第2話 井上勝という男
井上勝は長州出身である。
父は萩の藩士で、勝はその三男として生まれたが、勝はいわゆる維新活動をした志士ではない。
幕末の勝は、長崎、幕府の蕃書調所、そして、五稜郭で有名な箱館の武田斐三郎から洋学を学ぶ日々だった。
伊藤博文のように攘夷活動に参加したり、京都で活動する志士たちと交流するということは、ほとんどなかった。
新しい知識を求め、勉強を続ける日々だったのである。
洋学を学んでいた勝は、いつか洋行をと夢見ていた。
その機会が訪れたのが、後に長州ファイブと呼ばれることになる、長州出身の五人の若者のイギリス留学……密航である。
勝は洋学を学ぶ中で、箱館で航海術などと共にイギリス副領事から英語を教えてもらっていた。
五人の中で一番若いにもかかわらず、五人の中で一番英語が出来るのが勝だった。
出来るといっても、他の者たちがあまりに出来ないだけなのだが、それでも少しは出来たので、密航の際に世話をしてくれたイギリスの外交官やジャーディン・マセソン商会との通訳をしたり、日本を出る前から活躍した。
上海からイギリスに行く際、勝は伊藤たちの『ペガサス号』とは違う『ホワイト・アッダー号』に乗ったのだが、高いお金を払ったのに水夫扱いされたときも、勝は多少の英語が出来たおかげで抗議をすることが出来た。
ただ、英語がわかるからこそ、密航の間に聞く英国人船員の悪口の意味が分かり、悔しい思いをするということもあったかもしれない。
しかし、イギリスで勝たちがお世話になったユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)のアレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン教授は、外国人だからと差別しない、自由と平等を愛する素晴らしいイギリス紳士だった。
ウィリアムソン教授は左腕が麻痺でほとんど動かず、右目が失明していて見えないというハンデを抱えながら、二十五歳で教授になった英才で、それに加えて性格が温厚で親切という素晴らしい人だった。
イギリスの著名な化学者であるウィリアムソン教授に勉強を見てもらえるという幸運は、後の長州ファイブの活躍の素因となっている。
初めて見る日本人に、まずは英会話から教えてくれたウィリアムソン教授と、外国人の聴講・入学を受け入れてくれたUCLは、日本の文明開化の恩人と言える。
勝たち五人はウィリアムソン教授の家を本拠地に勉強を学ぶだけでなく、イギリスの街や博物館・造船所などを見て回った。
その経験は勝、山尾庸三、長谷川謹助の三人を、政治家ではなく、技術者としての道に歩ませるきっかけの一つになったのではと考えられる。
伊藤のイギリス留学は半年ほどで終わったが、勝は山尾らと共にイギリスに残り、勉強を続けた。
勝のすごいところは留学時に「鉄道と鉱山をやる」と決めた先見性である。
この時、勝が鉄道を選んでいなければ、明治五年に鉄道開業とならなかったかもしれない。
勝は学問として鉄道を学ぶだけでなく、自ら現場に行き、実地での勉強を重ねた。
留学時に勝が現場で作業をしている写真が今も残っている。
勝は三男として生まれたため、野村家の養嗣子となり、留学時は野村弥吉を名乗っていた。
そのため、勝は仲間たちから『ノムラン』と呼ばれた。
勝の酒好きと、その名字を合わせたあだ名である。
あだ名で呼ばれるほど勝は現地の人たちと深い関係にあり、また、五年のイギリス留学で英語もかなりうまかった。
明治になって大隈と伊藤がイギリス公使パークスと話す時なども勝が通訳をしたほどである。
ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンを卒業した勝は、鉄道と鉱山の専門家として新政府に呼ばれ、先に出仕していた伊藤博文の部下となった。
イギリスで最先端の鉄道をその身で学んだ勝は、日本でもっとも鉄道を知る男だった。
鉄道敷設のための『政策』を頑張ったのは大隈と伊藤であるが、『実務』は勝の独壇場であり、勝はいわば日本初の鉄道マンであった。
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