裕揮−10

 内科の先生の許可が降り、点滴とバルーンカテーテルを外された俺は、少し歩行訓練をした後、精神科病棟から迎えに来た看護師に連れられ、長い廊下を伝って閉鎖病棟へとやって来た。

 鍵のついた扉の中に入ると、廊下をゆったりとした服を着てスリッパで歩く人、奥のスペースで椅子に腰掛け数人で雑談をしている人、など、病室はすべて開放されており、そこを出たり入ったりしながら、割と自由な雰囲気でくつろぐ患者たち、いや、一見患者とは思えない人たちが、思い思いにのんびりと過ごしているのが見えた。

「篠宮さん、入院の手続きしますのでこちらに」

 俺を迎えに来た看護師が、廊下に面した扉を開け俺を招きいれる。中は、パソコンの載ったスチールの机がひとつ、とその前に椅子がひとつ、そして患者が座る椅子がひとつ置いてあるだけの小さな小部屋になっていた。

 そしてスチール机の前の椅子には、笑顔を絶やさない精神科医の吉田先生が座っている。

「篠宮さん、調子はどうですか?」

「あ、はい。だいぶ、いいです」

「良かったです。じゃあ、ちょっと簡単に色々質問しますね」

 てっきり、診察でも始まるのかと思ったら、入院中のお風呂の時間、食事の量、持ち込んでいいもの、悪いものの、個室がいいか大部屋にするか、などの話をされた。まさに入院手続きだ。こんなことまで医師がやるんだな、と思いながら、俺は迷うことなく大部屋を選ぶ。個室は差額ベッド代がかかるので、経済的な不安があった。

「あの、俺、着替えとか持ってきてくれる人が、今、誰もいなくて……」

 今はまだ、内科でいつの間にか着せられていた病院着のままだった。スマホも家に置きっぱなしだし……まあ、持っていたとしても、誰にかけるつもりでもなかったが。

「あ、なんか、一之瀬くんが持ってくるって言ってたよ」

「えっ」

 なんてこった。俺、有司くんたちに迷惑かけ通しだ。はあ、と音をたてて、ため息をつく俺を見て、吉田先生は「まあ、今は周りに甘えていいから、ゆっくり休んで。夜、眠れないとか、気分の落ち込みが続くようなら、またお薬の相談しようか」と、にっこり笑った。


 そこからは、まったくの自由時間で、びっくりするくらいやることがなく、俺はただただ病棟の中をウロウロと歩き回った。他の患者さんたちもロビーでくつろいだり俺のように歩き回ったり、暇そうな顔でダラダラと過ごしていた。まるで外界とは違う時間軸にあるようなそこは、本当に一時、人生を休みに来た人たちが集う空間のようだった。

「篠宮さ〜ん。荷物持ってきてくれてるよ〜」と呼ばれて、ようやくやることを見つけたとばかりに急いで鍵のかかった出入り口に向かうと、そこには瑞希くんがいて看護師に荷物を点検されているところだった。

「あ、裕揮くん」

 瑞希くんは、おそらく昨日から俺に付きっきりで、その後仕事にも行って、その後、俺のために荷物を持ってきているにも関わらず、いつもと変わらない笑顔で俺に手を振ると、「勝手に裕揮くんち入って着替えとかハブラシとか持ってきちゃった。鍵、玄関に置いてあったやつでかけてきたんだけど、鍵は病棟の中に持ち込めないんだって。どうする?」とまるで世間話でもするかのように言った。

「じゃあ瑞希くん持っててくれる?ありがとう。ごめんね、色々と」

 俺が申し訳なさそうな顔をした途端、瑞希くんの顔から笑みがスッと消えた。そして、「もう謝んないでね。今ので最後にして」と、鋭い目で俺の顔をじろりと睨む。忘れてた。瑞希くんは、可愛い顔に似合わず怖いのだ。

