〜裕揮の章〜

裕揮−1

 7年前、俺は哲志と結婚(正確には事実婚)し、哲志のお陰で医学部に進学することができた。この7年間、順風満帆な結婚生活だったかというと、そうでもない。

 俺たち二人の間には、常にケンカがついて回った。

 多くは、俺の勉強ストレスと、互いの家事仕事のバランスの悪さというか、俺が哲志に養われながら自分のことだけでいっぱいいっぱいになっているときに、哲志が仕事をしながらもチャチャッと俺の分の食事の用意や洗濯までしてくれたりすることに対して、俺は時になんだか無性にイラッとするときがあった。

 そんなとき俺は「放っとけよ」だの「そんなに暇なら俺に構ってないでどっか行けよ」だの、まるで反抗期男子のようにあれやこれやと暴言を吐いては哲志に当たり散らす。自分がとてつもなく無能な人間に思えてきて、それは全部哲志のせいだと感情を爆発させていた。

 哲志は、そんな俺に辟易しながらも、根気よく俺との距離感を何度も測り直し、俺が自分と向き合っている間は気が済むまで一人にしてくれて、気が済んだ俺が「ごめん」と謝りにいくと、いつもにっこり笑って俺を抱き締めた。

 そうなると俺はまるでスイッチが入ったみたいに、決まって哲志のことが欲しくなってしまう。キスを求め、哲志の背中に手を滑らせ、俺がその気になったことを示すと、哲志は必ず応えてくれて、あんあん喘がされて、仲直りは終了。

 要は俺がほとんど一方的に、子どもみたいに哲志に甘えているわけであって、哲志が、いわゆる一葉が言うところの『包容力の人』じゃなかったら、俺たちはもうとっくに別れていたかも知れなかった。

 一葉はといえば、就職した居酒屋で新店舗に異動になった直後、当時大学生バイトとして入っていた『百花ももかちゃん』という女の子と付き合い始め、今では同棲する仲にまでなっていた。

「百個も花があるなんて、いいよね」

 まさか名前で決めたわけではあるまいが、一葉は彼女ができたことを、電話で俺に、嬉しそうにそう告げた。


 そんなこんなで、色々ありながらも俺はなんとか初志貫徹し、猛勉強の末、医師国家試験に合格し、今年から研修医として働いている。

 研修先の病院は、診療科目がいくつもある総合病院で、医師の数だけでも50人は超えるだろう。

 当然、全員の顔と名前など憶えられるはずもなく、俺は取り敢えず医師だろうが看護師だろうが患者だろうが、人とすれ違うときは軽く会釈をする、という当たり障りのない方法で日々を乗り切っていた。

 ただ、白衣とスクラブを着た人間の顔は、必ず一度チラ見をする。後学のためではない。俺に似た顔はいないか、とチェックするためだ。

 俺の母親は元看護師で、昔、勤めていた病院で妻子持ちの医者と不倫をした末、できたのが俺らしい。物心ついた頃には、母はもう看護師は辞めてスナックで働いていたため、結局、俺は父親がどこの誰なのか、まったく知らずにここまでやってきた。

 別に会いたいわけじゃない。会ったとしても名乗り出る気はない。ただ、自分がしたことの結果を認知すらしてくれない人間が、どんなやつで今どうしているのか、少し興味があるだけだ。


「ただいま」

 夜になって家に帰ると、部屋着の哲志がリビングのソファでくつろぎながら、「おかえり〜」と俺に向かって、自分が飲んでいた缶ビールを掲げてみせた。

「早いじゃん」

 言いながら俺は哲志の横を通り過ぎ、冷蔵庫を開けて麦茶のポットを取り出し食器棚から出したコップに中身を注ぐ。

「ノー残業デーだよ」

「はあ?そんなのあったっけ、あの会社?」

「俺が勝手に作った」

 なんじゃ、そら。と思いながら麦茶を一口飲む。

「社長がそんな不真面目でいいわけ?」

 俺が言うと哲志は、「だあって塚っちゃんが全部やってくれるからさあ、俺、やることねえんだもん」とむくれた子どものように膝を両腕の中に抱えた。

 塚本さんか……。あの人、あんなに優秀なのに、まだあんな小さな会社で働いてるんだな。と麦茶を一気に飲み干し、コップをすぐに洗って洗い物かごに伏せて置いた。

 塚本さんは、俺が哲志の会社で働いているときに色々お世話になった。

 大学受験のために会社を辞めることになったとき、せっかく仕事を教えてもらったのに半年もたたずに辞めてしまうことをお詫びすると、塚本さんは少し考えたあと、「篠宮くんは仕事も速いし正確だし、いてくれて本当に助かったと思っている。でも、元々はキミが居ない人数で仕事を回していたわけだから、辞めることを申し訳なく思う必要は全くないよ」と、まるでAIが導き出した模範解答のような言葉が返ってきた。

