story:6
気分が悪い。そんな表現では足りないほど、呼吸もまともに出来なくて吐き気が止まらない。過度なストレスが、己の臓器を圧迫しているのがよく分かる。
身体の表面にこもる発熱感と、まとわりつく倦怠感。手足や肩には力が入らず、ありったけの気力で姿勢を保つ。
放課後の女子トイレで、赤星美愛は洋式トイレの便座に両手をついて腰をかがめていた。口内は酸味で満たされ、白目は血走ったように赤くなっており、じわりと涙が浮かぶ。
個室の暗さとぼやけた視界、更にトイレ特有の臭気も合間って、自身の意識が何処か遠くへ飛んでいく気さえする。寧ろこのまま気を失って倒れてしまった方が楽になるのではないか。
いや、それもどうだろうか。そうなってしまえば、より一層他に迷惑がかかる気さえする。なんとか被害を最小限に押さえ込まなければ。しかし、身体は正直なもので、精神的に堪え切れなくなった美愛の胃はついに逆流した。
「おぇっ、おえぇぇぇぇ……………っ」
胃自体も消化不良だったのか、昼休憩中に食べたもののほとんどが流れ出た。吐き終わっても、まだ喉には不快感が残っているし、頭もすっきりしない。
すぐに解消出来ようもない課題を抱えたまま、美愛はおもむろに立ち上がり、壁に寄り掛かった。息を整えようと、ゆっくり小さく呼吸する。あとで清潔な水で、口の中もゆすがなければならない。
激しく肩を上下させながら、美愛は思う。早く帰らなければ、と。だが、本音を言えば帰りたくはない。
自分にとって、帰るべき拠り所が友人か想い人ならどれほど良かっただろう。叶わぬ幻想を空虚に描き、陽菜や純哉の顔を思い浮かべる。
学校という環境では、まだ頼れる相手が居るからこそ、美愛はかろうじて立っていられるのだ。そうでなければ、もうとっくに参ってダウンしていた。精神的に安定しているとはとても言えないが、少なくとも生きてはいられる。
それでも、いつまでもつか。美愛は重い身を引きずってトイレに吐しゃ物を流し、ふらふらとした足取りで洋式トイレの個室から出て帰路についた。
6月中旬の水曜日。冬田純哉を始めとした3年6組の生徒たちは6時間目に実施される全体集会のため、体育館に集まっていた。全校生徒が一斉に集合しているざわついた環境下で、純哉は1年生の集団を見回す。
皮肉なことに、赤星美愛の存在を無意識に探していた。
(………あれ?)
後方に並ぶ1年4組の列を見ても、彼女の姿は見当たらない。もしや欠席か。一応、朝山陽菜のことは確認できたが、いつも一緒に居る連れが居ないということは、休んでいる可能性が高い。
昨日、一昨日とラインはしていないし、相手の様子も把握しきれていないところである。放課後にでも、ちょっとばかし連絡を入れてやろうか。
(………は)
自分は何を考えていたのだと、純哉は文字通りはっと我に返る。これではまるで、本当に美愛に対して好意を抱いているみたいではないか。一昨日、食堂で会った時だって適当に調子を合わせただけだというのに。
純哉は気を取り直し、いや、気持ちを塞ぎこんで自分のクラスの列に続いた。
そうして全校集会はつつがなく行われ、生徒指導部や各学年の学年主任の話が終わると、ちょうどチャイムが鳴って上の学年から順番に教室へ戻っていく。3年6組は最後だった。
「……………………」
体育館を出る前に、もう一度1年4組の列を見てみたが美愛は居ない。やはり彼女は学校を休んでおり、自分はその件で心配してしまっているのか。
先日のことを踏まえれば病み上がりだったのだろうが、少なくとも美愛は元気そうに見えた。ということは、ぶり返したことが考えられる。
それからも美愛のことが頭から離れず、煮え切らない思いを抱えたまま教室へと戻っていった。
下校前のホームルームが終わり、担任から携帯が返却される。返してもらって早々、純哉は美愛へメッセージを送った。
『おつかれー、赤星さん』 『もしかして今日、休みだった?』
送信後、純哉は後悔した。こんな文言では、また何故休んでいることを知っているのか不審に思われてしまうではないか。よって純哉は、2つ目に送ったメッセージだけ取り消した。
既読がついていないので、恐らく内容は読まれていないだろう。あとはどんな言葉で続けようか。
難しい顔をして画面を睨んでいる純哉に、糸井がフランクな口調で横から声を掛けた。
「冬田さん、このあと暇だったらカラオケ行かん?」
急な誘いだったが、純哉は即座に向き直って応じる。
