伝えた。夕日に染められたその目が明るい光を放ったようで瞬きをする。告げられた言葉とその光の鮮やかさに呆然としている私をよそに彼女はあっさりと背を向ける。退店する客にかけるいつもの挨拶も言いそびれてしまい無言で見送った。

 思わぬ来客が去った後いつもの勤務時間より少し時間が過ぎたが、閉店作業を始める。いつもの比じゃないほどの疲労感を抱えて。といってもほとんど店長がしていてくれたので、思い出したテーブルに出しっぱなしの食器を下げようと戻る。テーブルには空になった皿と半分以上残されたカフェオレ、電話番号の書かれた紙が置かれていた。

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