story:8

彼は目を合わさない。その瞳は、自分の過去に思いを巡らせ、憂いているようだった。いつも優しい眼差しを向けている彼の、見たこともない一面だ。


「俺はもう、本気で誰かを好きになることは出来ない。だから、俺は赤星さんの気持ちに応えることも出来そうにない。ごめんね、気持ちは凄く嬉しいんだけどね……」


「……………………」


ふられたのか。自分にとって最後になるはずの恋は、こんなにもあっさりと終わってしまったというのだろうか。美愛の心は強く締め付けられ、息苦しさを覚えた。


「そう……ですか……」


こんなところにまで来て、どうしてこんな辛い思いをしなければならないのか。いや、元はといえば自分が誘ったからだ。しかし、問題はそこではない気がする。


自分がまともに生きていられたら、ここまで複雑な思いにも駆られなかったはずだ。己の体内で疼く影が、ありさえしなければ同じ状況になっても恐らくましだった。


何もかもが整理しきれず、美愛は目に涙を浮かべる。心のダムが今にも決壊しそうになったタイミングで、純哉が返事の続きを紡ぎ出した。


「でもな、そうとは言っても、不思議なことに君のことをずっと考えてる自分も居たんだよな」


「……え?」


「どうしたもんかな、赤星さん。こんなはずじゃなかったんだけどな。人を好きになる資格も無い、ただの負け犬である俺が、また人を好きになりそうになってんだ。おかしいよな」


怒っているような笑っているような、とても矛盾した表情だ。逆に美愛も、追い詰められているのに救われたような、筆舌し難い感覚だった。


どうしていいか、何を言って良いか分からず、美愛はただ無言を貫く。対する純哉は、もはやヤケクソだといわんばかりに愚痴を、いや、自分の過去を吐き出す。糸井や尼川のような近しい友人にも語ったことがない、純哉を縛り付ける呪縛を。


「……中学の時さ、好きな人が居たんだよ。でも、俺がどれだけその人に尽くしても、その人は俺に振り向いてはくれなかった。それで、結局その人は先輩とデキてさ、俺は挫折した挙句に精神壊して1週間ぐらい寝たきりになってしまった。情けない以外なにものでもないだろ?」


想い人のために、必死で自分を変えようと努力した。クラスの誰よりも目立てるように、遊ぶ時間を惜しんで勉強や部活に力を注ぎ、異性とのコミュニケーションや気遣いについてなども独学で学んだ。


中学時代の同性の友人とも仲良くし、想い人に対して自分の存在を精一杯アピールした。身だしなみや立ち振る舞いにも、その時の自分が出来る限り気を遣ってきた。


それでも想い人が選んだのは、純哉にとって顔も名前も知らない先輩だったというのだ。


悔しくてたまらなかった。あれだけ心血を注いで日々を過ごしてきたのに、何一つとして報われなかったのだ。


何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。もう人を好きになることなんて出来ない。恋なんてものは余計な感情で、人の心を壊すマイナスな要素でしかないのだ。精神が破綻し、1週間程ベッドから起き上がれなくなったことが、まるで昨日のことのように思い起される。


当時の状況がフラッシュバックし、純哉は内に秘めていた怒りを爆発させる。感情を抑えようとして無理矢理笑顔を浮かべているが、それが作ったものであることはバレバレだし、今にも泣きだしそうだ。


「あぁ……、ごめんな、赤星さん。そんな感じでさ、俺は恋に負けたんよ……。人を好きになってもな……、なんだろうな……、もうよく分かんねぇ……」


「…………………………」


美愛も純哉も、互いに返す言葉が見つからなかった。ただ、美愛からしてみればこれだけは言える。


「そんな、心がボロボロになるまで好きな人のために頑張った冬田先輩は、凄いと思います……。正直言って、尊敬します……」


決して気休めなどではない。それに報われはしなかったが、負けてはいないではないか。現に目の前の後輩に対して好意が芽生え始め、一歩を踏み出そうとしているのだから。


しかも、当時の努力の甲斐もあって女子に対して褒める癖もついているし、感情のコントロールも出来ている。


長い目で見れば、負けのような勝ちだった。


純哉は今一度、美愛を見詰める。目には涙が溜まっているようだが、ただならぬ力強さが確かに宿っていた。


「赤星さん、可能なら俺にチャンスをくれない?」


「チャンス、ですか?」


もし許されるのなら、美愛への想いだけは特別なものとして許容して欲しい。次に純哉は、美愛にとって最も幸せで、最も残酷なことを伝える。


「俺と付き合って欲しい、です」


この瞬間、美愛の時間はピタリと止まった。あんな話を聞いた後に、宿命を背負った自分が受け入れてもよいものか。もしものことがあれば、彼にまた深い心の傷を負わせてしまう。


彼の真実を知ってからは、そこがネックになった。だからこそ美愛は、答えを返す前に確認を取る。


「……冬田先輩は、これを最後の恋にしたいと思いますか?」


我ながら変な質問だと思った。だが、自分の状況と彼の背景を汲めば辻褄は合うだろう。若干の認識のズレはあっても、答えはどちらにしても一緒だった。


「……そうだな。人を想うのがあんだけ辛いもんだって分かりゃ、最後の恋は君がいいよ」


これで心は決まった。あわよくば2人で辛さを、現実を乗り越えていきたいところである。


美愛は複雑な笑顔のまま、返事を口にした。


「じゃあ、これからお願いしますね?」


嬉しい、喜ばしいだけでは物足りない。しかし哀しくもあり、寂しくもある。気付くと美愛の双眸からは、温かい涙が溢れ出し、頬を伝っていた。


「やっと目を動かして笑ったと思ったら、今度は泣くんかい。忙しいね、君は」


「うへへへへ……、そんなことっ……ないですよ……!」


可愛らしい顔に似合わぬ下卑た笑い方は健在か。砕けた笑顔を浮かべて突っ込みを入れる純哉は、ようやく本音で美愛にものを言える。


「うへへっ、うはははははっ……!」


豪快に笑いながら、美愛は延々と涙を流す。しかし、どうしたことだろうか。涙が、止まらない。まるで地獄から天国に引き上げられたような、この上無いほどの安堵感も美愛の胸中でくすぶっていた。


