第十八話 英雄となる者の条件

米山よねやまの戦いを再現し、武田信玄の面目めんぼく[名誉や評判のこと]をつぶすことだ」


こう言った上杉謙信に対し……

直江景綱なおえかげつなの方は、その言葉の意味を理解できない。


「武田信玄の面目を潰す?

一体、どういう意味なのですか?」


「景綱よ。

信玄は、信濃国しなののくに[現在の長野県]の全てを『侵略』しつつある。

この越後国えちごのくに[現在の新潟県]との国境に近い水内郡みのちぐん高井郡たかいぐん[合わせて現在の長野市、中野市など]の国衆くにしゅうたちは、わしの救援を何度も求めている」


「存じております。

信玄に小県郡ちいさがたぐん[現在の上田市など]を侵略された村上義清むらかみよしきよ殿も、謙信様の出馬を何度も求めておりますな」


「彼らの求めに応えなければ、どうなると思う?」

「率直に申し上げます。


「例えば。

我が兄は……

国衆くにしゅうや家臣たちが、おのれの目先の利益ばかりを優先してみにくい身内争いを相次いで起こしているせいで、この国が全く一つになっていない現実に『見て見ぬ振り』をする弱く愚かな支配者であった」


「『晴景はるかげ様は国主こくしゅの器にあらず』

それがしに加えて宇佐美うさみ殿、柿崎かきざき殿、甘粕あまかす殿など国をうれう武士たちは、このように結論付けたのです」


「『侵略という悪行あっこうを、見て見ぬ振りをすることなどできん!

信玄を必ず打ち倒す!』

こう宣言したわしは……

信玄と三度も戦ったが、直接ぶつかったことはない。

国境の小さい城を巡って小競り合いを繰り返しただけよ」


「このままでは、非難を浴びるかもしれませんな」

「その通りだ。

『必ず打ち倒す、だと?

嘘を申すな!

直接ぶつかったことすらないではないか』

とな」



 ◇


2人の会話は続く。


景綱かげつなよ。

3年前に、信玄が何の役職に就いたか覚えているか?」


信濃守護しなのしゅごの職です」

「要するに……

正式な信濃国の『支配者』になったということだ。


「なぜです?」

「今までの信玄は『攻め』に徹していた。

相手を徹底的に調べて弱点を見付け、それを突いて勝利を重ねてきた」


「そんなものは……

ただの『揚げ足取り』と変わりませんぞ。


「ただし!

『守る』立場になれば、そのやり方は通用しない」


「あ!

なるほど。

信濃守護の職に就いたことで、信玄は攻める立場から守る立場へ変わったと?」


「うむ。

信玄には支配者としての『責任』がある。

国を一つにし、民の平和で安全な暮らしを守るという責任がな」


「確かに……」

「ところで。

『英雄となる者の条件』とは、何か分かるか?」


「条件?」

「英雄とは……

面目めんぼく』を潰されること、つまりおのれの名誉や評判が傷付くことを何よりも嫌がる者のことだ。

面目を保つためなら地位を投げ出し、損得を度外視し、己の命ですら危険にさらす」


「だからこそ何事も『徹底的』に出来ると……」

「信玄は、何事も徹底的に行ってきた。

英雄に相応ふさわしい男と申せよう」


「謙信様こそ英雄でしょう。

残念ながら、凡人ぼんじんにそのような真似はできません。

高い地位にあこがれ、物事を損得で考え、安全を優先するあまり、あっちに流され、こっちに流され……

何事も『中途半端』です」


「信玄は凡人ぼんじんではない。

おのれの軍、己の命さえ危険にさらしてでも、支配者としての責任を全うしようとする」


「それならば……

確実に、信玄と直接ぶつかることが可能となりますな!」


「これで誰もが信じるはずだ。

『上杉謙信は、武田信玄を本気で打ち倒そうとした。

悪行を見て見ぬ振りなどしなかった』

とな」


 ◇


「謙信様。

具体的にはどんな作戦で臨まれるのです?」


「北から信濃国しなののくにへと侵攻した我が上杉軍は……

まず善光寺ぜんこうじ[現在の長野市]を占拠し、そこに兵站へいたん拠点を築く」


「善光寺に?」

「あの一帯は、善光寺平ぜんこうじだいら[現在の長野盆地]と呼ばれている。

善光寺周辺に人とモノが『集中』しているからだ」


「重要な場所を敵に占拠されるのはゆゆしき事態。

信玄は必ず、大軍を率いて出撃するでしょうな」


「うむ。

武田軍出撃の報告が入り次第……

直ちに南下して、妻女山さいじょざんを占拠する」


「妻女山?

善光寺はどうするのです?」


「5千人の兵だけ置く」

「え?

たったそれだけ?」


景綱は、謙信の考えが読めない。


 ◇


「謙信様。

武田が大軍で善光寺ぜんこうじを攻めて来たら、いかがなさいます?

