哲志−1

「社長、この案件なんですが」

「うん、何?」

 塚本くんに声をかけられ、彼のデスクに身をかがめて机上の資料を覗き込む。今日も仕事。毎日、仕事。仕事をしている間は、仕事に集中する。個人的な感傷で仕事を滞らせる訳にはいかない。

 そして仕事が終われば、ひたすら自分と向き合う時間だ。

 蒼介のマンションの鍵を返しそびれていたが、まさかの形で役に立った。

 そして更にまさかなのだが、蒼介の親父はガス水道電気も止めずに、そのまま使用料を払い続けている。そのまさかを、今、俺は利用しているわけだ。

 どうしていいのかわからなかった。裕揮の元へ一刻も早く帰りたい、という思いはある。でも、帰ったときに裕揮が俺に向けるであろう視線が怖かった。本当は一葉の方が良かったんでしょう?きっと裕揮はそう俺に訴えかける。そんな視線に「違う!」と言い返せない自分が怖い。裕揮のことは愛してる。でも、もし裕揮が目覚める前に、一葉が俺のことを好きだと言っていたら……そこでいつも思考がふわっと空気に溶けて今日も裕揮の元に帰れない、そんな日々だった。

「社長、下の守衛室から電話です。社長に会いたいって人がいるって」

 事務の佐々木さんに声をかけられた。

 誰だろう?今日はなんのアポも入ってないはずだ。ただのセールスなら、適当なことを言って帰ってもらおうかな、と考えたそのときだった。

「一之瀬さんって人だそうですが」

「えっ?」

 一之瀬、一之瀬……って、まさか有司くん?でもなんで急に有司くんが……もしかして、裕揮に何か……。

「すぐ行くって伝えて下さい。悪い、塚っちゃん。すぐ戻る」

 俺は塚本くんに右手で、すまん、のポーズを取ると、足早にオフィスを出た。


 エレベーターで一階まで降りると、守衛室の前の狭い玄関ホールに、手持ち無沙汰な様子で壁の材質を触って確かめている有司くんが立っているのが見えた。そして俺の姿を見つけると、パッと笑顔になって体ごとこっちを向き頭をぺこりと下げる。

「あっ、ど、どうしたの?」

 俺は有司くんに駆け寄りながら、言いたいことがたくさんありすぎるあまりの動揺をみっともなく晒してしまう。

「すいません、お仕事中に。裕揮くんのことで、ちょっとお話が。ええと……」

 裕揮の名前が出て更に動揺したところで、有司くんが「場所、変えませんか?できれば誰もいないところに」と、チラッと守衛室を見るので、これは絶対何かあったと心臓が大きく脈打った。

「すぐ、そばに喫茶店があるけど」

「いえ、誰もいない方がいいんです。本当に誰も」

 俺は怪訝な表情を浮かべながらも、話の続きを早く聞きたくて、有司くんを、オフィスのあるビルと隣のビルの隙間にある狭い空間に連れて行った。

「まず、こちらの手の内を話しますね」

 有司くんは、意味のわからない前置きをしたあと「落ち着いて聞いてください。裕揮くんは、先日、自分で薬を大量に飲み病院に運ばれました」

「ええっ?!」

 心臓がひゅっとすくみ上がり、思わず大声を上げてしまう。

「ひ、裕揮は……どう?!」

「落ち着いてください。幸い、発見が早かったのですぐに処置回復して今日、退院してきます。ただ……」

 有司くんが勿体つけるように、一旦、口を閉じた。ただ、なんだよ?気持ちが焦ってイラッとしてしまう。

「そんな事態なだけに、暫く裕揮くんのそばには必ず誰かが付いている必要があるんです。つまり監視です。それが退院の条件なので」

「じゃあ、俺がそばにいる!今日……いや、今からでも家に帰るよ」

 そんなことなら話は早い。俺が家に帰って片時も裕揮を離さなければいいだけだ。

「裕揮くんには、僕と瑞希が暮らすマンションに引っ越してもらおうと思ってるんですよ」

 有司くんがまた意味のわからないことを言った。そして「皆川さんには、場所は教えません」と言うと、絶対に譲るつもりはない、とばかりにぎゅっと口を横に結んだ。は?

 ぐわっと一気に怒りが沸き上がり、頭がぐらんと揺れた。

「なんでだよ!!裕揮は俺のもんだ!!」なんでおまえたちなんかに!

