3-2 稲波が食べたもの
***
「食べた、と言ったか、いま?」
震えた声で問う明水に、稲波はさらりと「はい」と答える。
悪食という妖怪の性質を考えれば、共食いだって別に不思議なことではない。むしろ、何らかの手違いによって地上で生を受けてしまったのならば、共食いでもして数を減らしてくれた方が人間側としては安心出来るだろう。
けれども。
「私が見たところ、秋芳君はどこも欠損している様子はないが。……と言ってもひん剥いたことはないから、服の下のことはわからんがな」
そう口にすると、どれだけ本人が否定しようとも頑なに雄であることを認めない欽一の顔がなぜか浮かんできた。
もしや、その部位を!?
欽のやつ、服の上からそれを見抜いて……?
とんでもない想像をしてしまい、慌てて
焦熱地獄の隅に設置された陶芸コーナーのテーブルセットに並んで座り、赤黒い粘土を明水の前に置いた。明水はそれに無言で手を伸ばし、ぐにぐにと捏ねていく。焦熱地獄で一番人気なのが、この、亡者と一緒に高熱で焼き上げる陶芸体験である。即日持ち帰り可能だ。
「私達が食べたのは、兄の中身です。記憶というか、本能というか、とにかくそういった部分を」
「どうして」
「兄が泣いたからです」
明水と同じく、やはり粘土をぐにぐにと捏ねながら、稲波は語りだした。
その時、地上で生まれた悪食は三人いた。
一人が秋芳、もう一人が稲波、そして、
悪食というのは、何もないところから、ぽつんと生まれる妖怪である。だから、秋芳の認識もあながち間違いではない。親、というものはないのである。ただただ、無から生まれる妖怪だ。けれどももちろん生まれるのには条件がある。
悪食は、十に満たない子どもが、飢饉によって飢えて死ぬことで生まれる。だから、親はいない。大人が死んでも悪食にはならない。
恐らくは、神様などと呼ばれるような、天に住まう者の慈悲なのである。どうにも抗えない自然の力によって死んだ哀れな幼子が、来世では飢えることなく生きて食えるようにと。そんな中途半端な憐みの心が生んだ妖怪なのだ。だからいつまでも若い姿のまま生き続けるのである。雌雄の区別もあるし生殖器も備わっているが、繁殖活動をする個体は稀だ。性欲よりも食欲の方がずっと強い上に、性の知識もないからである。彼らにとっては食べることこそが最大の快楽なのだ。
そんな妖怪が地上に生まれてしまえば、今度はその子らによってありとあらゆるものが食べ尽くされてしまうだろう。それは良くない。ならば、地獄で生きれば良いのだ。あそこなら亡者は食べ放題だ。だから地獄で生まれるようにした。
それでも万が一、何らかの手違いによって地上で生まれてしまったら、その時はその時だ。何、一人二人くらいなら、案外地上でも上手く生きられるかもしれない。
などとのんきに構えていたところ、その『万が一』は起こり、天の者の予想を遥かに超えた被害を出してしまったのだという。悪食が食べた『もの』はこの世から跡形もなく消えてしまう。地獄へも、天国へも行けない。もし仮に悪食が地球上のすべての人間を食べ尽くしてしまったら、地獄も天国もそのうち無人になってしまう。秋芳は、悪食が地上の人間を食べつくしてしまったら、地獄が定員オーバーになるのではと考えたが、実際はその逆だった。
それで慌てて使者を差し向け、どうにか言いくるめて地獄に戻したのだとか。それ以降は、地上で生まれた悪食が人間を食べたら、即迎えをやるようになった。何せ彼らは味を覚えてしまったが最後、そればかりを食べるようになる。
「私達は前世でも兄妹でして、いまとは違ってだいぶ年も離れておりました。兄は九つ、すぐ上の兄は三つ、私は生まれたばかりでした」
もちろん、赤子で死んだ稲波が覚えているわけではない。悪食として生まれ変わる前に
秋芳は、随分良い兄だったと、稲波は言った。
元々が貧しい村で、食べるものは少なかったけれども、自分の分は弟の穂高と、それから、妹のための乳が出るようにと母に分け与えるような兄だった、と。父がおらず、男手の乏しい我が家において、まだたったの九つだというのに、畑の手伝いから、弟妹達の世話から、日がな一日働いていたという。
「それで、まぁ、食べるものがなくて、いよいよ私達は死にまして」
柔らかくなった粘土をぶちぶちと千切り、手のひらでころころと丸めて並べる。
「一度
赤黒い粘土の小さな団子が、きっちり、きっちりと積み上げられていく。十五夜団子のようである。
「嬉しかったですよ。だって、前世ではまだ立って歩くことなんて出来ませんでしたし、しゃべることも出来なかったんですから。だから、自分の足で歩いて、兄達の名前を呼んだんです。――そしたら」
運が悪かったのか。
それとも、人間にとっては、運が良かったのかもしれない。
三人が生まれたのは、もう既に誰も住んでいない村の跡地だったのである。四方八方見渡しても、
