甘くて、苦い

ふあ(柴野日向)

第1話 甘くて、苦い


「俺、ちょっと馬鹿な子が好きだな」

 杉崎の台詞を聞いて、私の心臓はばくばくと鳴り始めた。これは私にもチャンスが……。なんて考えて、奴が教室に入るまで廊下の角から出てこられなかった。


「悪い、杉崎、宿題写させて」

「なんだよ、また忘れたのかよ」

「やったんだけど、家に忘れた」

 私を見て、「林は馬鹿だなあ」なんて笑った。三か月前、梅雨が明けた頃。あの時の「馬鹿だなあ」の柔らかさが、鼓膜にこびりついて仕方ない。

 馬鹿キャラを演じていたわけじゃない。ただ、私のうっかりに付き合ってくれる笑顔が見たかっただけ。そんな中で耳にした、杉崎の好きなタイプ。

 それなのに――。


「靴下、左右違うぞ」

「あっ、ほんとだ」

 気付けよ。


「鞄の弁当ひっくり返す女子高生って、おまえぐらいだろ」

「うるさいなあ」

 気付けってば。


「テストで消しゴム忘れるとか致命的だよな」

「しょうがないじゃん」

 なんで気付かないんだよ!


 靴下のワンポイントに気が付いて、どうして気付かないんだよ。「林は馬鹿だなあ」。笑うあんたと一緒に笑う、この瞬間がどんなに幸せか、なんでわかんないんだよ。

「ねえ、杉崎。今日部活ないんでしょ」

 心臓が爆発して、その破片が喉を駆け上がり口から出て来そうな気分だった。

「だったらさ、一緒に帰んない」

 いいよの言葉があっさり出てきて、私は崩れてしまいそうで。先日の体育祭で疲れ切った足に力を入れて、必死に平常心を保って。

 玄関で靴を履き替えて、校舎を出て、校門をくぐって。馬鹿な話をして、あんたは楽しそうに笑って、「林は馬鹿だなあ」といつもの台詞を引き出して。

「九月だってのに、暑いよな」

「だよねー。夏休みは終わったのに」

「俺、なんか買うけど、林も飲む?」

 道端の自販機で立ち止まって、鞄から財布を出す。慌てて私も鞄のチャックを開けると、「おごるよ」って言葉が頭の上から降ってきた。

「えー、でも借り作りたくないなあ」

「せっかくおごってやるって言ってんだろー。可愛くねえなあ」

「まあそんなに言うなら。おごらせてあげてもいいよ」

 嫌われず、かつ笑顔でいられるラインを必死に探って。苦笑するあんたの顔は、それはそれは眩しくって。

「じゃあ俺が選ぶから、ちゃんとそれ飲めよ」

「炭酸は嫌だよ。苦手だから」

「わがまま言うなって」

 硬貨を入れて、ボタンを押して、取り出してくれたペットボトル。微糖の紅茶のラベル。

 一緒に帰るんじゃなかった。

「CMやってるだろ。これ飲んだら頭がすっきりして、馬鹿が治るってやつ」

 私の手に押し付けて、変わらない太陽のような笑顔で。

「林も馬鹿なとこ、今のうちに治しといたほうがいいぞー」

 喉元に熱いものがこみ上げる。

「馬鹿馬鹿言うな、ばーか!」

 ペットボトルを受け取って、私は必死に笑顔を作った。

 別れてから一人で口にした紅茶は、微糖のくせに涙が出るほど苦かった。

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