「あぁ、いいよ? ちょうど俺も近々行きたいと思いよったし」
美愛への返事は、また後で考えればいいだろう。とりあえず今は挨拶だけで済ませて、相手の出方を窺う。
気前良く答える純哉に、尼川も相槌を入れる。
「さすがじゃあ、冬田。再来週からテストだし、景気付けしとかんといけんじゃろ!」
尼川の言う通り、再来週からはテスト期間に入る予定だ。今のうちに、遊べるときに遊んでおくべきだと純哉も思った。また、友人たちと遊ぶことで美愛のことも頭の片隅に置いておく。
純哉が友人たちと分かれ、カラオケ店から帰宅したのは20時を過ぎた頃だった。すでに両親は仕事から帰ってきており、夕飯の支度も済まされている。
室内を白い照明が照らすリビングに入ってからすぐ、純哉はソファに座ってテレビを観ていたスーツ姿の父親と対面した。
「おかえりぃー、純哉ぁ。飯出来とるけぇさっさと食べてしまいやー?」
「どうも」
純哉の父親がのんびりとした口調で促す。対する純哉は短く礼を言って、まずは洗面所に向かった。
手洗いとうがいを終わらせると、食卓とセットになってる椅子に腰を降ろす。今日の夕飯は、冷やし中華だった。昼食も含め、最近は麺類ばかり食べている気がする。
(さてと、いただきましょうか……)
小さく合掌し、自分用の箸に手をつけた時だった。ポケットに入れていたスマホが、バイブ音とともに震える。
「っ!」
もしや、美愛か。純哉は椅子の背もたれに右肩を預け、身体を右側に向けてスマホを取り出し、画面を確認する。通知に表示されている名前を見ると、“あかほしみあ”と書かれていた。
(やっとかよ……)
カラオケに居る間も既読がつかず、今まで返ってくることもなかった美愛からのライン。糸井や尼川と順番を決めて唄っている間でも、純哉は気が気でなかった。
一種の期待のようなものを込めて、純哉は美愛とのトーク画面を開く。
『返信遅くなってすいません! らいんくれてたんですね!』 『おつかれさまですふゆたせんぱい』
緩い文字列が、画面上に並ぶ。2つ目のメッセージが全部ひらがななのは、急ぎ気味に入力したからだろうか。相手からの返信に安堵したところで、純哉は続く文言を紡ぐ。
『おう、どうもだよ』 『今日はどしたん? 全校集会のとき来てなかったけど』 『もしかして今日、休んでた?』
するとすぐに既読がついて、返事がきた。
『はい笑』 『ちょっと、体調悪くて笑』
語尾に『笑』とつけて気丈に振る舞う美愛。純哉も納得したようにふっと笑い、ラインでのやり取りを展開する。
『そうか、最近また暑くなってきたしね』 『テストも近いけしっかり体調整えてやらんとね』
『そうですよねぇ』 『前回よりテスト範囲が広いらしいから大変だぁ笑』
『ほんとね、やっぱ前より広くなるのはどの学年も一緒よね』 『でもテスト終わったら夏休みはもうすぐよー』
もはや夕飯そっちのけで、純哉は夢中になって美愛との他愛もない談笑を交わす。
『夏休みかぁ』 『せんぱい、もしよかったら一緒に海行きません?笑』 『私、行きたいところがあるんですよ笑』
海とは。開放的な環境なだけに、夏の海はパリピなイメージがある。昔、友人や家族と行ったことはある気がするが、女子と行ったことはない。だからこそ、純哉は少しばかり悩んだ。
(海ねぇ、これで本当に行くんなら女子とは初めてだが……。まぁ、行ってみてもいいかな……?)
何事も経験だと自分に言い聞かせ、純哉は彼女からの誘いに乗る。美愛の体調の面は気に掛かったが、その頃には完治しているだろう。
『いいよ、日程はまた調整しようか』
数秒間が空いて、美愛から返事が来た。
『ありがとうございます笑』 『わかりました! 調整、よろしくお願いします!』
最後に純哉は、『了解』の意味をこめたスタンプを送り、会話を句切った。画面を閉じ、そのまま正面に向き直る。
遅くなったが、純哉は夕飯を食す。麺にタレをかけて箸で絡ませ、さっぱりとした風味のそばを掻き込む。勢い良く食べる様は、まさにやけ食いだった。
(これで行ったらもう二度と行かんからな……っ!)
気が付けば美愛との時間を求めるようになっている自分に気付き、純哉はまた苛立ちを募らせる。それでも彼は、自身の経験のためと心の中で置き換え、平静を装っていた。
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