story:9
例えこの場所がなくなってしまっても、自分にはもう拠り所がある。それだけで、なんと心強いのだろうか。何かあればいつでも逃げられるし、最悪の場合は一緒にどこかへ行ってしまうことも不可能ではないであろう。
いや、さすがに宛てのない逃避行ともなれば甘え過ぎか。仮にそうなってしまえば、残されたものたちはどうなるというのだ。はたまた行き着いた先で灯火が消えようものなら、すべてのしわ寄せは彼に行く。そんなことになれば、ただ相手を不幸にするだけだ。決して有り得てはいけない話である。
どうしようもなく無駄で、痛ささえも覚えるほどの稚拙な妄想を打ち消し、美愛は西日に照らされたリビングに足を踏み入れた。
「ただいま………」
帰宅した際の決まり文句を言ってみても、反応は無い。というより、同居人は答えようとしなかった。
キッチンで夕食の準備を進めている美愛の母親、
また、それでいて右手に包丁を握りササミといった肉類の処理をしていることから、その不気味さを一層助長させている。
返されるのは、ただただ冷たい無言。室内にこだまするのは、主に煮物をぐつぐつと煮る音のみ。気温は高いが、部屋の空気感だけは極寒の如く冷たかった。
張り詰めた時間が延々と流れる中、紗代は視線を動かさず美愛に促す。
「帰ってきたんだ。だったらさっさとこっち手伝ってよ、アンタが出てる間にやることやったんだからさ」
淡々とした口調で、吐き捨てるように言う母親に、美愛は感情を消して頷く。
「はい……」
母子ともに、覇気が無い。2人とも、気力が枯渇しているようだ。母親の指示のもと、美愛は家事を手伝う以前に手を洗うため、洗面所に向かう。
その先で気が抜けたのか、美愛は急に胃を圧迫されて呼吸を乱す。
「っ……! はぁっ……! はぁっ……!」
壁に寄り掛かり、自らの身体を支える美愛。掌に痺れが伝う。息を吐くことは出来ても、吸うことが出来ない。瞳孔も小刻みに震え、目の焦点も定まらなくなってきた。
「……っ! ……っ!」
拠り所を確保して報われても、それは所詮一部だけだったということか。結局は、自分にとっての最大の課題を解消しなければ何も変わらない。現実は、嫌でも現実なのだ。
1秒ずつが死闘の中、美愛はなけなしの精神力でその身を立たせた。
高校生活最後の夏休みは、あっという間に過ぎ去っていった。長期休暇前に配られた夏休みの課題は早い段階で全て終わらせ、あとは余裕を持ち寄って友人や相方と遊び、時間を共有する。
特に相方とは、おはようからおやすみまで毎日のようにラインを取り合い、時には友人からの誘いを断って街へ出掛けた。もちろん、断りを入れる際は、申し訳無いとも思う。
しかし、その上で気になることもあった。不定期だが、彼女との連絡が3日間か5日間ぐらい途絶えることがあったのだ。しかも、その間は既読すら付かない。
元々予定が入っていたのなら、普段の会話の中で話してくるとは思っていたが、そこは敢えて突っ込まなかった。向こうは向こうなりの用事があるのだろう。いくら前より近い距離感になったとはいえ、触れられたくない部分は多かれ少なかれあるはずだ。
だからこそ、唐突に家族旅行にでも行ったのではないかと思い直すことにした。
そうして、長期休暇中特有のフリーダムな時間を過ごしているうちに、夏休みも残すところあと3日となる。
薄暗い店内をネオンの灯りが仄かに照らすアミューズメント施設の一画で、冬田純哉は同級生の友人たちとダーツに興じていた。今日は午後から街中に出て、適当にぶらぶらと練り歩いている。
ルールは501から始まるゼロワンで行い、先に数値をちょうど0まで減らした者が勝ちだ。糸井、尼川の順番を経て、純哉が3本の矢を持って指定された線まで歩み寄る。
あまり気張ることはせず、肩の力を抜いて次々と矢を投げる純哉。
すると、2本の矢は吸い込まれるように的の真ん中より端、もといアウターブルに刺さり、残りの1本は17のトリプルリングに刺さった。1ターン目から、かなり幸先の良いスタートである。
「………おぉ!」
まさかいきなりここまで追い上げるとは。純哉は自分でも驚いたようで、さり気なくガッツポーズを取る。後ろの席に座って次の番を待っていた糸井と尼川からも、歓声が上がった。
