第60話 押すな、押すなよ
北か東か迷ったのだけど、すみよんの「リンゴ甘いでえす」と隣でシャリシャリしていたので東に向かうことにした。
しっかし、このワオキツネザルは常識外れにもほどがある。
カブトムシは馬より速い。カサカサカサとものすごいスピードで走る中、彼は俺の肩に乗りうまそうにリンゴを食べているのだ。
更に長い尻尾でおかわりのリンゴを掴みながら。
車と異なり風をカードするものは何もない。バイクに乗りながら食事をするようなものか。
しかし、ここには信号がないので、カブトムシが疲れるまではずっと走りっぱなしである。疲れるまでと言ったが、カブトムシのスタミナの底を俺はまだ知らない。
「エリックさーんも食べますかー?」
「ジャイアントビートルに掴まらなきゃならないから、走らせながらは無理だよ」
「そうですかー。狩りしないんですか?」
「先に寄り道しようと思ってさ」
カブトムシの角……突起と言った方がいいかもしれないな。突起を左右の手で掴み、前傾姿勢でまたがっているので彼のように食べる余裕なんてない。
もし両手が開いていたとしても、彼のように食べることなんてできないと思う。普通の人間には。
尻尾で掴んだリンゴをフリフリと見せられても困るってもんだ。
走り始めて一時間も経ってないし、休憩せずそのまま目的地を目指す所存である。なので、リンゴを食べる気がそもそもない。
目的地にはリンゴととある人物がいる。
余り会いたくない手合いなのだが、一度くらいは挨拶に行っておかなきゃな。すみよんとはお友達らしいから俺一人で行くより安全……なはず。
思わせぶりに語る必要もないか。
ほら。もうすぐだ。山脈を登り、おっと。その前に。
オレンジ色の果実……ビワの木の元でカブトムシを止め、ビワを回収する。
その後、地肌が丸見えの山脈を登り、円形になっている深い谷の入り口までやって来た。
そう、挨拶する相手とは超危険地帯「東の渓谷」のボスであるアラクネー族のアリアドネだ。
「入るなよ。入るなよ。すみよん」
「もう食い殺されませんよー」
「俺がってことだよな」
「もちろんでえす」
彼の真ん丸の黒い瞳は愛らしいのだが、たまに恐ろしく見えるよ。
長い尻尾で地面をぺったんぺったんと叩いている姿も可愛らしいんだが、これもまた、以下略。
すみよんは「大丈夫そう」と言う。しかし、とてもじゃないが、お友達に対する気配と思えないって。
渓谷から心臓を鷲掴みされているのかってくらい圧を受けている。呼吸をするのも苦しいくらいで、背中からは冷や汗が流れ落ちていた。
正直大した冒険者じゃなかった俺だけど、相手の実力を推し量ることくらいはできる。
東の渓谷の主は俺がこれまで出会ったどのモンスターより強い。それも二番手と比べ天と地ほどの違いがある。
ちなみに二番手は以前毒で担ぎ込まれた冒険者たちのことを覚えているだろか?
彼らが死を覚悟で倒したモンスターはパイロヒドラだった。そのパイロヒドラの亜種がいてさ。インペリアルヒュドラって言って、遠目に一度だけ見たことがある。
小高い丘の上からその姿を見ただけなのだけど、それでもハッキリと気配を感じ取れるほどだった。
八つの首と蛇のような胴体を持つ銀色の鱗を持つインペリアルヒュドラはモンスターランクSと最高位である。
そのインペリアルヒュドラと比べても、アリアドネの強さは隔絶しているんだ。彼女は理性を持つ人型なので、モンスターではなく亜人にカテゴライズされるかも。
彼女は冒険者ランクだろうがモンスターランクだろうが間違いなくSSランクだな。
しかしどうも冒険者ランクSSと言われるとあの酔っ払い狸のことが浮かんで、微妙な気持ちになる。
頭ではあの酔っ払いの実力がとんでもないことは分かっているのだけど、どうもなあ。
「ちょ」
「会いに来たんじゃないんですかー?」
スタスタとアリアドネの縄張りの中に入ろうとしたすみよんを慌てて後ろから抱きしめるようにして持ち上げる。
あら、思ったよりふさふさの毛が長いのね。
って、そんな呑気な感想を抱いている場合じゃねえ!
「いきなり(縄張りに)入ろうとするなんて、不用意過ぎるだろ!」
「どうしてですかー。エリックさんのお家に入るのと同じでえす」
「俺の民宿とは違うんだって。店じゃない家には勝手に入ったらダメなんだぞ」
「ニンゲンって不便ですねえ。しかああし、アリアドネはニンゲンじゃないでーす」
「人間より不法侵入に対して厳しいから……」
「問題ないですよー」
尚もアリアドネの縄張りに侵入しようとするすみよんであったが、がっちりと俺が抱きしめているので動けない。
ただでさえ胃が痛くなるプレッシャーの中なんだから、もう少し落ち着いて行動して欲しいものだな。
だけど、すみよんがいてくれなかったら東の渓谷へ訪れるなんてとてもじゃないが無理だ。
その点感謝……してるわけないだろおお。元々、東の渓谷でアリアドネに捕捉される原因を作ったのはこのワオキツネザルだ。
絹を頂くことができたので、差し引きゼロにしておいてやろう。
ゾクウウウウ!
唐突に全身から冷や汗が流れ落ちる。背後に何かいる。
さっきまで何もいなかったってのに。
『訪ねて来てくれたんじゃなかったのかしら? それとも、すみよんとアナタの演劇を見せにきたのかしら?』
「ひいい」
『アナタとすみよんが縄張りに入っても歓迎するわ。言わなかった?』
「き、聞いているけど、圧が酷くて」
『敵意どころか、友好的に接しているのだけど。アナタがニンゲンだからかしら』
ようやく体の向きを変えた俺が見たものは、耳まで口が裂け喉の奥からギギギと音を出すアリアドネの姿だった。
「エリックさーんはスフィアよりびびりーなんですねえ」
「そう言う問題じゃないんだってば。俺が人間だからってのはあるかもだけどさ」
敢えて人間だからと言ったが、俺の冒険者としての実力がもっと優れていればアリアドネの圧を涼しい顔で受け流せるかもしれない。
隙をついてするりと俺の腕から抜け出したすみよんが地面に降り立ち、じーっと真ん丸の黒い瞳で俺を見上げる。
何かを考えているのか、何も考えていないのかまるで見当が付かない。ワオキツネザルだから、表情を読めるわけもないのだ。
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