第2話
「お待たせしました」
席におとなしく座っていた彼女は、テーブルに置かれた紙ナプキンで何やら折り紙をしていた。私が向かいの席に座ると、中途半端に折られた紙が手放される。なんとなく顔を見ることが出来なくて、彼女の手元に置かれた紙に目をやったまま改めて名乗る。
「この喫茶店で働いています、羽鳥つばさです。えっと藤見さんのお噂はかねがね伺っております」
こんなこと言わない方がよかったかな。言い終わった後の沈黙が後悔に繋がる。爪先でペンダントのチャームを弾く。いつも垂れ流しになっているくどいラジオが懐かしい。でも彼女は私より五つも年下なわけだし、そこまで気を使わなくてもいいのかもしれない。そう思い直してもぎこちなさからは抜け出せない。幼さを残した顔立ちと硬さを感じる声、彼女を取り巻く物騒な噂とに、距離感をつかみかねていた。それでも唐突に沈黙は破られる。きっと数秒の静寂だったが私には耐え難かった。
「知っているみたいだけど、上森高校の一年、藤見カヤです」
ええ、知っています。口に出かかった不躾な台詞を飲み込んで、思い切って話の本筋に切り込む。
「それで、藤見さんのお話とはいったいなんでしょうか」
同時に折りかけの紙ナプキンが握りつぶされる。ずっと視線を下げていたのが気に食わなかったのでは、と顔を上げた。表情から不機嫌なのかどうかは読み取れない。楽しんでもいなさそうだが、相変わらず視線は私ではなく店内のどこかに向けられている。このことはほんの少し私の緊張をやわらげた。
「まず、絶対に名字で呼ばないで」
「え?名字ですか。一体」
「嫌いなので」
面食らったがその要望は一応納得できるものだった。確かに名字が原因で近づくな、なんて噂されているということを知ったら不愉快にもなるだろう。名字が嫌いになる、のかもしれない。
「わかりました。では、カヤさんと呼んでもいいですか?」
「それでいいです。それで、今日来た訳ですが」
勿体ぶるように一呼吸置かれて私に目がすっと寄せられた。
「わたしの噂を聞いているならわかると思う。実はキミ、羽鳥つばささんを呪って欲しいと頼まれました」
「え」
あまりにも予想外の内容に裏返った声を上げた。その声は思ったより大きかったようで、店長が遠くから顔をのぞかせる。反射的にぎこちなくも笑みを繕って軽く頭を下げる。彼を心配させてしまったかもしれないし、ひょっとすると彼女の気に障ってしまったかもしれない。そう考えて彼が顔を引っ込めたのを確認し彼女に向き直ったが、顔色一つ変わっていなかった。彼女の気持ちを汲み取ろうとするだけ無駄なのかもしれない。
「悪い、単刀直入に言い過ぎました」
反感を買うどころか無表情でぺこりと頭を下げられて、こちらこそすみませんと何に対する謝罪か分からない反省の言葉を絞り出す。今まで聞いてきた目の前の彼女の噂が何度も頭の中で繰り返される。その多くが多種多様な『呪い』に関する物だったのだ。呪いという単語に過敏になってしまったのを、なぜか後ろめたく感じる。
「呪いって、じゃあカヤさんの噂は本当だっていうことですか」
「さあ、つばささんが聞いた噂が何か知らないんで。本当とも嘘とも言えないですね」
「つばさ…」
「名字で呼んだ方が良いですか」
「いえ、別に。お好きなように」
段々と横柄になっていく話し方とはぐらかすような言い方に、どこまで踏み込んでいいのか思案に暮れる。噂には少しでも気に障った人間を神様の力を使って呪い殺す、というものもあったか。これを直接聞いてしまったら本当でも嘘でも気には障るだろう。具体的な噂をこちらから問いただすのも失礼だが、かといってこのままでは話は進まない。彼女から噂について話してくれれば楽なのに一向に話し出す気配はない。
そもそも話したいことがあるのは向こうなのに、どうして私がこんなに悩んでいるのだろう。ここまで考えて少しずつ苛ついている自分に気づきながらも、落ち着いてゆっくりと確認した。
「あなたが呪うことが出来る、そう思った人がいて、私を呪うように頼んだんですね」
「まあ、そんなものかな、そうです」
一旦は確定させてすぐ気づく。これでは情報が何一つ増えていない。この子は一体何が言いたいのだろう。早くも店長のいう『ちゃんとした対応』を放棄したいと考え始めていた。五年前、私もこんな風に面倒くさい話し方をしていただろうか。情報量の無い、回りくどい会話を。肯定の後、続きの言葉が出てこないことにしびれを切らして質問する。
「いえ、というかその。カヤさん、つまり私を呪いに来たんですか」
「いや、そうじゃない」