「はー、泣くか笑うかどっちかにしんさいやって言いたいとこだけど、まずはちょっと落ち着こうか。あっちらへんの石段で休憩しような?」


やれやれといった調子で、ついつい美愛の世話を焼いてしまう純哉。そのまま彼は美愛の右腕を掴んで引き寄せ、海が見える方角の石段に座らせた。


あとは敢えて言葉を掛けず、泣いている彼女の側にただ寄り添う。さすが、猛暑の中に居るだけあって、流した涙はすぐに乾いた。


しばらくして涙が止まったのを確認すると、純哉はあらかじめポケットにしのばせておいたポケットティッシュを手渡し、涙の跡を拭うよう促す。


「はい、あとはこれで拭きんさい? それでちょっとは落ち着いたかな?」


「はい、だいぶ……。……っはは!」


「だったら良かったよ、色々と溜まってたものがあったんでしょ?」


「へへへっ、それは冬田先輩もでしょ! ちょっとさっきの冬田先輩は恐かったよ?」


どちらにしても、それはお互い様だった。2人はまるで、写し鏡のように楽し気に笑い合う。大分泣いたが、美愛の化粧については元々リップだけ目立っていたので全くといっていいほど崩れていなかった。


「ていうか暑いね! で、これからどうする?」


頬に両手を押し当て、汗を拭いながら純哉が訊く。割かし長い間外に居たため、上下の下着まで汗に濡れてびしょびょだった。


暑さでぐったりしている純哉に対し、美愛がはにかみながら言う。


「向こうにレストランありましたよね? そこでご飯食べましょうよ」


気のせいか、美愛の喋り方が先程よりフランクになったように思える。元より何かしらのストレスは抱えていても、今は嫌なことを忘れているのか。一時的だとしても、それは良い傾向だ。


「あー、そうね。そういや昼食べてなかったもんね」


2人は立ち上がり、石段からウッドデッキに移動してその上を歩く。暑さも合間っていつもより食欲がない気がするが、これからのことを考えて食べなければ夜までもたないであろう。


レストランで食事を終えた後は、再び辺りを散歩して帰路につく。ちなみに今日の純哉の昼食は、また麺だった。


来た時と同じように、バスと電車を経由して待ち合わせ場所だった最寄り駅へ約1時間半かけて戻る。現在時刻は17時半前だったが、さすが夏の夕方は空が明るい。


大勢の人々が歩く駅のホーム、改札口を通り抜けて、2人は一旦足を止めて美愛から礼を言う。


「今日は、ありがとうございました。色々と……」


まさかあれほど濃い1日になるとは、美愛も純哉も全くもって思わなかった。


「こちらこそだよ、赤星さん。あとごめんな、なんかメチャクチャ愚痴っちゃったけど……」


「全然良いですよ、寧ろ先輩のことをたくさん知れて良かったです」


「まぁー、どうしようもないぐらい情けない話だったけどね」


そんな卑下した相槌を、美愛は優しく頷いて黙殺する。彼女の瞳は清らかに澄んでおり、いつまでもじっと見詰めて純哉に見惚れているようだ。


対する純哉はラフに笑い、分かれの挨拶を口にする。


「じゃ、気を付けて帰りなよ? またね」


それだけを言って、純哉は背を向けた。だが、不意打ちのように後ろから左腕を掴まれる。


「………………えっ?」


美愛の柔らかな手の感触を感じながら、純哉は振り返った。竦む純哉に対して、美愛は先刻からの表情のまま固まっている。


「ちょっ……、どうかした……?」


目元が硬直しているように見えるため、失礼ながらホラー的な一幕を彷彿とさせた。本人からしてみればそんなつもりはないのだろうが、純哉は突発的な恐怖を覚える。


しかも、腕を握る手にもだんだん力が入ってきているような。


たちまち美愛はニヤリと口角を上げ、帰り際の一言を添える。


「……冬田先輩、また連絡してもいいですか?」


「……あ、あぁ」


明らかに不自然な笑顔だと分かったが、ひとまずは相手の質問に対して無難に応じる。怪訝な表情で美愛を見やる純哉と不気味さを含んだ笑みを浮かべる美愛。


(冬田先輩、ちょっと引いてない?)


この期に及んでまだ上手く笑えていないのか。いや、彼とこのまま離れたくないという気持ちが、後尾を引いているのだろう。しかし、帰さなければいけないし、自分も帰らないといけない。


だからこそ美愛は、可能な限りの平静を装って純哉を送り出す。


「へへへへ……! ありがとうございます、先輩もお気をつけてですよ?」


言いながら、美愛は左手を離して純哉を解放する。当の純哉は、美愛の手の感触が残った部分に右手を添えた。


(どうしたってんだ? 聞くだけなら腕掴まんでも良かったんじゃ……?)


「では」


美愛は純哉を見送りたいらしい。短く言った声を聞き流し、純哉は背を向けて歩き出す。


互いに不完全燃焼な感じはしたものの、2人の間柄が進展したことは紛れも無い事実だ。特に純哉にとっては、かなり段階を飛ばした転機となった。


愛を育むか、宿命に負けるか。己の過去を清算し、一部の苦労が報われた日は2人にとっての記念日ともなった。

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