裕揮−12

「電気ガス水道すべてもう使えるようにしてありますので。では、こちら鍵になります」

「ありがとうございます」

 不動産屋に差し出された鍵を受け取り、お礼を言った。スーツを丁寧に着こなした不動産屋は、では、と頭を下げ帰っていく。まだ何も荷物の入っていない、ガランとした1DKの部屋に、俺と瑞希くんだけが残された。

「思ったよりすぐ借りられて良かったね」

 瑞希くんが、窓を開けて部屋に空気を入れながら言う。

「瑞希くんたちが保証人になってくれたおかげだよ。大家さんの信頼厚いんだね」

 俺は退院したときに持って出た紙袋ひとつ分の荷物を床に置いて、部屋をウロウロと歩き回り、中を確認する。当然、荷物はまだ何もない。入居手続きは入院中に済ませ、退院したその足でここに来ていた。

「もうここ住んで長いからね」

 瑞希くんが窓辺から俺を振り返り言った。

「どのくらい住んでるの?」

 俺が洗面所のドアを閉めながら訊ねると瑞希くんは、う〜んと考え「高校卒業してすぐからだから、もう7年かなあ」と遠い目をした。

「えっ、そんなに?」

「そんなになんだよ〜。しかも俺たちの保証人は有司の親だから、そっちの保証も効いてるだろうね」

「え……」有司くんの親……ということは。

「瑞希くん、有司くんの親に会ったことあるの?その、恋人として」

「あるよー。有司はオープンだからね。まあ相手にもよるけど。裕揮くんたちと友だちになろうって言い出したのも有司だしね」何気にすごいことを言ったあと、瑞希くんは「下に行こっか。お茶でも飲もうよ」と、俺を自分たちの住む部屋に誘った。


 1DKの部屋に二人分の荷物が入ると、こんなにも狭くなるのか、と驚いた。さっき見たまだ何も入っていない俺の部屋と同じ広さだとは思えないほど、床の見える面積が少ない。

 まず入ってすぐの空間を、冷蔵庫、色んな食材の入ったカゴや電子レンジが載っているスチール製の棚、小さめのダイニングテーブルと向かい合う二脚の椅子が締め、体を斜めにしなければ通れないんじゃないかと思うそれらの隙間を通った奥の部屋は、ダブルベッドがどうだとばかりに部屋の真ん中に鎮座している。そして申し訳程度にある左の空間に、薄い文庫本が入るくらいの棚が置いてあり、中には、本、ペン立て、軟膏の入ったチューブ、眼鏡ケース、ボックスティッシュ、メモ帳、などの細かい生活雑貨がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。そして右の空間は、クローゼットの扉を開くために空けてあるようだが、ギリ開くか開かないかといったぐらいの隙間しかない。

「ごめんね〜狭くて。座って」

 瑞希くんが言いながら、やかんに水を入れた。そのやかんは、もう下半分が煤で黒く染まって、長いこと使用しているんだなとわかる。ここには、二人がこれまでに積み重ねてきた確かな証があった。

「有司くんは、何時に帰るの?」

 ここに二人で住むって相当の密度だな、と思いながら、俺はやかんを火にかけている瑞希くんに訊ねた。

「どうだろ?仕事だったら9時過ぎだけど、今日は皆川さんとこ行ってるからなあ」

 その言葉に俺は驚いて、椅子ごと後ろにひっくり返りそうになった。

「なっ……どっ……」

 何をしに?どうして?と訊きたいのだが、頭がパニクッて上手く喋れない。

「まあ、あっちは有司に任せようよ。多分、悪いようにはしないからさ。もし悪いようになったら……」

「なったら?」

「二人で有司をボコそうよ」

 瑞希くんが笑い、俺は頭を抱えた。


「俺さ、有司のすること、止めらんないんだよね」

 テーブルの上に紅茶の入ったカップを二つ置きながら瑞希くんが唐突に言った。有司くんを哲志のところへ行かせたことに対する言い訳なのだろうか、と俺は耳を傾ける。

「俺たちが高校時代から付き合ってることは話したよね」

「うん」

「でも俺たちさ、付き合ってるのに、お互い指一本触れられなかった時期があってさ」

「それは……寮生活だったから?」

「うん、まあ、ざっくり言うとそうなんだけどね。でも最初のうちは、隠れてチューしたりホテル行ってやったりしてたんだよ」

 突然、過激なことを言われてドキッとしてしまった。思わず二人のそのときの姿を想像してしまいそうになり、慌てて頭からかき消す。高校生のときなんて、俺なんか一葉をオカズに一人で抜いてただけだぞ。まったく今どきの若者は、と思う俺だってそんなに歳は変わらない。

