哲志−2

 塚本くんに帰るよう促されて、俺は蒼介のマンションに帰ってきた。

 さっき有司くんから聞いた話が頭の中でぐるぐると回って止まらない。

 裕揮が、大量に薬を?親に捨てられたことと俺が出ていったこととの区別がついていない?認知の歪みがどうの、心理療法がどうの……。そして最後に言った、「最初から手を離さなきゃいいんだ」

 スーツのままドサッとソファに体を沈める。このまま、どこまでも沈んでいきそうな感覚に襲われ慌てて首を振ろうとするが、そんな僅かな力さえ、今の俺には残っていない。一体どうしたら良かったんだ。いや、答えはわかってる。俺は、例え裕揮に疑いの目を向けられ続けたとしても、みっともなく縋りつき齧りつき、絶対に裕揮から離れなければ良かったんだろう。

 思えば俺はいつも自分の気持ちを優先させて、こうしたいと思ったことをすぐに実力行使して、裕揮はいつもそれを黙って受け入れてくれていた。俺は自分が裕揮を守っているつもりで、実は裕揮の寛容さに甘えていたように思う。今回も裕揮から逃げ出しながら、向こうが許すと言いに来てくれるのをどこかで期待して待っていたのかも知れない。まるで、悪いことをして隠れた子どもが、探しに来た母親に許され抱き締めてもらうのを待つように。

 そのとき、サイレントモードにしてあった鞄の中のスマホがブブッと音をたてた。裕揮?!

 急に体に力が湧いて、急いで鞄を探りスマホを取り出す。するとスマホの画面には、一葉からの通知を報せる表示があった。一葉が何を?と画面を開いてみると『遺伝子検査だけで百花の親を説得できたよ!ありがとう』とメールが入っていた。ああ、そういえばそうだった。とついこの前のことなのに遠い昔のことのように思い出す。そもそもこのことが引き金となったはずなのに、今はもうそんなことはどうでもいい。

 惰性で暫く画面を見つめていると、パッとその下にもうひとつ、メールが入った。

『裕揮にラインしても全然、既読がつかないんだけど、何かあった?』

 何かどころか、今、とんでもないことになってるよ、と思いながら俺はソファにスマホを投げ出した。そのまま、投げ出した手を持ち上げることもできない。ぼんやりと、ずっと一点を見つめていると、再びスマホが振動する。いつの間にかもう部屋は暗くなっていて、電気もつけていなかった暗がりの中で、スマホがチカッと光った明かりがやけに眩しかった。

 ほとんど反射的にスマホを取って画面を開いた。

『引っ越し終わりました。部屋、そのままになっているのであとのことお願いします』

 それを見て俺はガバッと体を起こした。裕揮……裕揮……。

 嫌だ!!俺は心のなかで叫んだ。いや、実際に声に出していたかも知れない。嫌だ。離れたくない。有司くんに言われた、遠くで待機してほしいなんて言葉はどこかに吹っ飛んでいた。

 俺は車のキーを取り、部屋を飛び出した。


 夜の高速を車に乗って飛ばす。そういえば一葉に始めて会った夜、俺は一葉をこの車の助手席に乗っけて「どこまでも行けるよ」と言ったっけ。何で今更、あのときのことを思い出すんだろう。でも俺は今、どこまでも行きたい、そんな気分だった。裕揮を追いかけるために、どこまでも行ってやる、と。


 久しぶりに戻ってきたマンションの駐車場に、慣れた軌道で車を入れる。高速を飛ばしてきた勢いそのままに、走って階段で上まで駆け上がるとドアに鍵を差し込んだ。

 扉を開けた瞬間から、違和感を感じた。

 いつも玄関の三和土に出しっぱなしになっていた裕揮のサンダルがない。ちょっとコンビニへ行ったり、ゴミ出ししたりするときに履いていたやつだ。

 俺は慌てて、靴箱の扉を開ける。

 いくつか並んだ俺の靴の間から、裕揮の靴だけがまるでパズルのピースが欠けたかのようになくなっていた。いや、違う!こんなはずはない!と部屋に上がり、寝室に入ってクローゼットを開ける。俺は目を疑う。クローゼットの中はスカスカで、ハンガーラックからは俺のスーツやシャツだけを残して他はすべて撤去され、床に置いてあった衣装ケースも半分がなくなっていた。

「嘘だろ……」

 俺はリビングへ行き、裕揮の痕跡を探そうと必死になる。キッチンの食器棚を開け、裕揮がいつも使っていたカップを探す。裕揮の箸や茶碗や湯呑みを探す。他にも家中を引っ掻き回して探す。裕揮のタブレット端末。裕揮のお気に入りのクッション。裕揮がいつも使っていたトートバッグ。裕揮の……。あ……これ。

 俺は洗面台の上で、まるでそこだけがこの部屋で唯一生き残った生物のように、カチカチと秒を表す数字が10、11、12、13……と移り変わっていくのを見た。俺の脳裏に、ここに引っ越してきたばかりの記憶が蘇る。

「当直あととかさ、二日続けて出勤だったりすると、寝て起きたあと、あれ?今日、何曜日だったっけ?今、朝だっけ午後だっけ?とか思うんだよね」

 そうぼやいていた裕揮に、俺は置き型のデジタル時計をプレゼントした。細長くて、丁度、洗面台に置けるサイズで、時間はもちろん、AM、PM、日にち、曜日、ついでに今の気温や湿度まで表示されるやつだ。

「これをここに置いて、起きて顔を洗ったあとに見るようにすればもう混乱しなくて済むだろ?」

 俺がそう言うと、裕揮は「本当だ。すごいな、これ。ありがとう、哲志」と嬉しそうに笑った。

 俺はゆっくりとそのデジタル時計を手に取ると、リビングに戻り、ソファに座ってデジタル時計を自分の方に向けてテーブルの上にコトンと置いた。

 もう、いらないのか……。

 そう思った途端、目から涙がポロリと溢れた。

「うっ……」

 俺はそのまま両手に顔を埋め、いつまでも泣き続けた。

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