裕揮−7

「篠宮先生!」

 耳元で声をかけられてビクッとなった。

「あ?ああ、ええと、なんですか?」

 声をかけてきた看護師に振り向いて訊ねる。看護師は、んも〜と少し呆れたようにため息をつくと、待機室の椅子に座っていた俺を見下ろした。どうやら、さっきからもう何度も声をかけていたらしい。

「ぼ〜っとしちゃって。また、暫く家に帰ってないでしょ?あんまり根を詰めると、篠宮先生が患者になっちゃいますよ」

 冗談に聞こえないことを言う看護師に、どうも、と頭を下げて答えると、俺は手元の、医師用の教科書に目を落として読んでいるフリをした。さっきから机の上に拡げてはいるものの、内容なんかちっとも頭に入ってきてはいない。

 家に帰る……のが嫌だ。どうせ帰ったって、哲志はいないのだから。


 哲志に爆弾をぶつけて、それが的のど真ん中を射抜いたあのとき、俺は急いで寝室に行って着替えると、逃げ出すようにマンションを飛び出して病院ここにやって来た。それから何も考えられないように30時間くらいぶっ通しで働いて、剣崎先生に止められて、更衣室で久しぶりにスマホを開いたとき、哲志からの『少し時間をください』というメッセージを見つけた。

 慌ててマンションに戻り、家中をチェックすると、哲志のスーツや普段着、生活用品がいくつか無くなっているのがわかった。

 哲志が出ていったのだ、と理解するまで、少し時間がかかった。


 どうして、あんなことを言ってしまったんだろうな……。後悔しても、しきれない。

 俺だって一葉が好きだったのに。一葉がもし男を愛せる人間だったら、俺は一葉を諦めなかっただろうし、晋と会うこともなかった。晋と会わなければ、事故は起きていなかっただろうし、そしたら一葉が哲志に会うことはなく、俺が哲志に会うことも……。

 そんなタラレバが何度も何度も頭をぐるぐる回って、結局また同じ場所に着地する。

 ――哲志は、俺よりも一葉を愛している。


 そのとき、けたたましい音と共に、救急車受け入れの要請が入った。

「剣崎先生、呼んで!」

 ここで一番のベテラン看護師が、仮眠室にいるはずの剣崎先生を呼ぶよう若い看護師に指示を出した。

『40代、男性。登山中に蜂に刺されアナフィラキシーショックにより、意識不明。受け入れお願いします』

 今、必死で要救助者を搬送している救急隊員の声が、待機室に響いた。

 アナフィラキシーショック。昔、俺は、これと同じ状況で救急車で運ばれた。

「受け入れ準備しろ!あと、薬剤部に電話して、アドレナリン大量に持ってくるよう伝えろ!」

 いつの間にか戻っていた剣崎先生が、周りの人間に次々と指示を出していた。

 みんながテキパキと、それぞれの役割を果たしていく中、俺は完全に頭が真っ白になって、今いる場所から動けなくなっていた。足がガクガクと震えていた。

 死ぬ。死んでしまう。子どもだった俺が、僅かな意識の中で初めて死を意識した、あのときの恐怖が、じわじわと脳裏に蘇ってきていた。

 患者が到着し、皆がバタバタと走る。ストレッチャーに載せられた男性の上に、救急隊員がまたがって心臓マッサージをしているのが見えた。心停止?

「替わります!」

 救急隊員に代わって看護師が患者の上にまたがり、両手で強く胸部を圧迫し始める。そのまま処置室に運ばれて来る患者。完全に意識は無い。看護師が点滴を取り、酸素マスクをあてる。死ぬ。死ぬ。死なないで。死なないで!

 俺は、突然弾かれたように側にあったアドレナリンを掴み、「あっ」薬剤師が止める間もなく、患者の太ももに注射針を突き刺そうとした。

「止めろっ!!」

 剣崎先生が勢いよく拳で俺の手を振り払った。払われた手に傷みが走り、俺から離れた注射器が、カツンと床に転がる。

「今、打ったばっかだ!殺す気か!」俺は剣崎先生に怒鳴られ、「出てけ!邪魔だ!」思い切り後ろに突き飛ばされた。

 みんなの声が、遠くなっていく。床に倒れ込んだ俺は、そのまま、まるで夢の中の出来事みたいに、剣崎先生や看護師たちが患者を必死で蘇生させようと動き回っているのを、ぼんやりと見上げていた。

 そして、『出てけ!邪魔だ!』そう言われたっけ、と思い出し、俺はゆっくり立ち上がると、救わなければならない命の現場に背を向け、その場を後にした。


「おい」

 どのくらい、そうしていただろうか。白い廊下の長椅子に座って、頭を抱えてうずくまっでいると、上から声をかけられた。

 ハッとして顔を上げると、髪をくしゃくしゃに乱した剣崎先生が立っている。

「あ……」

「無事だよ。アレルギー科に引き継いだ」

 その言葉を聞いて、俺はハアッとひと息つくが、まだ心はスッキリなんかしちゃいない。

「おまえ、今日はもう帰れ」

 剣崎先生が低い声で言った。怒っている、そりゃそうだ。俺は、とんでもないことをした。

「俺がいいって言うまで出てくんな」剣崎先生が続けた。

「えっ」

 驚いて剣崎先生の顔を見る。先生は、いつになく真剣な目をして俺を見ていた。俺は、俺はそんなに大変なことをしてしまったのか?

