裕揮−2
「篠宮先生」
その日、やっと指導医の束縛から開放された俺が、研修医室のテーブルの端っこで一人遅い昼食を取っていると、いきなり頭上から声をかけてくるやつがいた。
売店で買った弁当から視線を離し顔を上げると、思ったよりも高い位置で、白衣を着た男がニコニコ笑っている。背が高い。そして見た目チャラい。おしゃれメガネをかけ、髪は栗色で、短いがパーマをかけているのか髪全体が緩やかにうねっている。
「はい」
俺は無表情のままで素っ気なく答えた。相手が笑顔ならこちらも笑顔で答えなくてはいけないというルールはない。
「座ってもいいですか?篠宮先生」
男は俺が答える前に、俺の向かいの椅子に腰を掛けた。
正直面倒なことになった、と思った。研修医室は研修医たちが、厳しい指導医や古株の看護師の目から逃れ、愚痴を言い合ったり情報交換をするいわば院内のオアシス的な場所であるはずなのだが、学生の頃から同級生たちなどとの会話は一切一葉に任せてまったくコミュニケーションスキルを磨いてこなかった俺にとっては、ただの休憩室兼更衣室だ。雑談など苦手中の苦手。しかも相手はおそらく、経験上、俺が最も苦手とするタイプだ。
俺が困って、でも困っていることは顔に出さずにただ、黙っていると、男は「篠宮先生、俺のことチャラいなって思ってるでしょ」といきなり核心をついてきた。
「『先生』は、やめてくださいよ。同じ研修医でしょう?」
俺は、ギクッとしながらもそれを顔には出さず、きわめてポーカーフェイスを保ったまま質問とは別の答えを投げかけた。ていうか、なんでこの男は俺の名前を知っているんだ。
「じゃあ『裕揮くん』って呼んでもいいですか?」
男があっさりと俺のパーソナルスペースを超えてくる。なんだ、その距離の詰め方。ていうか、だからなんで俺の名前……。
「裕揮くん、人の名札とか全然興味ないタイプでしょ?」そう言って、男は首にかけていた自分の名札を指でつまむと、俺の目の前にかざしてみせた。そこには本人であることを証明する顔写真と、その横に『臨床心理士
「僕は医者じゃないんです。だから、僕にとっては医者はみんな『先生』。僕は今年から、心理士としてこの病院で研修を受けさせてもらってます、一之瀬有司といいます」
一之瀬が片手に頬を載せながらそう言うと、名札を自分の胸元に戻した。
「あ、あとこれね、自毛なんですよ。母が日本とイギリスのハーフで、僕はクォーターなんです。でも母は黒髪なんですよ?なんでも僕は祖父に似ているらしくて、隔世遺伝ってやつですかね?」
そう言って自分の髪を指差しながら、一之瀬は何が面白いのかフフッと笑った。
クォーター……言われてみれば全体的に色素が薄い。眼鏡をかけているからわかりにくいが、よく見ると瞳の色はグレーがかっている。
「でも先輩に『患者がビビるから髪染めてこーい!』って言われるんですよね。酷くないですか?これが俺のありのままなのに」
ありのまま、という言葉にドキとした。俺は病院でも同性婚をしていることを隠している。もちろん指輪もしていない。患者の中には金属アレルギーの人もいるからそれは不自然なことではないが、色んな人と接することが多い職場において、やはりマイノリティーを宣言することはリスクを伴う。
「一之瀬くんは、患者の心に寄り添う仕事だろう?第一印象はやっぱり大事なんじゃないの?」
俺は動揺を隠すために、思わず乗りたくもない会話に乗ってしまった。
「あ、『有司』でいいですよ。裕揮くんも先輩と同じこと言うんだね」
更に距離を詰めてくる『有司くん』は、そう言うと子どものように口を尖らせた。ていうか、これなんの会話なんだろう……。こいつ一体、俺に何の用があってここにいるんだ。
「第一印象は、その次の印象で簡単に塗り替えられる、と僕は思ってます。見た目に関しては特に。難しいのは、元々頭に刷り込まれているものが大きく食い違っている場合ですよ」
そして有司くんが次に発した言葉に、俺は隠すことができないほどの大きな動揺に苛まれることになる。
「裕揮くん、背の高い男の人と、よくこの辺り歩いてますよね?」
ドクン。心臓が大きく波打ち、思わず有司くんから目をそらした。
「家、この辺なんですか?僕も近くに住んでるんですよ。スーパーヤマセイあるじゃないですか。あの近くです」
落ち着け。動揺を見せるな。
「あの男の人って、裕揮くんの恋人ですか?」
「あ、俺、もう行かないと!」
俺は弁当の蓋をするのもそこそこにガタンと椅子から立ち上がった。駄目だ!もう、無理!ごめん、哲志!
