裕揮−3
今日の分の電子カルテをすべて入力し終わって家に帰り着いたとき、スマホの画面はもう翌日の日付を表示させていた。
にもかかわらず、玄関扉を開けるとリビングの灯りがまだ点いている。
「哲志ー?まだ起きてるの?」
中に向かって声をかけながら靴を脱ぐが返事がない。妙な胸騒ぎを感じながら早足でリビングに向かうと、哲志は前のマンションから唯一持ってきた家具(と言っていいのかわからないけど)、電子ピアノに向かって黙々と指を動かしている。
耳にはヘッドホンを当て、音が外に漏れないようにしてあるため、こちらからの声も聞こえないようだ。
俺は哲志の視界に入るところまで近寄ると、手を振ってみせた。
「わっ!びっくりした〜」
ビクッと肩を震わせた哲志が動かしていた指を止め、慌ててヘッドホンを外す。
「まだ、寝てなかったんだ」
「あ〜うん。寝付けなくて、ピアノ弾いてた」
「アップライトのやつ、買う?欲しがってたろ」
「いや、無理だろ。音も響くし。ていうか、お疲れさん。明日、休みだったよな?」
哲志はピアノの蓋を閉じ、その上にヘッドホンを載せると空いた両手で俺の腰を抱き寄せた。
「うん。哲志もね」
俺は屈んで、ピアノ用の椅子に座って低くなっている哲志の首に両腕を回すと、フェロモンを出す部位だという耳の後ろの匂いを存分に吸い込んだ。明日は、数週間ぶりに二人の休日が被るという貴重な日だ。
「明日、一緒に買い物に行こう。裕揮の好きなものを作るよ」
哲志の言葉に、俺はハッと、昼間、研修医室であった出来事を思い出した。
「あのさ、外であんまりデート感、出さない方がいいと思うんだ」
「デート感?買い物行くだけだぞ」
「いや、それがさ……」
俺は、昼間の有司くんとのやり取りを哲志に話して聞かせた。
「う〜ん、そんなにわかるもんかな。同族のニオイとか?」
「わかんないけど……そんな風に見られてるなんて思わなかったからさ。これからは買い物とかも別々に行ったほうがいいんじゃないかな」
その言葉に、哲志の顔色が、みるみる不機嫌な方向に変わっていく。しまった。失敗した。こういうときの哲志は、ちょっとした駄々っ子みたいになって困る。
「そんなのもう同居してる時点でアウトじゃねえ?ていうか、俺もその心理士に会ってみたいんだけど。会ってどんなふうに見えているのか直接聞きたい。あと向こうのカップルがどんなふうに見えるのかも確かめてみたい」
……こうなると、もうこの人は手に負えない。俺は観念して、そのうち会わせるよ、と約束をし、取り敢えずお風呂に入ることにした。今日は色々と疲れた。もう早く眠りたい。
哲志と二人っきりの濃密な休日を過ごした翌日、俺が研修医室に入っていくと、「裕揮くん!」有司くんが嬉しそうに駆け寄ってきた。
不思議なことに一度意識し始めると何度も目に入ってくるもので、今日、会うのはこれでもう三回目だ。
俺は、くるりと振り向き、「あのさ」有司くんに指を突きつけた。
「はい」
「『先生やめて』って言ったの俺だけど、他の先生たちや患者さんたちのまえで『裕揮くん』は、やめてくれるかな。一応、仕事中なわけだからさ、その間は『先生』で頼むよ」さっきは外来の待ち合いで。その前は、患者さんも利用する売店の中で呼ばれて、冷や汗をかいた。
有司くんはハッとした顔をすると、「ごめん!そうだよね。僕の配慮が足りませんでした。ホントにごめんなさい!」と目をぎゅっと瞑って顔の前で両手を合わせた。いや、そこまで謝らなくてもいいけどさ。
「それとさ」
「はい!」有司くんが、まだ何か怒られるのかと身構えている。いや、そんな身構えないで欲しい。言い出しにくいから。
「俺の、その……パ、パートナーがさ。有司くんたちに会いたいって言うんだけど」
言ってしまった……。哲志の希望だから仕方なく言ってはみたものの、言った直後からもう後悔しかない。
反面、有司くんの顔は、ぱあああっと明るくなっていく。
「うん、もちろん!パートナーさんは休みはどんな感じ?俺と瑞希は、当直ないし、裕揮くんたちに合わせるよ」