「わかったな」

 呆然としている俺を置き去りにして、剣崎先生は去っていった。

 まるで過呼吸になったかのように胸が大きく上下した。俺は、もう、ここには要らない人間なのだろうか。


 ロッカールームで青いスクラブを脱いで、背中にプリントされた文字を見たあと、俺はドンッと背中を後ろ側のロッカーに打ち付けて、そのままズルズルと床に座り込んだ。

 哲志からも要らない、救急科からも要らない。俺は一体、どこへ行けばいい?

 体に力が入らない。もう何もする気がおきない。このまま消えてなくなってしまいたい。

 俺は暫くそのままロッカールームの床にうずくまっていた。が、ふと、ここにずっといるのは迷惑だな。他の研修医たちの邪魔になるな。と、思った。

 俺は立ち上がって、私服に着替えると、その上から白衣を羽織りロッカールームを出た。


 ソレがそこにあることは、前から知っていた。

 昼前の薬局は薬を調剤してもらおうと順番を待つ午前の外来患者たちで、てんやわんやだ。白衣の人間が一人、調剤室に紛れ込んだところで、大して気に留める者はいない。

 俺は裏から、たくさんの薬が並ぶ調剤室にスッと入り込むと、目当ての棚から、手のひらに収まるほどのソレを箱ごと掴んで白衣のポケットに入れた。

 薬剤師たちは、次から次へとやってくる、医師からの処方箋をさばくのに必死で、こちらを見てはいない。

 俺は以前、救急科に常備しておくための薬剤を取りにここへ来たとき、ソレがそこの棚にあることに気づいた。

 大学受験を決める前、図書館通いをしてた頃、薬剤に関する本を借りて読んだときに知ったものだ。過剰摂取により死に至る危険があるため、今では外来では処方されていないものの、いまだに病院には置いてあるというその薬。

 ソレを実際に見つけたとき、まるで写真でしか見たことのない天然記念物を生で見たときのような興奮を覚えた。

 俺はポケットの中に手を入れたまま、入ってきたときと同じように、スッと調剤室を後にした。


 マンションに戻った。相変わらず哲志はいない。俺は持っていたトートバッグから、盗んできた薬の箱を取り出し、リビングのテーブルに放り投げた。

 ふと、思い出して、背後のチェストの引き出しを開け、中にあった白いビロードで包まれた小さな箱を確認してみた。蓋を開けると、指輪がふたつ、並んで窪みに挟まっている。

 指輪すら持って行ってくれなかったのか、と箱を閉じ、箱ごとすぐそこにあったゴミ箱に投げ入れた。

 キッチンに行き、洗い物かごにあったグラスを取り、水道から水を注ぐ。水の量はどれくらい必要だろうか。取り敢えず、グラスに入るだけ入れる。

 ソファに座り、薬の箱の横に水の入ったグラスを置いたところで、玄関チャイムが鳴った。無視。薬の箱を手に取る。もう一度、チャイムが鳴った。もう一度、無視。箱に入った点線に沿って、指で圧力をかけ、封を開けようとしたとき、もう一度、チャイムが鳴った。

 しつこいな!と苛ついてモニターを確認しに行く。有司くん?

 俺は通話ボタンを押すと、「はい」と返事をした。

『あ、裕揮くん、大丈夫?剣崎先生に、裕揮くんが調子悪そうだから見に行くように言われたんだけど』

 有司くんが、心配そうに言った。剣崎先生……自分で追い出しておいて、何を今更、余計なことを。

 俺は苦々しく爪を噛みながら、「ちょっと待って」と答えた。


 玄関を開けると、有司くんの背の高い体が、いつもの白衣ではなく私服姿でそこに立っていた。

「裕揮くん、大丈夫?」

「有司くん、仕事中じゃないの?」

「今、昼休み中だよ。それより、大丈夫?皆川さんに連絡した?」

「哲志は……」

 そこまで言って、言葉を詰まらせた。なんて言えば、いいんだろう。哲志は出ていって、ずっと帰ってこないよ。そう言ったらきっと何があったか詮索されるに違いない。ここは適当に嘘をついて、追い返した方がいい。

 俺が、なんて言おうか考えていると、「ちょっと、あがっていいかな」

「えっ?」

 止める間もなく、有司くんが「おじゃましまーす」と、家に上がり込んできた。

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