裕揮−13
「あ」
「ん?」
「俺、忘れ物したかも」
遅めの夕飯を宅配ピザで済ませ、順番にお風呂に入り、俺と瑞希くんで有司くん実家提供の布団にシーツをかけていたとき、俺は向こうのマンションに大事なものを忘れてきたことに気がついた。
「明日、取りに行ったらいいんじゃない?もう遅いし」
瑞希くんがスマホの時計を確認しながら言う。
確かに今はもう深夜11時を回っている。有司くんは下の部屋で、まだお風呂に入っているので、車を出してもらうわけにはいかないし。ていうか、車を出してもらうのは申し訳ないほど大した忘れ物じゃない。でも、俺にとっては大事なものだった。
洗面台に置いてあったデジタル時計だ。哲志に買ってもらったやつ。といっても哲志の思い出にだとかそんなんじゃない。
俺は明日、有司くんと一緒に病院に出勤することになっている。
本格的に勤務するのは来週からだけど、有司くんと瑞希くんは明日仕事だし、俺だけ部屋に一人というわけにもいかないので、挨拶がてら、昼で仕事が終わる瑞希くんと合流するまでの間、小児科の松永先生のところに行くことになっているのだ。
俺は仕事に行く前、必ずそのデジタル時計で今日の日にちと曜日、時刻をチェックすることを習慣としていた。不規則な勤務形態の中で、それが仕事の始まりを示すルーティンとなっていたのだ。
あれがないと、どうにも仕事に行く前、落ち着かないだろうと思った。それに、俺はさっき哲志に引っ越しは終わったと連絡してしまったため、明日以降になるとマンションに行ったとき哲志とかちあってしまう可能性がある。
「俺、ちょっと行って取って来ようかな」
ここから向こうのマンションまではすぐだ。走れば10分もかからない。
「え、じゃあ俺も行くよ」
瑞希くんが立ち上がりかけたが「いいよ、すぐだし。携帯持っていくから大丈夫」と制して、まだ何か言いたげな瑞希くんを置いてサンダルを履き外に飛び出した。
外は涼しかったけど、走ったらそれなりに汗がジワッと体の表面に滲んだ。帰ったらまたシャワーを浴びなきゃな、と思いながらポケットの中から兎の鈴を取り出す。兎の鈴には、今は鍵が二つ、ついている。一つは返さなきゃいけないんだった。時計を取ったら、ポストに入れておこう、と思いながらたどり着いたマンションのエレベーターに乗り、上まで行くと、玄関の扉に鍵を差し込んだ。
ギクリ、とした。
差し込んだ鍵を開く方に回しても、なんの引っ掛かりもなくスッと動いたのだ。鍵が、開いている?
頭の中で警戒アラートが鳴った。扉を開けてはいけない、そう告げていた。なのに俺は、次の瞬間、ドアの取っ手を下げて、そっと扉を開いていた。
まず玄関の三和土に、脱いだそのままの形になっている哲志の靴が見えた。それを見ただけで、体がじんと痺れる。そして家中の明かりがついていた。まるで何かを探したあとのように。
リビングの方から、小さな声が聴こえる。よく知っているけど、でも初めて聞く声だ。細かく途切れるような音の合間に、時折、すすり上げるような声が響く。哲志が、泣いている。
俺はもうたまらない気持ちになって、両手で顔を覆った拍子に、兎の鈴がチャリンと床に落ちた。
リビングの方でガタンと音がした。そして「裕揮?」哲志が玄関に向かって走り出てきた。
俺はハッとして逃げようとする。そんな俺の腕を、哲志が慌てて捕まえる。気づいたときには、俺は哲志の胸に中にいた。
匂いの記憶というものは残酷だ。こんなにも瞬時に好きだった頃の気持ちを呼び起こしてしまう。
「放して」
俺は弱々しく抵抗した。もっと深くこの匂いに溺れたいと思いながら。
「嫌だ」
そんな俺の心を読んだかのように、哲志は俺を抱き締める腕に力を込める。
ああ、駄目だ。このまま流されてしまったら、また……。
「放せよっ!!」
俺は大声を上げて、両手に力を込めて哲志の体を向こうに押しやろうとした。
「嫌だ!離したくない」
哲志も負けじと俺の体を、羽交い締めにするようにぎゅうっと抱き締めて離そうとはしない。
「もう、捨てられるのは嫌なんだよ!!」
