裕揮−9
目の前がうっすらと白く光り始めた。
あれ?なんだかデジャヴだな。
でも、天井の灯りを遮って俺の顔を覗き込んできたのは一葉ではなく、「裕揮くん!大丈夫?」瑞希くんだった。
うわっ、頭も痛いし、お腹も痛い。気持ちが悪い。全然、大丈夫じゃない。でも、声に出して訴えることができない。
「先生、呼ぶね」
瑞希くんは、そう言って、どうやらベッドに寝かされているらしい俺の上を横切って腕を伸ばすと、枕元にあったナースコールを押した。
「裕揮くん、丸一日寝てたんだよ。今日はねえ、24日の水曜日」
あ、そうなんだ。ていうか、何で俺はここにいるんだ?あまり働いてくれない頭で必死に考える。そういえば、薬を飲んで意識を失う直前、有司くんが見えたような……。
看護師がやって来て、瑞希くんと何やら会話を交わした。
その後、内科の医師がやって来て、俺の体をあちこち調べて「うん、大丈夫そうだね。もうちょっと薬が抜けるまで辛いかもしれないけど」と言うと、そのまま病室を出ていった。そのとき、ここが、個室であることに気がついた。
内科の医師が出ていってから、俺が喋らない代わりに瑞希くんが、何やら当たり障りのないことを一人でベラベラと喋っていた。今日は、いい天気だよ、とか、部屋、暑くないかな、とか、何気にこの病院、初めて来たんだよね、とか。気を使われてるな、とは思ったけど、瑞希くんの落ち着いた喋り方はなんだかとても耳に心地よく、俺は体調の悪さから気を逸らすために、ずっと瑞希くんの話に耳を傾けていた。
暫くそんな時間を過ごしていると、ガラッと扉が開いて白衣を着た有司くんが飛び込んで来た。
「裕揮くん!良かった!」
有司くんは、ハアハアと息を切らしながら肩を上下させている。
「有司、走ってきたの?ていうか、午前の診察、終わったの?」
瑞希くんが言うと、有司くんは息も絶え絶え、「終わった」と短く答えた。
「ふうん。じゃあ、俺、帰るね。じゃあね、裕揮くん。また来るね」
瑞希くんは、まるで友だちの家に遊びにでも来たかのようなさり気なさで手を振って帰っていったが、きっと今まで俺に付きっきりで、今から仕事に行くのだろう。有司くんも、仕事中だったのに、瑞希くんと交代するために走ってやって来た。俺を見張るために。
有司くんは、ハアと息を整えると、さっきまで瑞希くんが座っていたベッド横の丸椅子に腰を下ろした。
「俺、保護室に行けばいいのかな」
やっと絞り出した声で、俺は有司くんに訊ねた。
保護室は、精神科のいわゆる閉鎖病棟の中にある、さらに隔離性の高い個室のことで、自傷他害の危険がある患者が入る部屋だ。部屋の中はトイレとベッドだけ。窓も開かず扉は外から鍵がかけられ、自分の意志で出ることはできない。そこに行けば、取り敢えず誰かがずっと見張る必要がなくなるから、もう有司くんや瑞希くんに迷惑をかけることはない。
「いや、ちょっと待って、裕揮くん。あとで精神科の
有司くんが、慌てて俺をたしなめた。外から閉じ込められるというのは、当人にとって相当なストレスを伴う。保護室は、あくまで最終手段なのだ。
「有司くん、何で戻ってきたの?」
「え?」
「俺が、薬飲んだとき」
「ああ」
有司くんは下を向いて、白衣の裾から出ていた白い糸をいじくりながら、「なんとなく?」と、はぐらかすように答えた。この人は、こういうところがあるな、と改めて思った。
「放っといてくれればよかったのに」
もちろん、放っておけるはずなんかはない。わかっているのに、こんなことを言ってしまうのは、きっと俺が有司くんを信頼し始めている証拠だ。
有司くんは顔を上げ、「裕揮くん」と優しく俺に呼びかけた。
「俺さ、こんなこと言うの心理士として間違ってると思うんだけど、ちょっと聞いてくれる?」
俺は何も答えなかった。有司くんは構わず続ける。
「俺がまだ大学生だったときにさ、このまま卒業してどこか適当な会社に就職するか、院に進んで心理士を目指すか悩んでいたときに、ある人に言われたんだよ」
