裕揮−5
ついに、ついに、ついに!念願だった救急科での研修が始まった。
俺は救急科の人間だけが身につけられる、背中に病院の名前と『EMERGENCY ROOM』のプリントが入った青いスクラブに袖を通し、子どもの頃から夢見ていた命を救う最前線の現場に踏み入る高揚感に包まれていた。
とはいえ、遊びではないことは重々承知だ。
『坊主、よく頑張ったな』
小学校5年生の時、施設の庭で蜂に刺されてアナフィラキシーショックを起こして死にかけたとき、目が覚めた俺に向かって、これと同じような青いスクラブを着た医師が俺の頭をクシャと撫でた。あの人は、俺の命を背負った瞬間、一体どんな気持ちだったのだろう。怖さ、もあっただろう。でもそれ以上に、助けなければ、という使命感もあっただろう。そのために知識を増やす。経験を積む。こんなやりがいのある仕事が他にあるだろうか。
「おい、篠宮。おまえ、救急科志望なんだってな」
やたらとガタイのいい救急科部長、で俺の指導医、
無視したい。でも、できない。この人は俺の上司だ。
「はい」
「救急、舐めんじゃねえぞ。最近はドラマの影響とかで、やたらと変な憧れ抱いて入ってくるやつ多いけどな、結局、何にもできずに泣きながら辞めてくヤツばっかだからな」
「……はい」
下手に言い返さない方がいい。カンファレンスで剣崎先生にボコボコに言われて泣いている研修医を何人も見た。パワハラだろうが……と言いたいところだが、命を預かる身なのだから仕方がないという思いもある。でも、正直、この人は苦手だ。
そうこうしているうちに、救急車の受け入れを求めるアラートが鳴る。よっし、と気合いを入れる。患者が到着する。
「38歳男性、本木宏さん。30分程まえに自宅の自分の部屋で倒れているのを奥さまが発見。呼吸ずっと速いまま。意識レベル低下してます」
救急隊員が説明をする横で、ベッドの準備を……あれ、できている。せーのっで患者をベッドに移す。
「本木さーん、病院着きましたよ〜。咽頭吸引して気道確保!」
剣崎先生の指示で吸引器を……すでに看護師が持っている。
「心電図準備!」
よし、心電図準備……すでに他の看護師が装着し始めている。
その後も、手慣れた看護師たちにことごとく先回りされて……。
チー……ン。俺は何もできないまま、最後はただ邪魔にならないように離れたところから、落ち着きを取り戻した患者が専門科に運ばれていくのを見守っているしかなかった。
はあああ……。俺ってこんなに何もできねえんだ。待機室で、今の症例を復習しながらため息をついていると……。
「篠宮ァ」
専門科への患者の引き継ぎを終えた剣崎先生が近づいてきた。
「はい?」
「遅えよ、おまえ」グサッとくる一言を投げかけられる。ひでえ……ここ、励ますとこじゃねえの?俺が何も言い返せないでいると、「あ、そうだ」剣崎先生が振り向く。「はい」「わかんねえときは、絶対、手ェ出すんじゃねえぞ。死ぬからな」ダメ押しをして去っていく。くっ……やっぱり苦手だ。この人。
その後も、ひっきりなしに救急車はやって来た。中には軽症なのに運び込まれるような人もいるが、バイタルサインや既往症などから、何か重篤な病気が隠れていないか厳しくチェックする必要があるため、常に緊張と隣り合わせだ。
ここの人たちはオンとオフの切り替えがすごい。直前までにこやかに雑談していたと思ったら、救急アラートの音と共に、素早い動きで救急車受け入れの準備を始める。そして、一分一秒を争う的確な判断と処置。俺は相変わらず周りをウロウロしているだけだけど、それでもこの現場のピリピリとした空気に触れているだけで、「俺もちゃんと医者にならなければ」と改めて気が引き締まる思いにさせられた。そう、医者とは、命を救うためにいるのだ、と。
その後も、救急科での研修は続き、俺はほとんどの時間を病院で過ごすようになった。仮眠室で短時間の睡眠をとり、3食カップラーメンを食べ、隙きあらば現場に立ち会って経験を積むよう心掛けた。そして気づけば、「篠宮、点滴とれ」「はい!」少しは患者さんに触れるようになっていた。