俺は抵抗しながら叫んだ。
「捨てない!俺は捨ててない。これからは絶対離れない!」
哲志が俺の両腕を掴んで言った。
俺たちは、互いに腕を掴み合いながら玄関で揉み合うような形で向かい合っていた。逃げようとする俺とそれを阻止する哲志だ。
「どうせまた一葉のことを思い出したら、俺の前からいなくなるんだ!もう、そんなの嫌なんだよ!だったら最初から一人でいいから、もう俺のことは放っておいてよ!」
涙が頬を伝った。どうしてこんなに悲しいのか、わからなかった。
「もう思い出さないように、明日、
哲志は俺の肩をぐいと引き寄せると、俺と目を合わせ、きっぱりと言った。
「え?」俺は思わず抵抗を止める。決着ってなんだよ。
「確かに俺は、裕揮と出会う前、一葉のことが好きだった。でももう終わってる。今は裕揮を愛してる。なのに堂々と終わった恋だと言い切れないのは、ちゃんと気持ちを伝える前に終わったからだ。だから明日、一葉に告白しに行く」
「ええっ?!」
突拍子もないことを言い出す哲志に、思わず目を見張った。
「何言ってんの?一葉にはもう百花ちゃんがいるんだよ?子どもだって産まれるんだよ?そんなことして、誰が得するんだよ?哲志だって無駄に傷つくだけじゃないか」
「それでいい。振られに行くんだよ。所詮、駄目だったんだって自分を納得させるんだ。そこに裕揮も一緒に来て欲しい」
「何で俺が行かなきゃいけないんだよ!」
「裕揮が居ないと意味ないんだよ!」
訳の分からない理屈を言われて、頭が混乱してくる。
「俺、もう帰んなきゃ。瑞希くんが心配してるから」
俺は哲志の腕から逃れ、床に落ちた兎の鈴を拾った。哲志はもう俺を止めようとはしなかった。その代わりに「明日、ここで待ってるから。何時までも待ってる」と俺に向かって言った。
俺はそれには返事を返さず、無言で扉を開けて外へ出た。
今あった出来事を振り切るように階段を駆け下りて、涙を拭い、一階まで辿り着く。するとそこには、息を切らした有司くんが立っていた。
「はあっ、はあっ、裕揮くん、忘れ物あった?」
どうやら急いで俺の元へ駆けつけてくれたらしい。しかもせっかくお風呂に入ったあとだというのに汗だくだ。
「あの……」俺は哲志に会ったことを有司くんに言おうか一瞬、迷って「ごめん、心配かけて。でも、俺の勘違いだった。忘れ物は、なかったよ」と、言った。
小児科の松永先生は、とっても柔和でおっとりとした感じの優しい先生だった。ただし、手術の腕前はすごいと評判で、わざわざ遠方から大切な我が子をなんとか助けてあげたいとやってくる親御さんが後を絶たない。
松永先生は、午前中外来患者の診察があったので、朝イチで軽く挨拶を済ませたあと、俺は病棟の方で看護師に施設の説明を受けていた。
小児科には、今は他に研修中の医師は居ないらしい。俺は当分、当直は無しで、土曜の午後と日曜は休みということになっているので、他の研修医に余計な詮索をされなくて済むという点では有り難かった。もしかしたら、それも剣崎先生の計らいだったのかも知れない。
外来を終えて病棟にやって来た松永先生に、もう一度来週からお世話になることをお願いする挨拶をすると、俺は瑞希くんと待ち合わせをしている一階のロビーまで降りてきた。
時刻は13時10分だった。
瑞希くんが仕事を終えるのは13時なので、その後、帰る準備をしてここまで歩いてくるとして、おそらく到着するのは13時半を過ぎるだろう。
俺はロビーの椅子に腰を下ろして、瑞希くんの到着を待った。待っている……待たなければ……。
俺はスマホの時計を見る。哲志は、まだ待っているのだろうか。いや、駄目だ。考えるな。俺はここで瑞希くんと合流して、瑞希くんおすすめのパスタのお店に行くんだ。考えるな、考えるな、と思えば思うほど、昨日の哲志の切羽詰まったような顔が脳裏に蘇る。もう一度、時計を見る。俺は立ち上がって、ロビーの自動ドアを潜ると走り出していた。
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