おずおずと尋ねると首をぶるぶると横に振った。その子供っぽく大げさな様子に少し安心する。それもそうか、ただ私を呪うつもりなら態々話をしに来ないだろう。でも、それならばなぜ来たのだろうか。相変わらず自分から語ることはなさそうな態度に細くため息をつく。姿勢を正して改めてまっすぐ彼女を見つめると、いつの間にか目線が合わされていた。少し薄暗い店内では真っ黒に見える彼女の目を、夜空の月でも眺めているような気持ちになる。手汗をズボンで拭い、口を開く。
「じゃあ、何をしにいらっしゃったんですか」
素直に質問をぶつける。これ以上遠回りな会話を続けていたら日が暮れてしまう。実際窓の外に見える太陽はずいぶん位置を下げているように思えた。
「それは」
ようやく話の続きが聞けそうな雰囲気を感じたとき、横やりが入れられた。
「お話し中に失礼しますね」
いつの間にか近づいていた店長が足早にやって来て、トレンチに載せていた1ピースのチーズケーキとカフェオレを彼女の前に置く。私の前にも珈琲が運ばれた。
「これは」
「売れ残りで申し訳ないですが、良ければお召し上がりください」
せっかく始まりそうだった話を中断させた恨みを込めて店長をにらみつけると、何を勘違いしたのか店長が話始める。
「初めてのご来店ですよね、こちら当店で一番人気のケーキなんです。他にもタルトやロールケーキなどお出ししているんです」
彼女はそんな店長の言葉を聞いているのか、少なくとも興味を持っているのだろう、目の前のチーズケーキを見つめている。確かにうちの喫茶店が続けられているのは一時期洋菓子店を目指していた店長のケーキのおかげだろう。まずい珈琲に口を付けて、苦笑する。
「ベイクドチーズケーキが流行っていますが、こちらはレアチーズケーキですね。レモンのさわやかな味わいがありますので今日みたいに暑い日にはぴったりだと思います」
いつも通り自分のケーキを解説しはじめる店長の言葉を止めるべく空咳を数回してみる。するとようやく私の意図に気づいたのか、口をつぐんで一つ会釈し去っていく。ケーキの反応が気になるのか一度振り返りながら。彼の退出を確かめて今度は大きなため息をついた。そんな私を気にすることもなくこの子はケーキの皿を手前に引っ張っていた。
「どうぞ、食べてください」
すっかり話すことを忘れてしまった様子の彼女に諦めてフォークを差し出す。
「本当にこれ貰っていいの」
頷くと右手で銀のフォークを受けとって、大きくケーキを切り分けて口に運んでいく。すっとレアチーズの部分に差し込まれたフォークが、クッキー生地で一度止まりサクッと音を立てる。ぽろぽろと落とされるクッキー生地を気にすることもなく咀嚼し続けている。話の腰を折られたことは残念だったが、店長のケーキを美味しそうに食べている様を見られることは少しうれしくもあった。半分ほどケーキを食べてからカフェオレを口に含み、微妙な顔をするのを見守る。五年前、私も子どもっぽい夢中さを見せていただろうか。昔の自分を思い出しつつ、噂の幾つか、例えばこの子は感情がないというものは嘘だったのだとぼんやり考えていた。
「ここに来たわけだけど、つばささんを呪いたい奴の心当たりはないか、聞きに来たんだ」
唐突に訊きたかったことの答えが出てきて口の中に含んでいた珈琲を吹き出しそうになる。口の端からこぼれてしまった珈琲をブラウスの袖で拭ってしまい、黒い染みに再び慌てた。
「私を呪いたい人、ですか」
「うん、何人かは心当たりあるだろ。候補を絞るのはわたしがやるから」
慌てつつも聞き返すと、何でもないといった顔で答えつつチーズケーキの続きを食べている。一気に馴れ馴れしくなった言葉遣いに困惑したが、珈琲をこぼしていることを咎められそうにないことには安心した。
「特には、思い当たることは、ないです」
「いや、ちゃんと考えたら一人や二人、十人くらいは出てくるだろ」
「さあ、どうでしょう」
「手酷く振った元彼とか、遺産相続で揉めている兄弟とか」
「お付き合いした経験は無いですし、私一人っ子です」
なおも食い下がる言葉を無視して問いかける。
「何で、カヤさんは私を呪いたい人を知りたいんですか」
彼女が私の友達や親せきならまだわかるが、どうして見ず知らずの私に敵意を持っている人に興味を持つのだろう。
「なぜって」
虚を突かれたような表情を浮かべていることに、そしてそのあとの笑みを浮かべた顔と返答に私は息を詰めた。
「だって、むかつくから」
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