「調子良いねぇ、冬田さん!」
「いや、いきなりそれはヤバすぎだろ」
狙って決めたわけではないが故に、純哉も実感が無いようだ。よって彼は、歓喜を含んだ笑みを浮かべて謙遜する。
「いやぁ、でもあとはバーストせんようにしないとよ……」
点数を取り過ぎて0を超えてしまわないよう、充分に気を付けて投げていかなければならない。そうでなければ、いつまで経ってもあがれないし、逆転されてしまうかも知れないのだ。
「いうても流れが来とるねぇ! これはちょっと主人公補正が利き過ぎじゃあないんか?」
「主人公補正ってなんやねん……」
ノリに合わせたことを言って席を立つ糸井に、純哉は若干噴き笑いをして突っ込みを入れた。今の時点では糸井と尼川が400代で数値が並んでいる。
だが、最初こそ良かったものの、純哉は1桁代まで下げたところでバーストを連発し、結局勝ったのは後々追い上げた尼川だった。狙う部分が少なくなったため、逆に狙い過ぎて点数が高いところに刺さりまくったのだという。
「………主人公は尼川さんだった」
苦笑して、糸井が訂正した。意外な逆転劇があったのは、尼川だった。本人も何とも言えないといった調子で笑っているが、開き直って言葉を絞り出す。
「ドンマイよ、冬田! そーゆーこともあるって!」
「いや、お前が言うと煽りにしか聞こえんよ」
仲間内だからこそのノリか。そのためこうした砕けた会話も出来る。
友人同士のノリは更に発展し、糸井が2人に対してふざけた提案をした。
「じゃあ、次はカウントアップで最下位だった奴は誰でもええけん夏休み明けにクラスの女子3人に告るってのやろーで!」
「クラスで3人はわやだろ! てかそれただの告り魔じゃ!」
尼川が笑いを堪えながら言う。傍らに立つ純哉は顔をひきつらせた。
(いや、俺もう居るんですがそれは……)
純哉の脳裏には美愛が浮かぶ。あれだけ濃い経緯を経て繋がったのに、ネタや罰ゲームでも他の女子に労力を注ぐのはかなりの抵抗があった。一瞬とはいえ、浮気は論外だ。
そのため次のゲームは、何が何でも負けられない。空回りしないことを意識して、純哉は勝負に乗る。
結果的にその勝負は、純哉と僅差で糸井が負け、まさかの言い出しっぺが最下位になるというギャグみたいな始末となった。
「……やっぱ尼川さんと冬田さんが主人公じゃ!」
「キレーなオチをありがとうございまーす」
負け惜しみのように言ってゲラゲラ笑う糸井に、尼川は相手の眼前で合掌して合いの手を入れる。一方の純哉はギリギリで勝ったのもありきで、胸に右手を当てて安堵し、肩を撫で降ろしていた。
(あっぶねぇな、おい……)
負けた場合どうしようかと思っていたところである。正直に美愛と付き合い始めた件を言っても、罰ゲームで言わされたようになって格好が付かないし、そのまま流れに身を任せても後々面倒臭いことになりそうだ。
とにもかくにも、今回は糸井の自爆で終わった。
それからはただなんとなくダーツを続け、一同が飽き始めた頃、椅子に座って休憩していた糸井が何気なく純哉に尋ねる。
「そういえば冬田さん、最近何かいいことあった?」
「え? なんで?」
「いやぁ、前より雰囲気が明るくなったような気がしたけぇさ」
「それさ、元が暗いみたいじゃんか。失礼だな、おい」
普通に言えば失言だが、先日のことを踏まえれば以前より余裕が出てきたのは間違いない。図星のように笑う純哉は、話しを繋げて聞き返す。
「てかそれ、親父にも言われたけど何でそう思う?」
過去を清算し、精神的に報われて前に進むことが出来た。その事実が肯定的なものとして、自身のまとう空気感から溢れ出ているとは。
「分かった冬田、彼女できた?」
あてずっぽうで、尼川が訊いた。対する純哉は、涼しい顔をして堂々と答える。
「なわけ、彼はそんなモテるような奴じゃあないよ」
思ったことを表情に出さないのは癖付いているので、一見すると自然な対応に見えた。だが、彼のペースを糸井が崩す。
「えっ? 違うん? その割には最近付き合いが悪いのは他に何かあるん?」
「…………………ん?」
斜め上の返しに、純哉は固まった。そういえばこの夏休み中、美愛と会う際は適当な理由をつけて連れからの誘いを断っていた気がする。