思い出話を聞いていられる程、俺、今、体調万全じゃないんだけどな、と思いながら、耳だけを有司くんの方に向けている。
「『どうして人はさ、誰かの特別にならないと気が済まねえんだろうな』ってさ」
そのとき、俺の中の何かが、少し震えたような気がした。
「子どもの頃は母親、もしくは父親、少し大きくなったら誰かの親友、もう少し大きくなったら誰かの恋人。そうやって誰かの一番でいないと、幸せだと思えない。でも本当にそうなんだろうか。例えば仕事をすればお金がもらえる。お金を出せば、欲しいものが買える。拒まれることはない。場合によるかも知れないけど、大体はそうだ。それって幸せなこととはいえないのか?って」
理想論だ。人の気持ちは、そんな単純なものじゃない。
「理想論だよね。俺、もっとちゃんと心理学的なアプローチで話をしないといけないのに。でも俺、思うんだよ。もし、もしだよ?」
そこで有司くんは、言いにくそうに一旦、口をつぐむ。
「もしさ、このまま皆川さんが帰ってこなかったとしてもさ、俺と瑞希は裕揮くんの友だちだし、裕揮くん女性看護師たちに人気あるしさ、今まで関わってきた患者さんたちとか、いつも利用してる売店のおばちゃんとかスーパーヤマセイの店員さんとかも裕揮くんのこと『いつもありがとう』とか思ってるかも知れないしさ」
有司くんの口調が段々早くなっていき、膝の上で組まれた両手が、ぎゅうっと強く握りしめられていく。
「誰かの特別じゃなかったとしても、誰も愛してくれないなんてないよ。裕揮くんのこと好きな人はちゃんといる。だから、そんなちっちゃい愛情だとしても、たくさん集めたらそれで、なんとか生きていくことはできないかな」
最後の方は声が震えていた。
……有司くんが今にも泣き出しそうなのに、俺の心は1ミリも動かなかった。説教くさくてウザいな、とすら思った。でも、きっと、こんなことを思ってしまう、俺のほうが今、頭がおかしいんだろう。
「ごめん。こんなの俺が感情的になってるだけで、ウザいよね。俺、心理士失格だよね。今度、ちゃんとした先生に頼むからね」
有司くんが眼鏡の下から手を入れて、目をゴシゴシと擦っていた。
「有司くんは、心理士失格じゃないよ」
「え?」
「失格じゃない」
そうだよ、失格じゃない。こういうときに泣ける人が、きっとまともな心を持った人なんだ。
精神科の吉田先生は、優しくて柔和な感じの、ずっと笑顔を絶やさないまま話す年齢不詳の男性医師だった。二十代に見えなくもないし、四十代に見えなくもない。
「まだ、薬を飲みたい気持ちはある?」
「少し」
「そっか……。気持ちはどう?落ち着いているとか、わーっと暴れたくなるとか」
「暴れたい気持ちはないです」
「うんうん」
吉田先生は、手元のバインダーに何か書きつけながら、「保護室入るまでは、しなくていいんじゃないかな。ただ、家に帰っても誰も見ててくれる人がいないなら、保護入院という形で、病棟の出入り口にだけ鍵がかかる場所に入院してもらおうかな」と言った。
「はい」
俺は素直に返事をする。少し、ほっとした気分だった。保護室に入らなくて済んだことにではなく、俺を病棟にでもいいから閉じ込めてくれることに対して、だ。閉じ込められている間は何も考えなくて済む。でも反面、もう医者としてのキャリアは終わりだな、という絶望感もあった。死のうとした人間が、今更、絶望もなにもあったもんじゃないが。
吉田先生が、「内科の先生の許可が出たら病室に連れてくから呼びに来るね〜」と、去ったあとも、有司くんはその場に残っていた。
「有司くん、俺、寝ていい?」
薬の影響なのか、診察で疲れたのか、酷く眠かった。
「うん、もちろん」
俺は、有司くん午後からの診察、大丈夫なのだろうか、と思いながら、いつしか眠りに落ちていた。
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