『試合終了ォォォ!!日本、惜しくも敗れましたぁ!』
「だあっ!くそっ」
ある日、仮眠から戻ると、剣崎先生が自分のスマホを覗きながら叫んでいるのが見えた。スマホからはうるさいくらいに何かの実況を続けるアナウンサーの声が漏れ聞こえている。
「なんですか?」
俺がそばにいた看護師に訊ねると、「ワールドカップよ。この時間だとリアルタイムで観れるから」呆れながら言った。
はあ、なるほど。このふざけた人が、患者さんが来ると一変してスゴ腕の医師になるのだから不思議だ。
「篠宮ァ!」
剣崎先生が、先程の日本が試合に負けた瞬間に出した声と同じトーンで叫んだ。
「はい」
「おまえ、朝カンファレンス終わったら帰れ」
「え?」
「一回ゆっくり寝てこい。医者の不養生は良くないぞ〜」
最後はニヤニヤとして言う。そういうアンタは俺よりもここにいる時間が長いような気がするけど。
まあ、いいか。確かにちょっと疲れがピークにきていたところだ。俺はお言葉に甘えて、一旦家に帰ることにした。
うおっ。病院を出た瞬間、俺は久しぶりに見る朝日に思わず目を細めた。
大きくひとつ、深呼吸をして歩き出す。そして往来を行き交う人々が、いつもと種類が違っていることに気がついた。
駅前通りであるこの道は、いつもならこの時間、通勤途中のサラリーマンで溢れかえっているはずだ。なのに今日は、ほとんど見かけない。ああ、今日は休日なのか、と気づいた。
じゃあ、家に哲志がいるはずだ。俺は一応、連絡をしておこうとスマホを取り出し、『今から帰る』と短い文章を送った。
既読は、2秒でついた。早っ。そしてシュポッと返信。『お疲れさん』
渇いた体に水が染み渡る気分だった。救急科での研修に、すっかり夢中になってしまっていたけれど、やっぱり俺には哲志が必要だ。
「おかえり〜…って、裕揮、何だその顔!」
帰るなり哲志にびっくりされた。
「え?」
「すげぇクマできてる。ていうかやつれてる。大丈夫か、おまえ」
その言葉に、ちょっとイラついた。一人前の医者になるため頑張ってたら、これくらい普通だよ。過保護に扱うのもいい加減にしてくれ。
いやいや、哲志は心配してくれてるんだから、イラッとするのは違う。抑えろ、俺。
その後、俺は哲志の甲斐甲斐しいお世話で、お風呂につけられ、楽な部屋着に着替えさせられ、食べやすいフレンチトーストとソーセージ、野菜サラダ、スープを摂取させられ、あとはベッドに入るだけ、となった。
さすがにこの状態になると、副交感神経が優位になって、眠気が襲ってくる。その前に一度、哲志の匂いを嗅ぎたい、できれば抜いてほしい、と立ち上がったその時だった。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
「何だ、こんな時間に?裕揮、なんか荷物頼んだ?」
「いや、頼んでないけど」
そしてインターホンのモニターを見に行った哲志が「えっ?!」と叫んだ。
「誰?」
「一葉」
「えっ?」
玄関に向かう哲志の後を、慌てて俺も追いかけた。
「てっしさん!」
哲志が玄関を開けた途端、切羽詰まったような顔の一葉が飛び込んで来る。
「一葉、どうした?」
「てっしさん、助けて!」
一葉の両手が、哲志の両腕を服の上からぎゅっと掴んだ。その目は涙に濡れている。
ただならぬ雰囲気であることは、容易に察することができた。
一葉は、一人ではどうにもならない事情を抱えて、哲志に助けを求めここにやって来た。
救急アラートが鳴っている。一葉を救わなければ。それは、わかる。わかるのに。
俺はその時、哲志の腕を掴む一葉の両手を凝視しながら、「哲志に触るな!」と心のなかで叫んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます