裕揮−11

「まあ、座れや」

 剣崎先生は、患者用の椅子を顎でしゃくりながら、突っ立ったまま固まっている俺に向かって座るよう促した。

 俺は言われた通り椅子に座ろうとするが、動揺しすぎたのかガツンと自分のつま先で椅子の脚を蹴飛ばしてしまう。

 それでもなんとか椅子に座ると、「おまえ、救急科クビな」いきなり容赦ない剣崎先生のボディブローが飛んできた。

 もちろん、そんなのわかってる。患者を危険に晒した挙げ句、調剤室から薬を盗んで、ODで自分が救急科に運ばれたのだ。こんな危険な人間、誰が医者として置いておこうだなんて思うだろうか。

 でも俺は返事をしなかった。そんな身も蓋もない言い方しなくても、という反発心があった。

 剣崎先生はそんな俺の態度なんかまったく意に介さずに、次に意外なことを口にした。

「小児科に俺の後輩の松永まつながってやつがいるんだけど、そいつにおまえのこと頼んどいたから。退院したらまずそっち行って勉強してこい」

「え?」

 一瞬、耳を疑った。それは……まだ研修を続けていいってことなのか?

「まあ最初は、当直なし、残業なし、週休二日の時短勤務ってとこだな。あ、世間ではそれが普通か」

 そう言って剣崎先生は、ガハハと豪快に笑った。俺は、笑えなかった。

「おまえ、施設出身なんだってな」

「え、あ、はい」

 いきなり話が飛んで、さっきの話もまだよく飲み込めていない俺の頭が一瞬バグる。

 剣崎先生はもう笑ってはいなくて、椅子に深くもたれかかると、何か思いに耽るように遠い目をしながら回転式の椅子をぐるぐると左右に揺らした。

「俺がまだ他の病院で救急科の研修医してた頃によ、施設の庭で蜂に刺されてアナフィラキシー起こしたってガキが搬送されてきたんだよな」

「え……」

「俺、そんときまだペーペーでさ、なんもできなくて、ただただ上級医がガキの命救うのを後ろで突っ立って見てたんだよ」

 それは、もしかして……。

「そんでなんとか落ち着いて、上級医が俺に、引き継ぎに行ってる間、患者の様子見とけって言うからずっと見てたらガキが目を開けてさ、俺のことキラキラした目で見やがるから、俺、咄嗟に自分が助けたみたいな顔して『坊主、よく頑張ったな』って言って頭、撫でたんだよ」

 俺は、唖然として息を飲み込んだ。あのときの……。ぼんやりとした印象しかなかった、あのときの医師の顔が、突如としてくっきりと剣崎先生の顔に替わる。

「なんか、見たことある名前だな〜って思ったんだよ。そりゃそうだ、俺がカルテ記入したんだから」

「でも、一日何人分もカルテ記入するのに、よく覚えてましたね」俺が言うと、「それには理由がある」剣崎先生はまるで何かを宣誓するかのように声を張り上げた。

「俺、あんときのこと暫く心に引っかかってたんだよ。ああ、俺、あの子に嘘ついちまったな〜って。俺が助けたわけじゃないのに、あの子は俺のこと命の恩人だと思ったわけだ」

「はい」実際、今の今までそうだと思ってましたよ。

「だからさ、俺、それをきっかけに、それまで以上に必死で勉強したんだよ。嘘を本当にしなきゃって思ってさ」そして俺の方を向き、しっかりと視線を合わせると、「今度は、ちゃんと助けたからな」念を押すように言った。

 何が言いたいんだ、この人は……と頭の中では呆れているのに、俺は自分の頬を涙が伝って、膝の上にポタリと落ちるのを止めることができなかった。

 剣崎先生は、そんな俺の頭をクシャと撫で、「こんな俺でも医者、続けられてるんだ。おまえも、あとからゆっくり来い」立ち上がって「あ、栗毛の兄ちゃんにもお礼言っとけよ」言いながら、先に診察室を出ていった。俺は、次から次に溢れくる涙が収まるまで、暫くそこを動くことができなかった。


 病棟の患者みんな揃っての昼食が済んだあと、俺がロビーのテーブルで、やって来た作業療法士に借りたスクラッチアートに挑戦していると、「ひろ……篠宮さん!」ロビーの向こうから有司くんが俺を呼んだ。

 俺が立ち上がって、有司くんの方へ行こうとすると、「あ。一之瀬先生だ〜、やっほ〜」と俺の前で同じくスクラッチアートをしていた、まだ十代にしか見えない女の子が有司くんに手を振った。

 彼女はいつも、長い髪を大きめのポンポンのついたゴムでツインテールにしていて、まるでアニメのキャラクターのような声で喋る。そして腕の内側には、リストカットをした跡が何本も刻まれていた。

 俺が、彼女に向かって手を振り返している有司くんの側に近づくと、有司くんは俺に「ちょっと話があるんだ」と言って、そのままロビーの真横にあるナースステーションに向かって、「ちょっと診察室借りてもいいですか?」と声をかけた。

 すぐそばにいた看護師が、壁にあったホワイトボードで診察の予定を確認し、「30分くらいなら、大丈夫ですよ」と返す。

「ありがとうございます」

 有司くんが先に立って歩き出し、俺はそんな有司くんの横に並びながら、「さっきの女の子、有司くんのクライアントなの?」と訊ねた。

「ん〜まあ。研修中だから、一人で診てるわけじゃないけどね」

「絶対、有司くんに気があるよね」

 俺が言うと有司くんは、ぎょっとしたように俺の顔を見て、「裕揮くんでも、そんな話するんだね」と目を丸くした。

 確かに以前の俺だったらしなかったかも知れない。コミュニケーション効果が早くも出たのだろうか。


 診察室に入ると、有司くんは俺に椅子を勧めて自分も座り、「これ、見て欲しいんだけど」と白衣のポケットから8つに折り畳んだB4くらいの紙を取り出し、机の上に拡げた。

 それは、よく不動産屋の入り口に貼ってある、賃貸物件の間取りや家賃などの情報が書いてあるチラシだった。

「これ……」

「なんと、ここねえ、俺と瑞希が住んでるマンションなんだよ!しかもすぐ真上の部屋なんだ。昨日、空きが出たってチラシが出ててさ、不動産屋に問い合わせたらまだ入居者決まってないって」

「え?ちょっと待って。ここ1DKだけど……有司くんと瑞希くんって二人で一人部屋に住んでるわけ?」

「ん?そうだよ?ねえ、どうかな。ここなら俺と瑞希もすぐ様子観に行けるし、吉田先生に言えば退院許可出るんじゃないかな」

 二人で一人部屋に住んでることについては軽く受け流して、そんなことよりも、と、有司くんは興奮しながらチラシを俺の方にグイグイ近づける。

 退院許可……。元居たマンションには当然、帰りづらい。でもこれで俺には、新しく住む場所も、次の研修先もある。

「ちょっと考えていい?」

「うん、もちろん」

 有司くんは、チラシを畳んで、これ、裕揮くんに渡していいか一回、看護師さんに訊いてくるね、と部屋を出ていった。

 俺も部屋を出ようと椅子から立ち上がったとき、もう既に俺の中で、結論は出ていた。

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