【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す

第十七話 越後の龍・上杉謙信、出撃す

1561年8月。


甲斐かいとら』と言われた武田信玄に対し、『越後えちごりゅう』と言われた越後国えちごのくに[現在の新潟県]の大名・上杉謙信うえすぎけんしん

居城の春日山城かすがやまじょう[現在の新潟県上越市]を出撃して信濃国しなののくに[現在の長野県]へと侵攻、15日には善光寺ぜんこうじ[現在の長野市]を占拠し、そこに兵糧や武器弾薬を蓄えるための兵站へいたん拠点を築く。


この出撃の目的は何だろうか?


 ◇


数ヶ月前のこと。


謙信は、自身が最も信頼する家臣を呼んでいた。

名前を直江景綱なおえかげつなと言う。

この景綱かげつなの養子こそ、あの有名な直江兼続なおえかねつぐである。


景綱は、どのようにして謙信の信頼を勝ち取ることが出来たのだろうか?

2人の歴史を少しだけ描いておきたい。


謙信の元々の名前を、景虎かげとらと言う。

景虎には晴景はるかげという兄がおり、父の為景ためかげが病死すると兄が後を継いだが……

国衆くにしゅう[独立した領主のこと]や家臣たちは若い兄弟をあなどり、反抗的な態度を取り始める。


血気盛んな若者であった景虎は、これに対して激しい憤りをあらわにした。

「兄上はこの国のあるじですぞ!

反抗的な態度を許すなど、謀反を許しているのと同じではありませんか!

それがしにお任せあれ。

直ちに軍勢を率いて討伐に向かいます。

奴らに『秩序』の何たるかを教えてやるのです!」


兄はあきれた顔で弟を見る。


「は?

どういう意味ですか?」


国衆くにしゅうや家臣の立場になって考えよ。

ほとんどが年長で経験豊富な者たちぞ?

若い者の命令に何でも従えるわけがなかろう。

そちは昔から協調性がなく、出しゃばりであったな……」


「兄上。

これは年長か若い者かの『問題』でしょうか?

国衆くにしゅうや家臣たちがおのれの、しかも目先の利益ばかり優先し、この国のことなど全く考えていないことが問題なのでは?

!」


「おぬしは……

わしのせいだと申したいのか?」


「そうではありません。

兄上もかつて学ばれたはず」


「何を?」

「『国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い』

だと」


「は?

何を大袈裟おおげさな。

必ず滅ぶだと?

今、この国はどこからも『侵略』されておらんわ」


「現実から目をそむけてはなりません!

みにくい身内争いが相次いで起こっているせいで、この国は全く『一つになって』いないではありませんか!

?」


「くどいぞ景虎!

小さな内輪揉うちわもめ程度で、いちいち騒ぎ立てるな!

わしは疲れているのじゃ……

もういいから下がれ。

討伐したいなら勝手にやれ」


「ならば勝手にやらせて頂きます。

御免ごめん


「馬鹿な奴め。

どうせ、兵など集まるわけがないわ」


2人の話は全く噛み合わない。

実の兄弟でありながら、価値観が致命的に違っているようだ。


それでも弟はすぐに動く。

反抗的でない国衆くにしゅうや家臣たちを回って兵を集め始めた。


ところが!

誰もが消極的で日和見ひよりみ主義であった。

国を一つにすることよりも自分の利益こそが第一であり、確実に勝てる場面で兵を出したいのだろう。


ただ一人、直江景綱なおえかげつなを別にして。

彼だけは率先して兵を出した。


 ◇


景虎の動きは異常に早い。

兵が集まる時間すら惜しんで、積極的な攻勢に出ようとする。


『見せしめ』に討伐対象として選んだのが……

反抗的な振る舞いが目立つ黒田一族であった。

ただし、圧倒的に兵数が多く容易に討伐できる相手ではない。


不思議なことに。

景虎という男に限っては、『兵数』など全く関係ないようだ。


兵が集まるのを待つよう周りが忠告しても、一切耳を貸さなかった。

わずかな兵を率いて黒田一族へと襲い掛かった。


「景虎軍が、もう目の前まで来ているだと?

一体どういうことじゃ!?

わしらは景虎に攻める余裕はないと考え、防御を固めていなかったのだぞ?

これでは間に合わん!

嗚呼ああ、どうすれば良い?

もしや……

景虎は、これを読んだ上で襲い掛かって来たと?

そうだとしても!

わずかな兵で攻め込むなど、非常識にも程がある!

そんな無謀な命令に誰が従う?

従うわけがない!

だとすれば、景虎は……

『力ずく』で従わせたか、あるいは言葉巧みに『あやつって』士気を上げたか……

おのれ!

