第3話 堕ちる陰

 俺は死ぬ……


 流れ出る血の感触が死を間近に感じさせる。


 冷たい……寒い……


 身体の感覚が徐々に失われていく。


 仕方がないことだ。人はいつか死ぬ。俺が死ぬのが今だというだけだ。


 だがやはり唐突過ぎる。


 いくら死ぬことを理解していても後悔の無いようには生きられなかった。


 妻が命がけで産んだ一人娘の行く末だけが心配だ。


 せめて結婚するまでは見届けてやりたかった。


「お父さん!」


 娘の声が聞こえる。


 幻聴か……


「お父さん!お父さん!」


 違うな……確かに聞こえる。


 俺は閉じかけていた目をゆっくりと開いた。


 そこには涙目になっている娘の姿があった。


「あ……」


 声を出そうとしたが口から音が出ない。


「死んじゃやだよ!お父さんまでいなくなったら私、一人ぼっちになっちゃう!」


 娘のこんな声は初めて聞いた。


 昔から大人しくて自分の意見をあまり言えない子だったはずなのに、こんなにも成長したのか。


 俺はそんな姿を見れて少し嬉しかった。


「私のせいだ。私がいうことを聞かなかったから……」


 娘の様子はさっきと一変していた。


 違う、お前のせいじゃない。


 俺の声は娘の耳には届かない。


 これは運命なんだ。


 いつか死ぬという運命に人のちっぽけな行動は介在しない。


「私がこんなところにいたから……」


 違う……


 死は誰にでも訪れる。


 それが早いか遅いか、ただそれだけだ。


 お前のせいなんてことはあり得ない。


 口にしたい言葉はそこから出てくることはない。


 娘は泣きじゃくり、俺の手をギュッと握る。


 俺は娘の手を握り返す。弱々しく握られた手に娘は反応した。


「お父さん?!」


 多分これが最後の言葉になる。


 俺は言葉の出ない口を動かす。


「え?」


 俺の手は娘の手から滑り落ちた。


 温かいぬくもりから離れ、また指先が冷たくなっていく。


 意識が遠退き、眠りにつく前のように思考が出来なくなっていく。


「お父さん!」


 娘の声も徐々に届かなくなっていく。


 俺は娘に何を残せたのだろうか。


 それだけが気がかりだった。

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