「あ〜ごめん、ごめん!待って!違う、そんなんじゃないんです」
じゃあ、なんなんだ、お前は!いきなり人のプライバシーに踏み込み過ぎるのにも程があるだろ!
俺が有司くんの静止を振り切って立ち去ろうとすると、有司くんは慌てて追いかけてきて、「待って」と言って俺の横に並ぶと、俺の耳元に口を寄せ、「僕の恋人も男なんです」とコソッと囁いた。え?
「はあああ〜」
再び座り直したテーブルの向かいで、有司くんがため息をつきながら頭を抱えた。
「最初に自分の手の内を晒すべきでしたね。裕揮くんを動揺させてしまって。僕、心理士失格ですよね」
そう言ってもう一度ため息をつく有司くんの顔は、さっきまでの余裕しゃくしゃくな有司くんではなく、思わず笑ってしまいそうなくらい自己嫌悪に打ちのめされた有司くんだ。
「第一印象とその次の印象も最悪だったけど、今はそうでもないよ」
あまりの落ち込みように、俺は思わずよくわからない慰めの言葉をかけた。
「本当に?」
いきなりパッと表情を明るくする有司くんに、あ、やっぱり言うんじゃなかった、と後悔する。
「で?俺に何の用なの?仲間がいて嬉しい?ていうか、俺が『あれは親戚のお兄さんだ』と言ったらどうするの?」早口でまくし立てた。
親戚のお兄さんであるはずがないことは、さっきの俺のうろたえっぷりでバレバレだろうが、とにかくお互いこのことはバラさない、という確証を早く得たかった。ていうか有司くんの言うこともどこまで本当なのかわからない。
「親戚のお兄さんには見えないですよ。いつもすごく仲良さそうで。ああ、いいね、あのカップルって
有司くんは、また俺の答えを聞く前に白衣のポケットからスマホを取り出すと、画面を操作して写真を映し出し俺の方に向けた。
え……女の子?じゃない。目はクリンとして小さくて丸顔で、まるで女の子みたいに可愛いけど、髪は短く、喉仏は出ているし、Tシャツの前はぺったんこだ。
「可愛くないですか?駅裏にドラストあるじゃないですか。あそこの調剤薬局で薬剤師やってるんですよ。可愛くないですか?」
二回、言ったな。これはもう、言わせようとしているとしか思えない。俺は、これ以上面倒くさくなる前にさっさと終わらせようと、「可愛いね」と棒読みで答えた。
「ですよね!」
失敗だ。こちらの意図を汲んでくれない有司くんは、嬉しそうに目を輝かせ、これも!ほら、これも!と次々に画面をスライドさせて、様々な表情の『瑞希くん』を俺に披露してみせた。
典型的なバカップルだ。でも同性同士で付き合っているのはどうやら本当らしい。となれば話は早い。有司くんもそのことで仕事に影響が出るのは困るだろうし、俺たちはお互い弱味を握りあったようなものだ。
「じゃあ、このことはお互い内緒ってことで」
フィフティフィフティだ。俺はもう話は終わったとばかりに席を立った。そしてもう、キミとはあんまり会いたくないな、さよなら有司くん。
「あっ、待って。裕揮くん」
有司くんが立ち上がって俺を呼び止めた。
「何?」
思わず尖った声が出てしまう。もう本当に戻らないと、俺はまだやることが山ほどあるんだよ。
有司くんは、俺の声にまったく怯まずにっこり笑って言った。
「今度、四人でご飯でも食べようよ」
俺は無言でその場を立ち去った。
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