「そしたら、無性に、食べたくなってしまって」
誰を、と明水は聞けなかった。
だって、食べるものなんて、それしかいないのだ。あの変わり者の悪食のように、何もなければ土をほじくり返して食べれば良い、なんていう平和主義ではないのである。悪食は『生きているもの』を食べる妖怪なのだ。
「ちょうど、すぐ近くに穂高兄さんがいたので、食べようと思って」
食べようと思って、と。
何てこともないように、稲波は言った。
妖怪とはいえ、実の兄を、だ。
赤子のうちに死んだことも関係しているのではないだろうか、と明水は思った。つまりは、善悪を知らぬまま死んだから、と。そう考えれば、十に満たない子どもなどというのは、基本的には己の欲に忠実だ。善悪の判断など、まだ曖昧な頃である。人のものでも何でも、欲しいものは欲しい。我慢が出来ない。もちろん、個人差はあるだろうが。目の前に自分の好物があったら。そして自分に、それを狩る力があったら。
食べずにはいられないのだろう。
「だけど、私が肩に齧りついたところで止められたんです。秋芳兄さんに」
「ほぉ」
やるじゃないか、秋芳君、と言いかけて、口をつぐんだ。もしかしたら『悪食』という妖怪の性質を考えれば、彼女のその行動自体は特に咎められるものでもないのかもしれない、と思ったからである。
「浅ましい、浅ましい、って泣くんです。何が悲しくて、兄妹で食い合わなければならないんだ、って」
「秋芳君の方ではまだ人の心が残っていたのか」
それかあるいは、やはり死んだ時の年齢が若ければ若いほど感性が
「私は、正直なところ、何が悪いのかさっぱりわかりませんでした。お腹が空いたら、それを満たすために何かを食べるのは当たり前です。ましてや、私達にとっては、視界に入るもの、すべてが食べ物です」
「まぁ、そうなんだろうな」
「穂高兄さんの方でも、『腹が減ってるなら仕方ないよな』って、特に怒ったりもしませんでしたし」
話しているうちに腹が減ってきたのだろう、きちきちときれいに積み上げられた粘土の団子の一つを、ぱくりと口に入れる。
「だけど、秋芳兄さんだけは泣くんです。食べちゃ駄目だ、食べたくないって。私が生まれるまで、穂高兄さんとその辺の草木やら動物の死骸やらを食べていたそうです。だけどさすがにもう食べ尽くしてしまったので、食べ物を探しに人間の住む村に行こうと言った時も、絶対に首を縦には振りませんでした。見たら食べてしまうかもしれない、って」
「まさかあのポリシーがそこまで筋金入りだったとはな」
僕は生きてるものはなるべく食べないようにしてるんだ、などと、軽い調子で言っていたくせに。
「それでもういい加減可哀相になって」
あとまぁぶっちゃけ、ちょっとうるさかった、っていうのもありますけど、と一つ食べたら歯止めが効かなくなったのだろう、次々と団子を口に入れて、もっちゃもっちゃと噛みながら、稲波は続けた。
「それで、何も知らなければ泣くことはないだろうと、秋芳兄さんの記憶とか、悪食の本能にあたる部分を少しだけ食べてしまったんです」
「成る程、それで」
それで彼は、悪食なのに、あんなぽやぽやのほほんとしているのか。
明水が納得してそう言った時には、テーブルの上にあったたくさんの粘土団子はすっかり稲波の腹に収まってしまっていた。
「ついちょっと食べすぎてしまって、私達兄妹の記憶もなんかもすっぽりとなくなってしまったみたいで、目の前の私達を不思議そうな顔で見つめて、それから、あまりの空腹で目を回して倒れてしまったんです」
それで、仕方なく、その辺の木の下に置いて、私達だけで人間のいる村を目指しました。
「という経緯で、いま、ここに」
本当に、何の重みもなく、悔いている様子もなく、つらつらと稲波は語った。実の兄を食べようとして襲い掛かり、それを止めたさらに上の兄の記憶やら何やらを食べ、その兄を置き去りにして、人間を狩って食ったのだと。
人を襲う妖怪などざらにいる。
特に、彼女らが生まれた五百年ほど前は、いまよりももっと妖怪が幅を利かせていた時代である。自分が住んでいる村が戦渦に巻き込まれるよりも、うっかり妖怪に遭遇して食われることの方が確率としては高い、そんな時代だったのだ。
だけれども、まだ二百にも満たないような若い半妖である明水にしてみれば、異様この上ない。
「秋芳君に会いたいと思うかい? 別行動しているけど、もし君が兄に会いたいなら呼び出すけど」
どうする、と尋ねると稲波はひとしきり悩むような素振りを見せた後で、にこりと笑った。見れば見るほど秋芳に似ている。その白さも相まって、見るものの心をごっそり奪っていくような、清廉な笑みだ。
その、柔らかな笑みを浮かべたまま、鈴を転がすような声で
「どの面下げて会えと」
そう言った。
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