調使!」


景虎軍の倍以上の兵数を誇っていた黒田一族であったが、不意を突かれてあっけなく討伐されてしまう。

こうして景虎の『武力』がいかに優れているかを越後国中えちごのくにじゅうの人間がの当たりにした。


「まさにりゅうごとき強さよ!

龍を相手に勝ち目などあるまい。

大人しく恭順を示すのじゃ」

国衆くにしゅうや家臣たちは、思わずこう声を上げる。


国の『秩序』は瞬く間に回復し、醜い身内争いは一気に終息した。


 ◇


晴景はるかげ様のような国を一つにできない弱く愚かな支配者は、国主こくしゅの器にあらず。

景虎様こそが相応ふさわしい」

心底から景虎の実力に惚れ込んだ直江景綱なおえかげつなは、こう宣言して当主の晴景に対し謀反を起こす。


越後国えちごのくには、国主の座を巡って実の兄弟が争う内戦へと突入したが……

兵数において現当主である兄の方が圧倒的に有利ではあった。


劣勢を気にも留めず、弟は勝利の方法を一瞬で見出す。

いくさの勝敗は兵の数ではないぞ?

『この地』を押さえた者が勝つのだ」

と。


 ◇


この地とは、現在の新潟県柏崎市かしわざきしにある米山よねやまのことである。


山地が日本海に迫る『地形』のため……

通る軍勢は縦に細く長くならざるを得ず、大軍の利点をかせないどころか、長すぎて把握すらできない。

ここが戦場ならば兵数は全く関係ない。


越後国えちごのくには米山を境にして西を上越じょうえつ地方[現在の上越市など]、東を下越かえつ地方[現在の新潟市、長岡市など]と呼ぶ。


京の都に近い上越地方には国府こくふ[国の中心のこと]があって人口が多く、都会ゆえに農業や林業よりもモノ作りが主となる。

一方の下越地方は人口が少なく、田舎ゆえに農業や林業が主となる。

米山のふもとにある『街道』には……

上越地方で生産したモノを下越地方へ売りに行き、農産物やモノの原材料を買って帰る大勢の行商人ぎょうしょうにんが行き来していた。


上越地方の人々はモノ作りをしたくても原材料がない。

モノ作りができず、生活のための収入を得ることができない。

加えて農産物の供給も止まり、食べ物にすら事欠くようになる。

要するに上越地方の人々の生活の『補給』が断たれることを意味するのだ。


米山を押さえた者。

その者は、戦争の勝利に必要な2つの条件で圧倒的な優位に立つ。


第一に補給、第二に地形である。


 ◇


現当主の晴景はるかげは兵数で圧倒的な優位に立っていたが、上越地方の民から轟々ごうごうたる非難を浴びた。


「米山を占拠している敵は少数だというのに……

晴景様は、貝のごとく春日山城かすがやまじょうに閉じ籠もって何もしていない!

我らを餓死させるつもりなのか!」

と。


民の支持を失うことを恐れた兄は……

不利な地形と分かっていながらも、米山を攻めるために大軍を率いて春日山城を出撃する。


ついに越後国えちごのくに国主こくしゅの座を賭けた決戦が始まった。

晴景軍は大軍であったが、米山では縦に細く長くならざるを得ない。

景虎軍はまず晴景軍の補給部隊に奇襲を仕掛けた上で、補給物資をことごとく焼き払った。


「最も『弱い』補給部隊を狙うとは卑怯者め!

景虎!

正々堂々と勝負しろ!」


晴景は怒り狂ったが……

補給を断たれた晴景軍は士気が低下し、決戦は景虎の勝利に終わった。

景虎は兄を追放して越後国の国主となり、やがて謙信と名を変えた。


余談だが。

謙信から最も信頼された直江景綱は、やがて養子・兼続かねつぐの時代に上杉家の執政しっせいの地位を不動のものとしている。


 ◇


謙信と景綱の対面の場に戻ろう。


「景綱よ。

信玄は、善光寺平ぜんこうじだいら[現在の長野市]に城を築いたそうだ。

知っているか?」


海津城かいづじょう[現在の長野市屋代町]にございますな。

側近の高坂昌信こうさかまさのぶが守っているとか」


「うむ。

8月になったら出撃しようぞ」


「海津城を攻めるおつもりですか?

高坂昌信は、武田軍の中でも非常に優れた武将と聞きます。

簡単に落とせましょうか?」


「わしは、海津城を攻めるとは申しておらんぞ」

「では……

どの城を攻めるのです?」


「どの城も攻めるつもりはない」

「何と!?

では、いくさの目的は?」


そちと共に戦った、あのいくさをな」


「武田信玄の面目めんぼく[名誉や評判のこと]をつぶす?

一体、どういう意味なのですか?」



【次話予告 第十八話 英雄となる者の条件】

上杉謙信はこう言います。

「英雄は……

面目を保つためなら地位を投げ出し、損得を度外視し、己の命ですら平然と危険に晒す」

と。

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