有司−1

「おい、栗毛」

「あ?」

 しまった。ぞんざいな呼び方をされてつい、凄んでしまった。

 振り向いた先にはスクラブを着た医師。しかもこの人は悪名高い、救急科の剣崎先生。裕揮くんの指導医だ。

 俺はにっこりと笑顔を作り、「何でしょうか?」と、素早く低姿勢になってみせた。

「おまえ、なかなか食えない奴らしいじゃねえか。一部で評判になってるぞ」

「いえいえ、剣崎先生に比べたら、僕なんかまだひよっこです」

 剣崎先生は、フン、と鼻を鳴らしてから、「おまえ、篠宮と仲いいよな」と言うと、表情を読まれたくないとばかりに、そっぽを向いた。

 何かあったのか?と、俺は今、券売機で買ったばかりの食券を指で擦る。俺は今から昼食を取ろうと、食堂にやって来たところなのだ。そこで声をかけられた。

「仲、いいですよ」少なくとも俺は、そう思ってます。裕揮くんがどう思っているのかは、分かりませんが。

「あいつ、いっつもあんな感じか?」

「あんな感じ?」

 剣崎先生は、一度う〜んと熟考したあと、「自分の限界が分からない感じ」と、言葉の砂浜から貝殻をひとつ、拾い上げるように呟いた。

 これは、いよいよ何かあったらしい。一体何が?と俺が訊ねようとした瞬間、「おまえ、ちょっと行って様子見てきてくんねえか?」突然剣崎先生に頼まれた。

「え?どこにですか?」

「家だよ。俺さっき、あいつに邪魔だっつったあと帰れって言っちまった」

「はっ?!」

「あ、これは俺が食っといてやるよ」

 剣崎先生はそう言って、俺が手に持っていたA定食の食券をピッと指でつまんで取ると、配膳カウンターの方へ歩いていってしまった。

 なんだ、あの人……。

 ヤバい人だな、と思いながら、でも俺の直感がもうひとつのヤバいことを報せていた。

 裕揮くんが、なんだかヤバそうだ、と。


 マンションの場所は、瑞希に聞いて知っていた。何故、瑞希は知っていて俺が知らないのかちょっと腑に落ちないところはあったが、瑞希が裕揮くんに好かれているならそれでいい。

 マンションの前には、大きな引っ越し社のトラックが停まっていて、二人の作業員が手際よく荷物を運んでいる。

 俺は作業の邪魔にならないように、端の方を歩きながらエントランスに入りエレベーターのボタンを押した。

 エレベーターに乗り込むと、ダンボールを持った作業員も「すいません」と言いながら一緒に乗り込んでくる。

 俺の方が先に降り、通路を進んで裕揮くんと皆川さんが暮らす部屋のまえまでやって来た。

 インターホンを鳴らす。返事がない。なんだか胸騒ぎがして、もう一度、更にもう一度鳴らした。

『はい』

 やっと返事がして、俺は裕揮くんに、ここに来た理由を告げた。

 ちょっと、待ってて、の後に玄関が開いて裕揮くんが姿を現したとき、すぐに異変に気がついた。

 表情がない。目が合わない。全身にまとわりつくような倦怠感。さっき剣崎先生が言っていた言葉が頭に浮かぶ。「自分の限界が分からない感じ」

 俺は、異変に気づいていることを、なるべく表情に出さないようにしながら、取り敢えずこのままにはしておけない、という焦りに似た気持ちで、強引に家の中に上がり込んだ。

 ざっとリビングを見渡して、部屋の中の状態を確認する。部屋は綺麗に片付けられていて、荒れた様子はない。さっき言いかけていたけど、皆川さんは、裕揮くんの異変に気づいていないのか?それとも、皆川さんと何かあった?

 俺は笑顔を作ってから、「裕揮くん、随分、疲れてるみたいだけど何かあった?俺で良かったら、話聞くけど」と振り向いた。

 その後、裕揮くんの口から語られた過去は、凄惨なものだった。傷つけられた、という言葉で表すだけでは足りない。そんな環境で育ったら、自分の限界なんてわからなくなって当然なのかも知れない。でも途中から、話の辻褄が合わなくなっていった。皆川さんが、一葉さんという人を裕揮くんから奪った?そして裕揮くんのことを、皆川さんが捨てた?訳がわからない。じゃあ何故裕揮くんと皆川さんは一緒にいたんだ?俺は一度、裕揮くんに確認を入れる。どうやら、捨てられたわけではないようだが……。

 過去のトラウマによる認知の歪み、か、それとも三人の間で、他に何かあったのか。

 とにかく、裕揮くんには、継続的なカウンセリングを受けさせる必要があると感じた。今の全身状態からすれば受診もやむを得ないかも知れない。精神科と聞いて抵抗を感じる人は多い。上手く話を持って行かなけれ……え?

