story:14
静まり返った室内に響くのは、チョークで黒板に文字を書く小気味良い音と、合間に聞こえる現代社会担当の教員による解説のみ。1年4組の教室では、大半の生徒が真面目に授業を受けており、中には居眠りをしている生徒も2人程見受けられるが、そういった者は逆に周囲の落ち着きを助長させている。
そんな緩めの閉鎖感がある環境の中で、朝山陽菜は遠くの席に座る友人、赤星美愛へチラチラと視線を向けていた。
(美愛、ついに言ったんだね)
やはり、自らの真実を告げる日が来てしまったか。自分が直接、純哉にその手のことを聞かれた際はいよいよかと思ったが、案の定だった。授業の内容を聞き流しつつ、陽菜は机に頬杖をついて溜め息を吐いた。
美愛の友人という立場をもってして、陽菜は彼女たちの現状について思いを巡らせる。これから美愛と純哉がどう過ごしていくのか、先日の経緯も踏まえて話を聞いたが、当人の心境を深堀して考えると胸が痛むものだ。
美愛が純哉に対して、自身が抱える事情を打ち明けてからというもの、2人は互いに考えがまとまるまで身を寄せ合っていた。
諸々考え抜いた果てに、解散したのは22時半過ぎだった。それまでに一つひとつの情報を処理し、これからの方針や考えをまとめた純哉と美愛。
脳内が忙しなく掻き乱される中、先に口を開いたのは純哉の方だった。
「……まずさ、どちらにしても俺はずっと赤星さ、美愛に付き合うよ」
本人の希望に沿い、純哉は呼称を言い直す。残り少ない時間の中で、一つでも多く彼女の要望を叶えてあげなければならないと思っての言動だ。
「あとはなんていうか……、失うのは、俺も慣れとるつもりよ」
考えすぎて発言もちぐはぐになる。だが、例え言葉が支離滅裂になろうとも、伝えておくべきことは悔いなく全て伝え切ろうと思った。喪失に慣れているというのは、過去の失恋から由来する自信にも近い免疫のようなものだ。
「だから、もし美愛が1秒後に死ぬとしても、俺は君のことを支えるし、……一緒に居る時間を、可能な限り保障する」
それは、ある種の誓いだった。彼に抱き締められたままの美愛は、静かにその言葉に聞き入る。
「………純哉、ありがとう」
ありふれた常套句ではあまりにもチープで、全くもって足りない。それでも必死に熟慮しても、出てきたのはその5文字だった。出来るものなら、互いの心を満たせるぐらいの返事を伝えたい。
そうして行き着いた結論とは、限られた時間の中で可能な限りともに過ごし、添い遂げようといった覚悟だった。後にも先にも、現実を塗り替えることなど出来ないのだから。
そして、赤星家の実態については、美愛自身が現時点では対応が可能である旨を自分から言ったため、必要以上に干渉せずに様子を窺う。しかし、警戒心は絶対に解かない。美愛にもしものことがあった場合も踏まえ、常に意識を向けておく。
たちまちは、夜に母親が外出している間に発作が起きた際や、精神的に危うくなった時のことも考えて、互いに連絡は密に取れるようにもする。保護が手薄になっている際に死んでしまったら、助かるはずの命も助けられず後悔することになるのは目に見えているからだ。
最も良いのは、純哉の家で居候でもすることなのだろうが、それは現実的ではないし、美愛の親がどう食って掛かってくるか分からない。ましてや美愛の方からも断っているので、今のところは彼女の意向に任せるしかなかった。
その他にも虐待の通告をするべきかという考えも頭の中でチラついたが、証拠を押さえていないのでその手の機関にも頼れない。よって、結局は自分たちで出来ることをしていくしかないと思った。
(本当に大丈夫なの?)
