第58話 醤油
了解を取っていないが、グレゴール相手だしいちいち了解を取っていると無断に長い時間が経過してしまう。
彼も彼で特に俺の了解を必要としてない。むしろ、早く確かめてくれという気持ちのはずである。
いや、「俺がもう確認済み」の認識だろこれ。
瓶に触れてもいないのに、まるで俺が中身を分かったかのように謎の解説を始めているんだよな、自称天才錬金術師様は。
彼の講釈は右から左に流し、瓶を手に取る。
目の前で瓶に触れているのに、彼のボルテージが上がる一方で瓶に全く注目していない。
一つのことに集中すると完全に周りが見えなくなるようだ。
スフィアは酒のこととなると、俺の体に触れるとか普段気にすることであってもまるで意識しないほどの集中力を発揮する。
常識的な範囲で。
彼女の場合、もしここで火事が起これば手を止めて消火活動に当たるだろう。
しかし、彼は違う。
火事が起ころうが自分の興味と集中を手放さない。服が燃えようがこうやって喋り続けるのだろう。
ここまで来るともうどうにでもしてくれって、達観してしまうよ。
「ふむ」
壊れたスピーカーのような彼は放置し、瓶の中身を改める。
一見すると黒色の液体だが、灯りを通すと茶色ぽく見えた。
くんくんと匂いを嗅いでみたが、これといって特徴的なものではなかった。
ペロっと舐めてみた。
「お。おおお。これは」
「どうやって作ったんだ?」という言葉を飲み込む。
まるで聞こえてない感じな癖に、こういう発言だけ敏感に拾ってヒートアップしそうだからな。
聞いてないだろ、と高を括るのは危険である。
そこで、まだ照れていたスフィアと目が合う。
「な、何?」
「いや、何でもない。たまたま目が合っただけだよ」
「ち、違うの。た、単に暑いなあって思っただけなの。熱気があるでしょ。ここは人も多かったわけだし」
「へえ」
「その目! む、むう。そ、そうだ。その液体、舐めて大丈夫なの?」
「問題ない。求めていた味だったよ」
あからさまに話題を逸らしたスフィアに乗っかる優しい俺である。
対する彼女はパタパタと自分の手で顔を扇ぐ仕草を止め、目を細めた。
「く、腐った豆の完成形がそれなの?」
「いやいや。全然違う。こいつは大豆から作ることができる調味料で、醤油という」
「腐りきったら真っ黒になるのかしら」
「だから違うってば。味噌だまりがあっただろ。俺がよく使う調味料だ」
「あったわね。出汁が利いた優しい味わいの調味料よね」
「味噌だまりに比べてキレがあって尖っている味……とでも言えばいいのか。舐めるのがはやい」
指に黒い液体こと醤油を垂らしてスフィアに見せる。指の動きと同時に反対の手で瓶を掴み彼女に向け差し出した。
たじろいた彼女は俺の指に舌先を当て、醤油を舐め取ったじゃないか。
まさか彼女が舐めるとは思ってなかった俺は思わず素の顔になる。
俺の意図を察した彼女はかああっと頬が赤くなった。
「ゆ、指を出すからてっきり舐めろと言ってるかと思ったじゃない!」
「まあ、舐めてもいいんだけど。自分で垂らしてどうぞ、のつもりだった」
瓶を前に差し出したのを見てなかったのか……。
「た、確かに。味噌だまりに近い味ね。これなら私でも大丈夫そう。腐った豆は絶対にお断わりだけど」
「醤油があれば、味付けの幅が広がる。さっそく明日から使ってみることにしようかな」
「錬金術師さんのものなんじゃないの?」
「そうだった。有難い講釈が終るのを待ってから聞いてみよう」
どぶろくを二杯飲み終わる頃、グレゴールがようやく落ち着いてくれた。
スフィア? 彼女はもうとっくに帰宅しているさ。
俺がどぶろくを飲み始めると、ソワソワし始めて「ちょっとだけ、ちょっとだけだから頂戴」とねだってきた。
酔っ払った彼女の醜態を既に知っている俺はともかく、宿にはグレゴール以外にも宿泊客もいるんだけどいいのか? と返したら、あっさりと諦めてすぐさま席を立ったのである。
目の前で飲まれたら飲みたくなる気持ちは重々わかる。
彼女の手前、飲むのを我慢しようかとも考えなくはなかった。だけど、仕事の後の一杯を楽しみにしている中、手持ち無沙汰になり、飲まずに待つことなんてできようか。いや、できない(反語)。
◇◇◇
「ふああ」
んーっと体を伸ばし、窓の外へ目をやり慌てて飛び起きる。
し、しまった。寝すぎたぞ。
既に太陽がすっかり顔を出しているじゃないか。
時計がないため、正確な時刻は不明。いずれ商人のグラシアーノに懐中時計を仕入れてもらおうかな。
そこまで高価なものでもない。いや、懐中時計にするならせっかくだから柱時計も欲しいなあ。
レストラン部分に置くと、宿泊客も時間を確認できるようになるし。
この世界の時計は地球にあるような時計と見た目こそ似ているものの、仕組みが異なるものがある。
地球と同じ機構を持つものは手巻き時計だ。それ以外の自動巻きや機械式の時計はない。
その代わり、動力源に魔石を使った魔石式の時計がある。
柱時計なら毎朝、俺かマリーがネジをまわせば良いので安価な手巻き式でいいかもしれないけど、持ち歩くものは魔石式がいいなあ。
自動巻きがあれば、時計を常に身に着けているだけで動き続けてベストなのだが、無いのだから仕方ない。
ポラリスか天才錬金術師様のどちらかが自動巻き時計を開発してくれんものか。
魔石式だと魔石の中にある魔力がきれたら時計が止まっちゃうからね。高価な魔石式時計は自分の魔力を魔石に補充することで長期間動き続けるものもある。
しかし、時計にそこまでのお金をかけるわけにはいかないのだ。
他にも欲しいものが沢山あるのだから。
トイレとかトイレとか。
階段を降りると、外から戻ってきたマリーとちょうどエンカウントした。
俺の姿を見たマリーは嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、尻尾をピンと立てる。
「ごめん。寝坊した」
「いえ! 昨日は北の湖まで遠征し、そのまま宿のお仕事をされたのです。お疲れで当然ですよ!」
「どぶろくの後に清酒までいってしまって、それでだよ」
「たまにはゆっくり休んでくださいね!」
「マリーも。そうだな。宿にも定休日を作ろう。今までは宿泊客がいない日を休みにしてたけど、最近はゼロの日がまずないもんな」
「エリックさんのお料理とヒールがあってのことです!」
昨晩はマリーが先に就寝していたし、スフィアとグレゴールが帰宅したもので一人になっただろ。
それでどぶろくを飲み始めて、ついついさ。
さて。まずは腹ごしらえからするとしよう。
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