 突然、裕揮くんにキスをされた。これは……どうしよう。

 俺が固まっていると、裕揮くんは俺の首に抱きついて、「ねえ、俺のこと抱いてよ。いつも瑞希くんにしてるみたいにさ。俺のこと瑞希くんだと思ってくれてもいいよ」と言った。そして、俺の耳元でスンと一瞬、息を吸い込むが、すぐにピタリとその動きを止める。

 そうだよ、裕揮くん。俺は皆川さんじゃないんだ。キミが一番抱いて欲しい人は皆川さんだろう?ここは踏ん張ろうよ。泣いても叫んでもいいからさ。

 俺は、なんとか裕揮くんに病院に来るよう説得を試みた。頼む!断らないでくれ!と切望しながら。

 その甲斐あってか、裕揮くんは午後の診察を受けることを了承してくれた。少し眠りたいというので、後で迎えに来るからと約束して、俺は部屋を後にした。


 玄関扉を閉めた瞬間から、なんだかモヤモヤとした。

 通路を通ってエレベーターに乗り込みながら、何か見落としていることがあるんじゃないかと、もう一度さっきまでの出来事を頭でなぞる。

 階下ではまだ引っ越し業者が作業を続けていた。トラックを避けて歩きながら考える。

 抑うつ感、は中程度だったように思う。裕揮くんの過去の話。部屋の状態。部屋……何か引っかかる。あのテーブルの上のグラスの中身……。透明だった。水?なんのために?

 ……ヤバっ!俺は急いで踵を返すと、再びマンションの中に走って戻り、エレベーターの上りボタンを連打した。

 エレベーターは上階で止まったままなかなか降りては来ない。業者が止めてやがるのか。チッと舌打ちを鳴らし、階段を駆け上がる。

 裕揮くんちの前まで一気に走ると、開け!と念じながらドアノブを下げた。開く!

「裕揮くん!!」

 リビングに入っていくと、ソファにもたれていた裕揮くんと一瞬、目が合った。でも次の瞬間には首がカクンと横に倒れてそのままズルズルとソファに横倒しになる。

 テーブルの上には空っぽになったグラスと、薬の箱とたくさんのシート。

 くそっ!俺は心のなかで叫ぶと、裕揮くんの両腕を自分の背中から前に回すと、勢いよく持ち上げて、背負い上げた。

 一度リビングを出かけてもう一度戻り、テーブルの上の空っぽになったシートを三枚、一気に掴んでジーンズのポケットにねじ込む。

 裕揮くんを背負ったまま、部屋を飛び出して、エレベーターの前で脚を振り上げて靴の裏で下りボタンを押した。

 エレベーターは今度は一階で止まったまま上がってこない。

 なんだよ!と口に出して叫んで、階段に向かった。

 背中の重みに耐えながら足を踏み外さないように気を付けてやっとの思いで下まで降り、エレベーターに大型家具を押し込んでいる引っ越し業者に怒鳴りつけてやりたい気持ちを抑えつけ、片手で裕揮くんを支えて走りながら、もう片方の手でジーンズの後ろポケットからスマホを取り出した。

 苦労しながら病院の電話番号を探し当て、通話ボタンを押す。二回目のコールで、受け付けの女性が、「はい。◯◯病院でございます」と電話口に出た。

「今、そっちに救急患者を運んでます!救急科に回してもらえますか?」

「どのような症状でしょうか?」

 呑気に訊ねる受け付け女性に苛ついて、「死ぬかも知れないんだよ!!早く!」と怒鳴ってしまった。

「少々、お待ち下さい」

 一旦、声が途切れ、代わりに保留を報せるのんびりとした童謡のようなメロディーの機械音が流れた。今の状況と、あまりにも不釣り合いなそのメロディーに神経を逆撫でされる。

 そのとき、その神経を逆撫でするメロディーがぷつっと止んだかと思うと、「はい、救急科」という声が聞こえた。剣崎先生だ。俺は大声で叫んだ。

「篠宮くんが、オーバードーズ!!今、担いでそっちに向かってます!!」

 剣崎先生の対応は早かった。

「今、どの辺だ?」

「えと……」

 俺は一旦、顔を上げて前を見る。もう病院の屋根は見えている。「あと5分くらいで、西口の駐車場に着きます」

「よし、そっちに担架、回す。そのまま向かってくれ」

 そしてぷつっと電話は切れた。


 俺が裕揮くんを背負って西口駐車場へ入っていくと、既に西口玄関前にストレッチャーを押した青いスクラブの人たちが何人か到着していた。

 俺を見つけると走り寄って来て、「よし、こっちよこせ」剣崎先生の指示で俺の背中から、ぐったりした裕揮くんを二人がかりでストレッチャーに載せ、小走りで病院の中へと連れて行く。

「飲んでからどれくらい経ったかわかるか?」

 剣崎先生に訊ねられて、俺は一緒になって病院の中へ走りながら「10分くらいです。それまでは二人で喋ってて……あ、多分これで全部です」とジーンズのポケットから、薬のシートを三枚、取り出した。

 剣崎先生は、それを受け取ると、素早く一枚ずつチェックして、「よし、あとは任せろ」俺の肩をポンと叩くと、「胃洗浄するぞ!急げ!」と裕揮くんを連れたチームのみんなを追いかけて行った。

 その瞬間、俺の膝がスッと力を失い、俺はそのままペタンと正座の姿勢で床に崩れ落ちた。

 ハァハァと酷く息を切らしていたことに気がついた。汗が顎を伝って、ポタポタと病院の白い床を濡らす。

「大丈夫ですか?」

 いつの間にか、ピンクの服を着た看護師が後ろにいて、かがんだ姿勢で俺の背中に手を当てていた。

「大丈夫です」

 俺は振り向いて答え、裕揮くんが連れられて行った方向を見ながら、「大丈夫です」もう一度、言った。

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