ひとたまりもありませんぞ?」


「景綱よ。

米山の戦いを思い出せ。

妻女山さいじょざんは、善光寺などよりずっと『重要』な場所ではないか」


「重要……?」

善光寺平ぜんこうじだいら一帯は、奥信濃おくしなのとも呼ばれている。

信濃国で最も北の奥にあるからだ。

その『入口』に、妻女山がある」


「なるほど!

その入口にふたをすれば……

!」


妻女山さいじょざんふもとにある街道と、そのすぐ下を流れる千曲川ちくまがわを封鎖すれば……

善光寺平に住む民の生活の『補給』は断たれよう」


「おお!」

「そして……

生活の補給を断たれた民の不満は、支配者たる信玄へと向かう。

『なぜ敵の占拠を黙って見ているのか?

信玄は、支配者としての責任を全うしていない!』

とな」


「追い込まれた信玄は、武田軍を率いて妻女山に攻め上がるしかありません。

一方の我ら上杉軍は、山を駆け下った勢いで信玄に強力な一撃を与えられましょう。

見事な策かと存じます!」


「景綱よ。

いくさの準備をする前に、一つ念を押しておきたい」


「はっ」

「信玄に強力な一撃を与えた後は……

勝利したとしても、絶対に追撃してはならん。

その足で越後国えちごのくにへと『帰る』のだ」


「え?

信玄を打ち倒すのではないのですか?」


!」

「なぜです?」


「英雄を甘く見てはならん。

打ち倒すまで戦えば、確実に『長期戦』かつ消耗戦となる」


「……」

いくさは人同士が互いに傷付け合い、殺し合う残酷極まりない行為だ。

そこに甘美かんびさなど微塵もない。

将たる者、常に『短期決戦』こそ心掛けるべきであるぞ」


「はっ」


 ◇


善光寺ぜんこうじが占拠されたとの報告を受け……

2万人の大軍で出撃した武田軍。


信玄は、はたと困り果てていた。

「謙信め!

妻女山さいじょざんを占拠して街道と千曲川を封鎖するとは……

善光寺平ぜんこうじだいらに住む民を飢えさせるつもりか!」


「父上。

このままでは、民から犠牲者が出てしまいます。

上杉軍に妻女山を降りさせる策が必要でしょう」

信玄の息子・義信よしのぶである。


「良い策があるのか?」

茶臼山ちゃうすやまに布陣するのは如何いかが

善光寺と妻女山のほぼ中間にあります」


「善光寺にある上杉軍の兵站へいたん拠点を脅かすのだな?」

御意ぎょい

補給を断たれることを恐れ、上杉軍は慌てて妻女山から降りるのではないかと」


「よし!

直ちに茶臼山へ向かうぞ!」


何の障害もなく茶臼山に布陣した信玄。

妻女山をにらんでこうつぶやいた。


「謙信よ。

善光寺が危険にさらされているぞ?

さっさと山を降りよ……」

と。


 ◇


ところが!

謙信は、全く動かない。

動く気配すらない。


信玄の焦りはつのった。

「善光寺平に住む民が孤立して10日以上が経っている!

わしは、信濃守護たる責任を全うしていないも同然ではないか!」


家臣の一人が反応する。

名前を山本勘助やまもとかんすけという。


「それがしに、一つ策がございます」

「何じゃ?

早く申せ!」


「この茶臼山ちゃうすやまを捨て、海津城かいづじょうに入るのです」

「海津城に入る……?

なぜ?」


「『道』があるからです」

「道だと?」


「信玄様。

海津城を、なぜ『あの場所』に築いたのかお忘れでしょうか?」


「そうか!

思い出したぞ。

真田に与えた領地の真田郷さなだきょう[現在の上田市真田町]に最も近い場所だからじゃ。

そしてわしは、真田郷と海津城を安全に『結ぶ』軍用の道[現在の県道35号線に当たる]を作って補給を盤石なものとした。

使!」


御意ぎょい

幸い海津城には、いくさに必要なモノがたくわえられています。

民の生活に必要なモノを優先しても支障はありますまい」


「よし!

ならば、海津城に向かう。

急げ!」


補給を『重視』していたことが幸いした。

軍用道路を開放することで、善光寺平に住む民を救ったのである。


信玄の面目めんぼくは保たれた。


 ◇


「さすがは信玄。

やるではないか。

これで、おぬしと直接ぶつかることは不可能となったが……

妻女山を占拠しただけでも戦果としては十分だろう。

あとは、いつ退くかだな」


一部始終を見ていた謙信は、『撤退』のタイミングを計り始めた。

運命の9月9日が刻々と迫っている。



【次話予告 第十九話 川中島合戦の正しい解釈】

定説によると……

武田信玄は『啄木鳥の戦法』を採用したようです。

奇襲と挟み撃ちの2点がポイントですが、結論から先に言うとどちらもできません。

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