裕揮−6
そのとき俺はきっと、すごく疲れていたんだと思う。
「百花が妊娠したんだ」
「えっ?」
哲志と一葉が、ダイニングテーブルを挟んで向かい合って座り、話をし始めた。そして結局、寝るタイミングを逸した俺が、ダイニングテーブルの側にあるソファに腰掛け、二人の会話を聞いている。
「それは……おめでたいことじゃないのか?」
そう言って哲志が困惑してしまうくらい、一葉はさっきからずっと暗く沈んだままだ。
「百花の両親が産むのを反対してるんだ」
一葉の目から、一度は引っ込んだ涙が、またジワッと滲み出してきていた。
「え、どうして?」
「俺の出自がわからないからだよ」
ああ、と俺はすぐに合点がいった。でも哲志は、「え、そんなことで?」と眉をひそめている。
そんなことで、と言える哲志は幸せ者だ。
両親、もしくはどちらか片方の親がわからない、ということは、近親婚のリスク、遺伝性の病気の有無、身内に犯罪者がいないかどうか、など、百花ちゃんの両親にとっては不安要素が大きすぎる。俺はその事実を、なるべくオブラートに包んで哲志に説明してみせた。
「なるほど、そういうことか」
哲志が腕を組んで、う〜ん、と考え込む。そして、「百花さんは、なんて言ってるんだ?」と一葉に訊ねた。
「百花は、親と縁を切ってでも産むって。でも俺さ、産まれてくる子どもから、おじいちゃんとおばあちゃんを奪いたくないんだよ。ただでさえ俺の方の身内がいないのに、そんなの可哀想じゃないか」
一葉らしいな、と思った。誰よりも寂しがり屋の一葉は、自分の子どもがたくさんの身内に祝福されて産まれてくることを願っている。
「よし、遺伝子検査しよう!」
哲志が手を鳴らすと、「裕揮の病院で、できないか?」と、早速手筈を整えようとし始めた。こっちはこっちで、思い立ったらすぐ行動、の哲志らしさが暴走している。
「遺伝子検査?」
一葉が暗闇の中で一筋の光を見つけたかのような眼差しを哲志に向けた。
「必要なら、百花さんと産まれてくる子どもの分も。それで近親婚のリスクは避けられるだろ?あと、確か遺伝性の病気の有無もわかるはずだ。そうだろ、裕揮?」
哲志が俺を見る。
「まあ……」
実は俺もさっきからそのことは考えてはいた。でも……。
「遺伝子検査ならわざわざ病院に来て長い待ち時間使ってやらなくても、自宅で簡単にできるキットがあるよ。でもさ、調べて、やっぱり一葉のルーツが知りたいって言われたらどうする?警察に頼んで、一葉を遺棄した親を探し出してもらう?それで見つかったとして一葉はそれを受け止める覚悟がある?」
俺は一葉の方にわざと目を向けないようにしながら、一気にまくし立てた。これから幸せになろうというときに、おまえは自分を捨てた親と、今このタイミングで向き合う覚悟があるのか、と。
「あるよ!俺、子どものためなら何だってする!」
一葉が俺に向かって力強く言った。だろうな。おまえは、そういうやつだ。
その後、さっそく哲志が遺伝子検査のキットを取り寄せる手配をして、少し元気になった一葉は「店の仕込みがあるから」と慌てて帰っていった。
「あ〜、朝から騒がしかったな」と、一葉を玄関まで見送った哲志が、リビングに戻りながら肩をコキコキ鳴らした。
「うん……じゃ、俺、寝るね」と、俺はソファから立ち上がる。
「あ、そうだったな。悪い、ちゃんと寝る時間あるか?」
哲志が謝ることではない。俺は「まあ、なんとか」と答えると、哲志に触れることなく、そのまま一人で寝室に入った。
三時間、は眠れたろうか。なんか酷く怖い夢を見ていたような気がして目が覚めた。
夢の内容は覚えていない。ただ、心拍が少し上がっている。
喉が渇いていた。
寝室を出て、キッチンへ向かうと、ソファに座って、ぼんやりと宙を眺めている哲志が目に入った。
「おはよ」
声をかけると、初めて俺の存在に気づいたように、ハッとしてこちらを向く。
「あ、ああ。もう起きたのか?ちゃんと眠れた?」
「うん、まあ」
冷蔵庫を開けて、麦茶のポットを取り出した。コップに麦茶を注いでいると後ろから、「あ〜あ、一葉もついにお父さんか……」と、哲志が呟いた。
そのとき俺はきっと、すごく疲れていたんだと思う。
「ごめんね、俺、子ども産めなくて」ぽつりと呟いた。
そっちを見なくても、哲志のいる辺りの空気がサッと変わるのがわかった。
「そんなこと言ってないよ」
哲志の硬い声が聞こえる。うん、わかってる。こんなことを言わせたいんじゃない。
「間違えた。ごめんね、俺、哲志の親にも紹介できないような相手で」急いで麦茶のポットを冷蔵庫に仕舞い、早口に言う。
「裕揮!」
哲志が叫んだ。そのあと、しんとした間ができて、マンションの階下から、子どもたちが遊ぶキャッキャという声だけが小さく部屋に響いた。そして、哲志が苦しそうに口を開く。
「それは……俺の問題だ。ごめん、いつかなんとかしなくちゃと思ってた。不安にさせていたならごめん」
違う。これも言わせたかったことじゃない。そんなの全然気にしてない。むしろ今更、紹介されても、哲志の両親の前でどう振る舞っていいのかなんてわからない。
なんだっけ?もっと訊きたかったことがあったはずだ。もう随分前から。きっと俺たちが付き合い始めた最初の段階から。ずっと喉に引っかかった魚の小骨みたいに、ずっと気になっていたのに、ずっと目を逸らしていたこと。
俺はそれを言っちゃいけなかった。でもそのとき俺は、酷く疲れていたのだ。
「哲志はさ、一葉が男を愛せる人間だったら、俺じゃなくて一葉を選んだよね」
再び、しんとした間。哲志は何も言い返してはこない。
俺は、怖い夢の続きを確認するように、恐る恐る哲志の方を振り返った。
そこには、ソファから立ち上がった姿勢で固まったまま俺を凝視している哲志がいた。そして、振り返った俺と視線がかち合ったその瞬間、哲志の目はサッと俺から逸らされた。
試合終了。頭の中で、誰かが叫ぶ実況アナウンスの声がこだました。
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