「でも、ある日ね、俺たちのことが寮生の一人にバレたんだ」

 瑞希くんは何でもないようなことのようにそう言ったけど、それがどんなに大変なことだったかは、容易に想像がついた。

「そんでバーッて広まっちゃってさ。応援してくれる人も、もちろんいたんだけど、何割かの人は『お前らと一緒に暮らすのは気持ち悪い』って言い出して」

「…………」

「しかも噂にどんどん尾ひれがついて、俺が女みたいな顔してるから『戸村が一之瀬をたらしこんだんだろ』とかって俺のビッチ疑惑まで浮上してさ」

「酷い」

「まあ、高校生だったしね。で、有司は今みたいに、バカみたいに走り回って『俺が瑞希に告白したんだ』とか『俺が瑞希を誘ったんだよ』とか言わなくてもいいこと言って、挙句の果てに『寮では絶対しないから、俺たちのこと認めて欲しい』って、みんなを説得して回ったんだよ」

 有司くんらしいな……と俺は、高校生の有司くんに想いを馳せた。「でもさ」瑞希くんの両手が、テーブルの上でぐっと握りしめられ、その圧力で指がほんのり赤くなる。

「俺、そのとき何もしなかったんだ。有司が一人で頑張ってたのに、俺はただ、みんなが俺たちに向ける悪意の目が怖くて、早くその状況から抜け出したくて俺……」瑞希くんが堪らずといった感じにうつむいた。

「みんなの前で『有司と別れる』って言ったんだ」

 俺は何も言えず、部屋が一瞬静寂に包まれた。瑞希くんの顔には、今もなお褪せない後悔の色が滲んでいる。

「俺、あんときに有司が俺に向けた顔が忘れられない」 

 瑞希くんの声が震えた。だからなのか。そのときの後悔があるから、瑞希くんはもう絶対、これからは何があっても有司くんのことを信じようと決めたのだ。そしてきっと、有司くんは瑞希くんの信頼に支えられている。

「でも別れてないよね?」俺が言うと「まあ、ちょっとはギクシャクしたけどね。でも有司が高校卒業するまで俺のこと諦めなかったから。って俺、ノロケてる?」瑞希くんが、さっきの表情とは打って変わって、いたずらっぽくニヤッと笑った。

「いや、二人にもそんな時期があったんだな〜って」

「人に歴史ありだよね」

 そう言うと瑞希くんは、ハハッと笑って立ち上がり「お茶、もっといる?」とポットを掲げてみせた。

 そのとき「ただ〜ま〜」背中の方で玄関が開いて、俺の心臓がドキーッと跳ね上がった。

「有司、早かったね。裕揮くんの部屋、開けてもらったよ」

「おわっ。裕揮くんがここにいるの、なんか新鮮だな」

 いやいやいや、そんな何事もなかったかのような世間話はいいからさ。俺は振り返って、有司くんの顔を急かすようにじっと見つめた。哲志とは、一体何を?

