第44話 フリじゃないんだよ。真剣にお断りしたい。
君子危うきに近寄らず。
素晴らしい格言だと思わないか? この世界に生まれ変わってからしみじみと噛みしめている言葉の一つである。
もう一つは後悔先に立たずかな。
要は、直感で理由がなくとも、危ないと思ったらどのようなお宝を前にしようが、撤退する。
これで俺は今まで大怪我もなく生きて来たんだ。今は多少の怪我だったら、しばらく休憩することで回復することができるけどね。
自分の服にヒールをかけておけば、自動的に回復していくからさ。
いや、かけておけばではないな。既に俺の服にはヒールがかかっている。
カブトムシへ再びまたがってっと。
ほら。すみよん。帰るぞと仕草で示すが、ワオキツネザルがカブトムシに登ってこようとしない。
「この奥ですよー」
なんて、さっき聞いたようなことをのんきにのたまったではないか。
「いや、奥は危ないって言っただろ。踏み出したら『死にます』って嬉しそうにすみよんも言ってたじゃないか」
「すみよんがいますー」
「リンゴなら宿の倉庫にもあるから、ほら行くぞ」
「リンゴ甘いでえす」
乗ってこないので、一旦カブトムシから降りてすみよんの長い縞々の尻尾をむんずと掴む。
が、手から尻尾がすり抜けてしまう。
すべすべしているんだな。ネコジャラシが手からするりと行ってしまうような感触だった。
「こら。行くぞ」
「エリックさーん。そっちは」
「あ……」
ならば体ごとすみよんを捕まえてやろうとして回り込んだ。
それがいけなかった。半歩、たった半歩であるが、危険ラインに踏み込んでいたことに気が付く。
と同時にゾワリと背筋が泡立ち、危険を告げた。
慌てて足を引っ込めたが、気配は消えない。
縄張りに入った俺を許さんとばかりに寒気が止まらなかった。
「まずい。逃げるぞ!」
「ロックおーんされたみたいですねー」
「ジャイアントビートルは平気みたいだから、俺だけがターゲットになっているぽい?」
「そうですねえ」
逃走だ。ここは逃走の一択のみ。
すみよんは俺の必死さをようやく理解してくれたようで、自分から俺の腰を伝って肩に乗る。ついでに尻尾を俺の首に巻きつけてきた。
これで彼が落ちても安心……とでも言うと思ったかあ! そんなことになったら、俺の首が締まるじゃないか。
ヒラリとカブトムシにまたがり、しかと小さな角を握りしめる。
そして俺は脱兎のごとく逃げ出したのだった。カブトムシの本気が速すぎてすぐに速度を緩めたけど……。
◇◇◇
「全く……酷い目にあったよ。肝が冷えた」
「またまたー。楽しんでいたじゃないですかー」
リンゴを小さな前脚で器用につかんだすみよんがのんきに応じる。
シャリシャリシャリシャリと小刻みにリンゴを齧る姿に癒されそうになり、ブンブンと首を振った。
「俺はスフィアと違って、一般人なんだからな。その辺忘れないでくれ」
「すみよんがいるから大丈夫ですよー」
「いやいや……どうにかなりそうな感じじゃなかったぞ」
「思い切りが大事でーす」
今でも思い出すとゾッとして悪寒が止まらないよ。
これまで出会ったどのモンスターよりも圧倒的な気配だった。恐らく相当距離が離れていたと思うのだけど、それでもあの迫力だ。
対峙したら逃げる前に気絶してしまうかもしれない。
「スフィアー。いるかなー」
「ちょうど戻って来たところよ」
酒造所ことスフィアの住むログハウスの扉を叩いたら、後ろから彼女がやって来た。
「すみよんがジャイアントビートルをテイムしたとかで、スフィアのところで預かってくれない?」
「いいけど。小屋もないわ。師匠に頼んで小屋を作ってもらえないかしら」
即答してくれたはいいが、確かにログハウスの中にカブトムシを入れるのも厳しいか。
スフィアに名指しされた師匠はリンゴを離さぬまま長い縞々の尻尾を上下に振る。
「いいですよおー。ニンジンがいいですー」
「ニンジンはそれなりに在庫があったな」
ビーバーに頼んでくれるってことだよな。今回は俺からのお願いでもあるわけだし、快くビーバーたちへのお礼を出そうじゃないか。
一旦、カブトムシことジャイアントビートルをログハウスの軒下で待機してもらい中に入る。
さてさて、彼女に頼んでいたものはどうなったかな?
「スフィア。例のものどうだった?」
「全部発酵の魔法をかけたけど、一つは腐っちゃったかも」
「中々難しいかあ。酒とは勝手が違うものな」
「そうね。ヨーグルトなんかも作るのが難しいわ。それと似たようなものなのよね?」
「うん。調味料の一種でさ。俺も現在熟成中の瓶がいくつかあるけど、中々味の良い塩梅が上手く行かなくてさ」
「あれくらいの量ならすぐにできるわよ。次はエリックがいる前でやった方がいいかも」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
「お礼が言いたいのは私の方よ。お酒。とっても美味しいわ!」
「飲む時は奥の部屋で頼む」
「もう……まだ私のことを酔っ払った時の私でイメージしてない?」
「……そ、そんなことないって」
頼んだものとは、大豆の入った瓶である。大豆を発酵させて待望の調味料「醤油」作ろうと思って。
これがまた中々うまくいかないんだよね。味噌が一発でうまくいったのが奇跡だったって思い知ったよ。
豆腐はそれなりに苦労したけど、上手く行った。そのうち醤油も満足のいくものが出来上がるはずだ。
「あ。その瓶。悪臭がするわ」
「う。おい。瓶の蓋を開ける前に言ってくれよ。ん。この臭いは……」
「どうしたの?」
「懐かしい臭いだった。こいつはひょっとしたら。待ってて。すぐ新しい大豆を準備するから」
呆気にとられるスフィアのことを振り返りもせず一目散に民宿に戻る。
あの匂いはきっと……たまたまだったけど狙った菌が繁殖したのか?
大豆を湯であげ、洗って綺麗にしてあった藁を袋に入れて彼女のところへ。
瓶から腐った大豆(スフィア談)を取り出して……おお。良い感じに糸を引いているではないか。
一粒口にして、懐かしい味に思わず頬が緩む。
こいつを種にして、持ってきた大豆と藁を使えばいけるはず!
「スフィア。軽く、発酵の魔法をかけてもらえるか?」
「いいけど……嫌な予感しかしないんだけど……」
冷や汗をかく彼女を「さあ、さあ」と急かす。
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