「あ……うん。向こうは大体なんとでもなる人だから、俺が早く帰れるときになる、かな」
「了解!瑞希、喜ぶよ。じゃあ、はい」
はい?視線を少し下げると、有司くんが自分のスマホの画面を上に向けて待っている。あ、連絡先ね。そうだよね。そういうことに……なるよね。
結局、その日は、すぐにやって来た。
「裕揮く〜ん」
当直終わりで、ひと眠りしたあと、待ち合わせた商店街の入り口で俺が一人立っていると、向こうから有司くんが手を振りながら俺に近づいてきた。
有司くんの隣には、写真で見たとおりの可愛らしい顔をした『瑞希くん』がいる。ただ思ったよりも身長がある。俺と同じくらいだから、170ちょっとか……女の子のような顔だから勝手に小柄な体型を想像していたけど、そうでもなかった。思い込みというやつは本当に良くない。
「あれ?一人?」
有司くんが、周りをキョロキョロ見回しながら言った。今日は日曜日だから、哲志も休みのはずだった……んだけど、起きたらテーブルの上にメモが置いてあって、取引先でトラブルがあったため、急な出勤となったらしい。ミスを起こすのは社員でも、謝罪に出向くのは社長だ。そんな可哀想な哲志だったが、さっきなんとかトラブルは収まったため、約束には間に合いそうだと連絡があった(俺にとっては残念ながら、だ)。
俺はその旨を有司くんと瑞希くんに伝えながら、「ちょっと遅れてるみたいだけど、店が決まったら連絡しとくから、先に行ってようよ」と提案した。
有司くんは、その提案を喜んで受け入れたあと、「こっちが瑞希です。可愛いでしょ?」と隣にいた瑞希くんを紹介すると、いきなりガバッと瑞希くんの肩に抱きついた。おい!こんな公衆の面前で。やっぱりバカップルか。なんか今日はもう不安しかないんだけど、と周りの目を気にし始めていたそのとき……。
「ぐへえっ!」
えっ?妙な叫び声が聞こえて、そちらに目を向けると、有司くんがみぞおち辺りを押さえながら体をくの字に折り曲げていた。何?
「外でそういうことすんじゃねえっつっただろ」
一瞬、誰が喋ったのかわからなかった。改めてよく見ると、瑞希くんが冷ややかな目をして、痛みにもだえる有司くんを見下ろし、その右の拳は固くグーの形に握られている。どうやら瑞希くんの放ったパンチが有司くんのみぞおちにクリーンヒットしたらしい。
瑞希くんは、ポカンとしている俺の視線に気づくと、「ごめんね、裕揮くん。こいつ、こんなんで、ウザいでしょ。病院で迷惑かけてない?なんかあったら俺に言ってね、ガツンと叱っておくから」と、くりんとした可愛い目をこちらに向け、申し訳なさそうな声で俺に言った。
「ご、ごめん、裕揮くん。瑞希、ちょっと凶暴なところがあって……」
「ああ?!テメーにしかやんねえよ、こんなこと!」
復活しつつある有司くんに、瑞希くんがドスのきいた声で怒鳴り、有司くんが、ひい、と両手で耳を塞ぐ。
女の子のように可憐で可愛い見た目の瑞希くんは、どうやら誰よりも『
店を決めるまでもなく、有司くんが、商店街の中にある居酒屋の個室を予約してくれていたので、俺は哲志に居酒屋の名前と場所を連絡し、先に三人で店に入ると個室の掘りごたつのようになった座敷のテーブルについた。
あ〜どうしよう会話……と俺が少し心細くなっていると「失礼します。お連れ様お見えです」と店員に通された哲志が、スーツ姿のまま「遅くなっちゃって」と個室に入ってくる。
あ、と立ち上がりかけた有司くんと瑞希くんに気を使わせないように、哲志はサッと素早く俺の隣に座ると、「皆川哲志です。いつも裕揮がお世話になってます」と、いつもより二割り増しの爽やかな笑顔を作ってみせた。さすが営業の鑑。よっ、社長!
「いえ、こちらこそ裕揮くんにはお世話になってます。僕が裕揮くんと同じ病院で臨床心理士の研修をさせてもらってます、一之瀬有司で、こっちが……」
「
二人もさすがのコミュ力だ。よし、今日は会話は三人に任せて、俺は省エネモードでいこう。
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