陽菜の脳裏に浮かぶのは、美愛の持病について知った春の日のことだ。高校に入学して1ヶ月程経とうとしていた時だったか、彼女は授業と授業の合間の10分休憩中に、陽菜と談笑をしていたところで突然意識を失った。
当然ながら、その時は何が起こったのか分からなかった。理解が追い付かなかったといってもいい。
最初は、貧血で倒れてしまったのかと思っていた。だからこそ次の授業の担当教員に報告し、自身も同伴して保健室へ向かう。
しかし、救急車沙汰になったことを確信すると、それはただごとではないと悟る。酸素マスクを口元に取り付けられた美愛が、担架で運ばれていくのを見て、陽菜は少なからずショックを受けた。
それこそ、視覚から与えられた情報が多過ぎて何から考えていいのか分からなかった。
美愛はその日から、2週間ほど入院することになり、かかりつけの病院に到着して早速緊急手術が行われたという。後日、見舞いに行った陽菜は、そこで初めて彼女の病気について聞かされる。
まさか、高校生になって最初に出来た友人が、そんな大病を患っていたとは。酷く動揺してしまった当時の感覚が、今も胸中に色濃く残っている。
正直なところ、未だに美愛とどう向き合って良いのか分からない部分もあった。友人として話を聞いたり、一緒に遊びに出たりはしているが、それ以上のものを求めれば求めるほど答えが不明瞭になってゆく。
ただ、ひとまず明確になっていることは、赤星美愛は陽菜にとって数いる大切な友人の1人ということだ。
例え明日にでも急に死んでしまうような病を背負っていたとしても、美愛が大事な友人であることに変わりはない。もっといえば、これで特別扱いでもすれば逆差別になって失礼になり兼ねないのだから。
だが、自分よりも更に近い関係、いわゆる彼氏の立場からすればどうか。相手の気持ちや想いなどは想像でしか分からないが、それだけでもかなり胸が痛む。
もしかすれば、今日にでも一生を終えてしまうかもしれない恋人。陽菜の心は、まるで鋭いナイフで刺されたように強く刺激された。
休憩時間になり、3年6組の教室内では生徒たちの談笑する声が上がり始めて、しだいに賑やかになる。クラスメートたちは各々の友人グループで固まって雑談を交わしたり、スマホの画面に目を向けてゲームをしたりしている中、尼川和希はまごついていた。
「冬田、大丈夫なんか?」
彼の視線の先に居るのは、机に頬杖をついて窓から見える碧空を仰ぐ純哉。顔が反対側を向いているため、その表情はこちらからは確認できない。
するとそこで、糸井が尼川の左肘を小突きながらフランクな調子で声を掛けた。
「心配なんか、尼川さん? ゆうても冬田さん、割と元気そうよ?」
「とはいってもね……」
美愛の事情とこれからの方針については、すでに純哉から直接話を聞いている。元気そうだといえど、本当は無理をして強がっているのではないだろうか。
何か声を掛けてやるべきかと考えても、どんなことを言えば良いのか見当がつかない。下手なことを言って純哉を更に精神的に追い詰めてしまえば元も子もないし、無意味な行為で終わる。
ならば、敢えて何も言わない方がいいのではなかろうか。そう思い始めたところで、純哉の方がこちら側に振り向いて2人を呼んだ。
「どしたん? 糸井、尼川?」
尼川は一瞬、呆気に取られる。彼の表情は、薄い雲が掛かった秋空のように澄んでいた。爽やかな雰囲気だが、どことなく哀愁を感じる。
「さっきからすげー視線を感じてたんだけど」
言いながらはにかむ純哉のもとに、糸井と尼川が歩み寄った。毎度のように彼の机の周囲にたむろする尼川は、相手の心の余裕を見越して気遣いの意を口にする。
「あ、いやね。大丈夫かなーって思ってさ」
対する純哉は、小首を傾げた。
「ん? なにが?」
すると尼川は言葉を詰まらせ、会話の流れをつい純哉に丸投げする。
「………察してくれ、これでも心配だったんだよ」
「……ああ、そのことか」
少し考えて、純哉は納得した。純哉は砕けた微笑みを浮かべて、堂々と答えてみせる。
「大丈夫よ、一応慣れたつもりではいるんで」
喪失は、今に始まったことではない。すでに致命的といっていいほどのショックは、前々から受けていたのだから。純哉は至って落ち着いた調子で言葉を返した。
「慣れたつもりって、お前な……」
果たしてそれは慣れて良い類いのものなのだろうか。いや、長い目で見れば、人が成長する上で必要な経験であり、挫折でもあったりする。
後ろ向きに考えれば、とことん悪い意味でしか捉えられないが、前向きに考えれば喪失感を乗り越えるための引き出しにもなり得るだろう。要するに自分を取り巻く“何か”が起こった時に、それをどう捉えるかだ。
個人差はあるものの、多少は挫折に対する免疫がつくのではなかろうか。呆気に取られ気味な尼川に、純哉は自論も交えて語る。
「だってよ、よくよく考えたらこうなる時が来ることって有り得たわけじゃん?」
仮に純哉と美愛が結婚し、一生添い遂げるとしてもいずれは寿命が尽きて別れの日が来ていたと。それが早いか遅いかの話だといった意味で、純哉は答えた。
「だから敢えて俺たちは、いつも通りの平常運転よ」