 有司くんは靴を脱いで部屋に上がると、不安気にしている俺と視線を合わせ「皆川さん、元気だったよ。俺の胸ぐら掴むくらい」とにっこり笑った。

「も〜有司、何、言ったんだよ」

 絶句している俺に代わって瑞希くんが呆れたように言った。

「『裕揮くんは俺たちが預かった』って言ったら『裕揮は俺のもんだ!』って怒られちゃった」

 有司くんが、戯けたように舌を出す。そして俺の前に立つと「大丈夫。皆川さんは、まだ裕揮くんのこと愛してるよ」と、確信を持った言い方で頷いた。

 そして「じゃ、やるか!」と場を仕切り直すように手をパンと合わせた。

「え、やるって?」

「裕揮くんの引っ越しだよ」

 瑞希くんが言いながら、テーブルの上を片付ける。

「ええっ?今から?」

「だって、あっちから裕揮くんのもの運ばないと話にならないでしょ?有司、車、借りてきたんだよね?」

「おおよ。あ、まず布団、降ろさなきゃ」

「布団?」

「今日から暫く、上に布団敷き詰めて三人で寝るんだよ。俺の実家提供のお古で悪いけど」

 ええっ?三人で?カップルの褥に俺って完全にお邪魔虫でしょ。

「いいよ。大丈夫だよ。俺、一人で寝られるし」

「駄目だよ。そんなことしたら俺が吉田先生に怒られるから」

 慌てて遠慮する俺を、有司くんがバッサリ跳ね除けて「さ〜あ、やるぞ~」と玄関を出ていく瑞希くんと有司くん。行動力あり過ぎでしょこの二人。


 有司くんが実家から借りてきたという車は、四輪駆動の四角いRV車で、後ろの荷台にいくらでも荷物が載りそうな形状だった。何でもお父さんがアウトドア好きで、子どもの頃はよくキャンプに連れて行かされ車の中で寝ることも多かったらしい。

「地獄だよ〜。俺、虫とか嫌いなのにさ」

 ハンドルを握りながら有司くんが子どもの頃の思い出に文句をたれる。人に歴史あり、だ。


 久しぶりに訪れたマンションは、俺が病院へ運ばれたときのまま、何も変わってはいなかった。ひとつ変わったとするならば、あのときテーブルの上に散乱していたはずの薬のシートや箱、グラスが綺麗に片付けられていたことぐらいだ。おそらく、俺が入院している間に、瑞希くんの手によって片付けられたんだろう。

 荷物は、クローゼットの中に敷き詰めてあった衣装ケースごと引き出して、その中に小物類も一緒に入れて運ぶことにした。

「本が多いな」

 有司くんが呟き、車にカートがあるからそれで運ぼうと下まで取りに行ってくれた。

 家具家電は置いていくつもりだったし、本を除けば、俺個人の持ち物なんて、ほんの少ししかなかった。大して趣味もなかったし、服や靴にも興味がない。俺がこの部屋で暮らしていた証が、たった衣装ケース三箱分くらいにしか満たないなんて、なんだか少し寂しかった。

 三人で手分けして荷物を車に積み、新しい部屋まで移動し、また三人で手分けして、上まで荷物を運んだ。

 俺は、二人が上に上がっていった隙に、ポケットからスマホを取り出し電源を入れた。あそこの家賃は哲志の口座から引き落とされているはずだから、引っ越しが終わったことを告げておかないと、家賃が無駄になってしまうと思ったのだ。

 スマホが立ち上がって画面を見てみると、ラインの着信を報せる通知が表示されていて、哲志からかとドキッするが、恐る恐る、開いてみると、それは一葉からだった。

 一葉からは、一度『不在着信』となったあと、その下にメールが入っている。

『遺伝子検査だけで百花の親を説得できたよ!ありがとうって、てっしさんにも伝えて』

 その、哲志とは今、ややこしいことになってるんだ。と思ったところで、既読がついたことに気づいた一葉から電話がかかってくるかも知れない、と慌てた俺は、急いで『良かったね』と返信して、その勢いで哲志にも『引っ越し終わりました。部屋、そのままになっているのであとのことお願いします』と送るとすぐに電源を落とした。

 電源を落とした瞬間、あ、終わったな、と思った。

 有司くんは、ああ言ってくれたけど、俺は哲志とやり直す自信なんて全然なかった。

 俺たちには、有司くんと瑞希くんのように、絆みたいなものなんてない。いつからこうだったのだろう。俺は、いつから、哲志のことを信じてあげられなくなっていたんだろう。

 もう暗くなった空から、秋の気配がした。

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