 腹の底から声が出た。そして両手が有司くんの胸ぐらを掴んでいた。あ、こうなることを予想して誰もいないところにしたのか、と冷静に考えているもう一人の自分がいた。

 俺と大して体格の変わらない有司くんは、俺に胸ぐらを掴まれてもまったく怯まずに、その場に踏ん張って俺の目を真っ直ぐ見返していた。薄い瞳に自分が吸い込まれそうだった。

 相手が冷静だったことで、なんとか気持ちを抑え込んだ俺は、両手を離すと息を整え「悪い。なんでそうなるのか、理由を聞かせて欲しいんだけど」と自分を落ち着かせながら、しかし有司くんをじろりと睨みつけながら、言った。

「僕、いつも話す順番を間違えて相手を動揺させちゃうんですよね。すみません」わざと怒らせたくせに、いけしゃあしゃあと有司くんが言い「裕揮くんの過去は知ってますよね?」と俺に訊ねた。

 過去、と聞いて思い当たるのは……。

「虐待?」そう答えると有司くんは「まあ、そうですね。広義の意味ではそうですね」と、あやふやに言う。

「裕揮くんは、何度も虐待を受けている。まずは産まれてくること自体に対する父親からの拒絶。そして産まれてからは母親からの拒絶」

 俺はハッとする。少し足元をすくわれた気分だった。虐待といえば、母親の恋人からの性虐待のことで、産まれたときの父親のことにまでは考えが及んでいなかった。

「裕揮くんは今、皆川さんが家を出ていったことと、父、母に捨てられたこととの区別がついていない」

 言われて、また頭に血が上りそうになった。

「馬鹿な!俺は裕揮を捨ててなんかない!そのうち帰るつもりだった!気持ちの整理がついたら……」

「今度はこっちが質問します。一葉さん、という人はどういう人なんですか?」

 畳み掛けるように一葉の名前を出されて思わず息を飲んだ。一体、何が起こっているのか頭が混乱し始めていた。有司くんは、どこまで知っているんだ、俺を試そうとしているのか?と思いながらも、これで何かが変わるならと俺は一葉と出会ってからこれまでのことをすべて有司くんに話した。

 有司くんはこぶしで眉間を押さえて目を閉じ、う〜んと考え込むと「それは、ちょっと……僕の想像を遥かに超えてました」と困った顔をした。しかし、うん、うん、と何か自分に言い聞かせるように頷くと「取り敢えず、裕揮くんには暫く心理士による心理療法を受けてもらいます。それで、過去の出来事と今、現在起こっていることとの違いがわかるよう認知の歪みを修整していきます。皆川さんには、裕揮くんがもうちょっと落ち着くまでこのまま遠くで待機していて欲しいんです」と、ようやく結論を告げた。

「待機って……それはどれくらい」

「わかりません。人によって、すぐに落ち着く人もいるし、何年もかかる人もいる」

「俺がそばにいちゃ駄目なのか?」

「早く治すには、距離を置いたほうが」

「そんなの……」

 俺はまるで、地面が突然なくなって、ストンとどこまでも落ちていくような感覚に襲われた。

「何年も会わない間に、裕揮が俺のことを忘れてしまったらどうするんだ」

 有司くんは、そのまま足を後ろに引いて、立ち去る姿勢を見せた。そして、それまでずっと淡々としていた口調が、立ち去る瞬間だけ、少し語気を強くしたように感じた。

「じゃあ、最初から手を離さなきゃ良かったんだ」


 エレベーターで上階に戻り、エレベーターホールに出ると、そこには塚本くんが立っていた。

「社長、なかなか戻らないから今、電話しようと……」

 そこまで言うと塚本くんは、俺の顔を見て、無言で俺の腕を引いて廊下の脇のトイレに連れて行った。

「そんな顔で、みんなの前に戻るつもりだったんですか?」

 言われて、すぐ横にあった洗面台の鏡を見る。

 酷い顔だ。顔は青ざめ、眉間にはシワが寄り、白目の部分は赤く染まっている。

「今日はもう帰ってください」

 塚本くんに言われた。

「いや、でも仕事が」

「今日は無理ですよ」

 そして「鞄、持ってきます」と塚本くんはトイレを出ていった。

 結局、俺は個人的な感傷で仕事を滞らせてしまった。はあ、と重たい息をついて手で顔を覆う。明日が土曜日で助かった。でも月曜日までに立ち直れるかわからない。もう、本当にどうしていいのか、わからない。どん詰まり状態だった。

 暫くして、塚本くんが、俺の鞄と車のキーを持ってトイレに戻ってきた。

「事故んないでくださいね」と、俺に鞄とキーを渡す塚本くんの言葉が心に染みる。塚っちゃんが俺に優しいなんて、珍しいことだ。





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