自分は就職活動などで忙しいが、上手いこと時間を作って少しでもやりたいことをやって、彼女の希望を叶えてやりたい。最後の恋として、自分は彼女を選び、彼女も自分を選んだのだから。
今を生きる純哉と美愛の選択は、本人たちにしか決められない。
「そうか………」
尼川はもう何も言えなかった。というより、言う必要が無いと思った。ここまで現実を甘受しているのなら、あとのことは当人たちに全てを任せる。
よって尼川も、傍らに立つ糸井も、今までと変わらず接することにした。
「あぁ、要らん気を遣わせてごめんな?」
「いやいや、そんなことはないって。謝るなよ」
また柔らかく笑い、へりくだって言う純哉。対する尼川も安心し切った表情で謙遜した。
ひとまず彼への心配は、一抹の杞憂だったと思える。
純哉自身のことも含めて、どうしようもない宿命を背負った美愛に対して自分が出来ることは皆無だといってもいい。しかし、純哉の連れとして、その時その時の最善は尽くす気でいる。
「とにかく、俺らのことは心配せんでも大丈夫よ」
真冬の太陽のような、少し頼りない純哉の笑顔が淡く輝いた。
今日は何事も無く1日を終えて帰宅した。発作も動悸も起きていない。普通に午前と午後の授業を受け、部活にも出席し、下校時は先日と同じように就職試験の対策を終えた彼と帰路につく。
典型的な高校生カップルの日常の一コマだが、美愛にとってはその1秒1秒がとても愛おしい。それは、純哉も同じ気持ちだった。だからこそ、一瞬の間の細かな時間でさえも特別なものに感じる。
恋人と居た幸福感による余韻を引きずっているのもさることながら、美愛は上機嫌な様子でキッチンに立ち、夕食の用意を進めていた。
まな板にピーマン、玉ねぎ、にんじんといった野菜を並べ、マイペースな手際で順々にそれらをみじん切りにしていく美愛。母親が夜に不在の時は、1人で2人分の夕食を作る。
美愛は元々料理が得意な方ではないが、ここ最近母親が家に居ることが少ないのもあって、スマホのアプリを使用しながら独学で調理方法などを学んでいった。まだぎこちなさはあるものの、完成品はきちんと食べられるものである。
野菜を切り終えてボウルに移した直後、あろうことか玄関の方からドアの鍵が開く音がした。
(…………なんで?)
美愛は手を止め、表情を強張らせて身を震わせる。自宅の鍵は自分と母親しか持っておらず、今の時間帯は他に誰も帰ってくることはないはずだ。
となれば、このタイミングで鍵が開けられること自体がイレギュラーなことである。
「……………………」
訝しみつつ、警戒心を持って恐る恐る玄関へ向かう美愛。張り詰めた緊張感が室内を支配する中、美愛は家の廊下を歩く。すると、そこに立っていたのは美愛の母親、紗代だった。
「母さん……」
母親の顔は青白く、目元のクマはより濃くなっていて今にも倒れそうなぐらいふらふらだ。身から滲み出る雰囲気も、それこそ生気というものを感じられない。ましてや、いつもなら深夜に帰ってくるはずなのに、今日は随分と帰宅が早いではないか。
「美愛ぁ………っ!」
娘の名前を呼びながら、ついに紗代はその場で崩れ落ちるように倒れ伏した。当の美愛は困惑気味に、紗代の横顔を覗き込む。そして、睨みを利かせた鋭い眼光が、彼女に注がれる。
「美愛、あんた、いつまで生きるの………?」
冷淡に残酷に、あしらうように紗代は言った。絞り出したその一言は、とても悪意に満ちている。対する美愛は、相手の圧も合間って竦み上がった。
「死ぬんならさぁ……! 早く死んで欲しいんだけど……! 私はもう、疲れたのよっ……!」
これが、これが娘に対して実の親が言うことか。しかしそんな中傷も、良い加減聞き慣れた。悲しいだとか、辛いだとかいう感情を通り越して、まるで蚊に刺されたレベルの精神的ダメージのように感じる。
「いつまで、こんな不幸を被らなくちゃいけないの……っ!」
正直なところ、純哉がこの場に居れば間違いなく彼は紗代に殴りかかっていただろう。疫病神として扱われながらも、美愛は母親からの罵詈雑言を聞き流し、介抱に当たろうとする。
先日、自分が倒れた際に母親が救急に連絡したように、こちらも同じ対応を取るべきだ。身体的にも精神的にも極限の状態ならお互い様であろう。
そうして、部屋着のポケットに入れていたスマホに手をかけようとした矢先、またしても紗代は声を絞り出して口撃する。
「なにしてんのよ……! あんたはさっさとやることをやんなさい……!」
自分に構わず、早く夕食を作るなりしろと。怒れる紗代に、美愛は無表情かつ淡々とした口調で聞き返す。
「でも、母さんはしんどそうじゃん」
「いいから……! さっさと私の前から消えてよ……!」
「……分かった」
もはや何を言っても無駄か。激昂する紗代から視線を外し、美愛は不安定な足取りでキッチンへ戻っていく。もう何も考えなくていい、逆に相手から距離を取るべきだと感じた。寧ろ母親が望んでいるのは、そちらの方なのだから。
一方の紗代は、弱々しい眼差しで美愛の後ろ姿を見詰める。その真意は何なのか、相反する心境が胸中で疼く。
(………ごめんね、あと少しだから)
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