自分らしくもなく、拠り所が出来て浮かれていたのか。よって断りを入れる時に考えた返事も曖昧で、尚且つ明確なものではなかった。
やはり慣れていない状況に身を置くと、思考も鈍るようだ。このまま黙っていてもバレるのは時間の問題だろうし、彼女も友人に自分と付き合っていることを公言しているらしいので、純哉は連れに免じて打ち明ける。
「そうね、尼川。当たりよ……」
「えっ? マジか」
ここだけの話に留めておくという前置きをし、純哉は先日のことを尼川と糸井にかいつまんで話す。それ以前に連絡先を聞かれてラインでやりとりをしていたことや、最終的に互いの想いを伝え合ったことまで言い述べた。
一部始終を聞き終え、感動した様子で純哉を見詰める糸井と尼川。すると糸井は、綻び切った表情で口を開く。
「そうか、俺らの知らんところでそういう話になっとったんか。でも、凄いトントン拍子にいったんじゃね」
次いで尼川も頷き、納得したように言葉を添える。
「やっぱり、あの子にとって冬田は出会うべき人だったんだと思うよ?」
それは逆も然りだ。純哉にとっても、美愛は会うべき存在だったという。安定した面持ちで、尼川は微笑んだ。
「まぁ、どうにしても冬田さんとあの子が報われて良かったよ。これから深く関わっていくと喧嘩したりもするかもだけど、冬田さんなら大丈夫でしょ」
今までより近い距離感にあるのなら、互いの良い部分だけでなく悪い部分も見えてくるであろう。連れのこれからを気遣って言う糸井に、純哉は柄にもなく照れ顔を晒す。
「ふはっ、どうかな? まぁ、何が起こるか分からんけどね!」
ともに過ごす時間が減っても、自分たちの繋がりは切れないし、ずっと続いていく。いうならば、純哉の居場所が1つ増えただけである。
そして糸井や尼川からしても、純哉が報われたことが何よりも嬉しかった。
「そうかぁ、向こうにとっても最後のつもりなんだよねぇ」
木製のテーブルを挟み、頬杖をついて対面に向かう陽菜は、納得の意味を含んだ笑みを浮かべて頷いた。彼女の側に置かれているアイスコーヒーのステンレスカップは、結露で水気を帯びている。
純哉たちがアミューズメント施設で遊んでいる一方、美愛と陽菜は異国情緒溢れるオシャレなカフェに足を運んでいた。街中からやや離れたところにあるこのカフェは、美愛が前々から気になっていたため、今日は友人を誘ってきたのだという。
店内には趣のあるジャズピアノの音楽が流れており、無条件に落ち着きと癒しを与えているようだ。
2人の間で展開されている話題は、美愛と純哉が付き合い始めるまでの経緯についてである。あらかじめ陽菜はそのことを簡単に聞いていたが、この日はより深く掘り下げて話す。
「なんだかなぁ、でも美愛のことだけを考えたらそれはそれでよかったとは思うよ?」
「………うん」
歯切れ悪く、美愛は答えた。陽菜曰く、2人が同意の上で付き合いを始めたのならそれでいいのではないかとのことである。
しかし、先行きを考えれば幸せかといえばそうではない。不幸は尽きないし、自身の背負う宿命は、日に日に存在感を増している。ましてや、結果的にほとんどのしわ寄せが彼へといくのが辛い。
「あとはねぇ、2人で一緒に乗り越えましたーって感じになればまたそれで格好は付くんだろうけど……」
最後に一言添えて、陽菜は言葉を切る。
「どっちにしても、美愛が冬田先輩のことが好きなのは応援させてもらうよ」
「……うん。ありがとう、陽菜」
美愛は穏やかに笑い、礼を言った。そして次に、会話の流れが一転する。
「それとさぁ、陽菜。話は変わるんだけど……」
「うん?」
予想していなかった切り返しに、陽菜は疑問符を浮かべた。自分のこと、想い人のこと、それ以外のことで、美愛は解答の無い意見を相手に求める。
「最近さ、ウチの母さんが夜に出ていくことが増えたんだけど、何かあるのかな?」
「………えぇ?」
友人に相談するには相応しくないものかも知れない。頭では分かっていても、その不信感は拭うことが出来なかった。
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