 紙袋に入った荷物を受け取り、お礼を言って瑞希くんを見送ったあと、紙袋の中を覗くと、俺のスマホとモバイルバッテリーが入っていた。

 スマホを手に持って、画面を開こうとするが、俺はどうしても開くのが怖くて、そのままスマホを紙袋の中に戻した。


 次の日、俺は『ちゃんとした』臨床心理士である、町田先生という人のカウンセリングを受けることになった。

「昨日はよく眠れましたか?」

「まあまあです」

「良かったです。じゃあ何か話したいことは、ありますか?」

「え……」

 いきなり、話したいことと言われても……「特に何も」そう答えるしかなかった。

「何か、困っていることとか」

「いえ、別に」

 強いて言えば、今、この状況に困ってます。

「篠宮さんは、思ったことを人に話すのは好きじゃないですか?」唐突に訊かれた。

「はあ、まあ……」見てわからないかな「好きじゃないです」

「うん」

 町田先生は、納得したように頷くと、「じゃあ、紙に書くといいかも知れません」と言った。

「何をですか?」

「思ったことをです」

「書いてどうするんですか?見せるんですか?」

「見せなくてもいいです。書くだけです」

 何を言われているのかわからなかった。

「書いたら何がわかりますか?」

「自分の言葉を客観的に見ることができます」

「客観的に?」

「客観的に」

 町田先生は確信を持った言い方でそう答え、俺はただポカーンとするしかない。

「まあ、入院中は、ペンなどの持ち込みが禁止されていると思うので退院してから、気が向いたらやってみてください」

 そう言ったあと、体調や今の気分などを訊かれて、その日のカウンセリングは終了した。オーバードーズをしたことについては、触れられなかった。


 俺はその後、積極的に他の患者さんとコミュニケーションを取ろうと試みてみた。町田先生に、コミュニケーションが嫌い認定されたことで、あえて逆の行動を取ってみて、何か変わるか試したくなったのだ。

 一番最初に話しかけたのは、ロビーに置かれたテーブルで、何やら黒い紙にペンのようなもので絵を描いている女性だった。年の頃は四、五十代といったところだろうか。白髪交じりのカサついた髪を後ろで一括りにし、一生懸命、絵を描いている。

「何をしているんですか?」

 俺が隣に立って話しかけると、ビクッとこちらを見上げてキョトンとした顔をすると、「スクラッチアート」と短く答えた。

 よく見ると女性がやっていたのは、黒い紙に絵を描くものではなく、銀色の部分をコインで擦るスクラッチくじの要領で、黒い紙に書かれた銀色の線をペンのようなもので擦り取ることで、絵が浮かび上がるようになっているものらしかった。

 このペンは持ち込みを許されているんだろうか、と思いながら、「これは、ここで貸し出しとかされているんですか?」と訊ねると、「作業療法士さんが来たときは借りられるけど、これは私の持ち込み。月水金に作業療法士さん来るから頼めばできるよ」と言って、また作業に戻っていった。結局、ペンの持ち込みについては謎のまま、俺はそこを離れた。


 次に話しかけたのは、とても話し好きな、親ほどに年の離れたおばちゃんだった。

 おばちゃんは、もうここに来て数週間は経つらしく、今ここで暮らしている人たちのことを詳しく俺に話して聞かせた。

「あの人は、先週入ったばかりでね、頭の手術をするんだって。あっちの人はもうここに来て長いんだよ。三回目の入院らしい。あ、あの男の子ね、突然キレて暴れたりするから、気をつけた方がいいよ。この前もあそこにいる人とオセロをしていて喧嘩になったんだよ」

 おばちゃんは、ひとしきり入院患者のことを話してくれたが、最後まで自分の話だけは一度もしなかった。


 次に話しかけた、というか流れで一緒にトランプをすることになったのは、おばちゃんが話していた突然キレるという男の子だった。

 男の子といっても、俺とそんなに年の変わらなそうな彼は、勝負が白熱していくにつれ、すごい集中力で「もう一回」「もう一回」と迫ってくるので、なんだか俺は途中で怖くなってしまい、キリのついたところで恐る恐る「ごめん、疲れたからやめてもいいかな」と言ってみたら、ハッとしたような顔をして「うん」と言うとトランプを片付け始めた。てっきりキレられるかと思ってしまった。人の噂を鵜呑みにしすぎるのも良くないな、と思った。

 そんな風にして、もて余す程の時間を過ごしていると、「篠宮さん、診察です」と看護師に呼ばれた。

 こんな、いきなり診察に呼ばれたりするんだな、と思いながら診察室に入っていくと、「よーう、元気そうだな」その声に心臓が、ヒュッと縮み上がるのがわかった。

 診察室のスチール机の前の椅子には、青いスクラブを着てニヤニヤと笑う、剣崎先生が座っていた。

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