 なんか本当に感情が読めない人だな、と思いながら俺がお礼を言って立ち去ろうとすると、「しかし、社長も思い切ったな」ボソッと呟く声が聞こえて、俺は、えっ?と振り向いた。

 塚本さんは、何事もなかったかのように、パソコンに向かってキーボードを叩いている。

 そのとき俺は確信した。俺と哲志は、関係を周りに隠していたのだけれど、きっと塚本さんには全部見透かされていたのだろう、と。

 塚本さんが周りに無関心なのは鈍感だからじゃない。むしろ逆だ。敏感すぎて、色んなことに気づき過ぎてしまうから、敢えて興味を向けないようにして自分を防御しているのだ。

「塚本さんにも、早く3次元の彼女ができるといいですね」

 俺は、ちょっとしたイタズラ心で塚本さんに揺さぶりをかけてみた。

 塚本さんのキーボードを打つ手がピタと止まり、また少し考える顔になる。

「僕に3次元の彼女……」

 そして、くるりと俺の方に顔を向けると、「それは相手が気の毒すぎる」AIのように答えた。


「飯、食うなら冷蔵庫にシチューがあるぞ」

 麦茶のポットを冷蔵庫に戻している途中、哲志に声をかけられた。見ると冷蔵庫の中にホーロー鍋が鍋ごと突っ込んである。

 あ〜…とちょっと迷いながら「明日、食べるよ。お風呂入ったらまた病院に戻んないといけないんだ」と冷蔵庫を閉めた。本当は食べる時間くらいはあるんだけど、温め直したり、食べ終わった食器を洗うのが面倒くさい。哲志に、「やっておいて」と言うのは違うと思うし、かといってこれ以上面倒な事を増やしたくはない。ただでさえ研修中はやる事が多いのだ。

 代わりに俺は哲志に近づくと、腰をかがめて哲志の唇にチュッと口づけをし、ビールの味に、うえっ、となりながら着替えを取りに寝室に向かった。


 ちなみに俺たちが今、住んでいるのは、俺が勤める病院から徒歩10分のところにある賃貸マンションだ。

 俺の研修先が決まったときに哲志が、俺に当直などがあることも考慮して病院の近くに引っ越そうと言ってくれたのだ。

「でも、それじゃ哲志の職場が遠くなっちゃうよ」

 国家試験に合格し、すっかり反抗期も終わった俺がそう言うと、哲志は「俺は車通勤だからいいんだよ。ていうか別居とか絶対ありえんからな」と眉を寄せた。

 というわけで、間取りは以前の金持ち仕様のマンションと同じ2LDKだけど、広さは半分くらいになってしまったマンションで、部屋の大きさに合わせて買い替えた小ぶりのソファに長い手足を折り曲げて窮屈そうに寝転びながら哲志は、「これくらいの広さがちょうどいいんだよ」と言って、満足そうに息を吐いた。この人は未だに、金離れがいいんだか貧乏性なのかよくわからないところがある。

 部屋を借りる際に、保証人になってもらうために初めて蒼介さんのお父さんにも会った。

「え〜。哲志くん、うちの蒼介と付き合ってたんじゃないの〜?」

 ぶどう畑の真ん中で脚立の上に腰掛けながら、枝の剪定を行なっていた作業着姿の太ったおじさんは、俺に会うなり開口一番そう言って俺を凍りつかせた。

「何で俺があいつと付き合わないといけないんですか。俺に会社押し付けて何年も帰って来ないやつと。それに裕揮の話はちゃんとしてあったでしょう?」

 哲志も無遠慮にズケズケと言い返す。蒼介さんのお父さんは、のんびりとした動作で、はいはい、と言いながら脚立から降りると、「で?どこにサインすればいいの?」と剪定ばさみを脚立の上に置き、軍手を外してズボンのポケットに突っ込んだ。

「ここです。実印でお願いしますね」

 哲志が賃貸契約書を差し出すと、蒼介さんのお父さんはそれを受け取り、老眼の人がよくやる、一度遠くに離して目を細める仕草をしながら契約書を眺め、畑の向こうにある事務所の方に向かって歩き出した。

「今のマンション、どうしますか?家具とかも最初からあったものだし、そのまま置いていきますけど」一緒に歩き出しながら哲志が言うと、蒼介さんのお父さんは「ああ、いいよ。そのままにしといて。蒼介が帰ってきたら住むんじゃない?」と、なんでもないことのように答えた。


「まったく相変わらず息子ファーストだよ、あの親父は。だから蒼介があんな自由すぎる人間に育つんだ」

 帰りの車の中で哲志が毒づいた。

 俺は助手席で、お土産にもらったたくさんのワインを膝の上に抱えて「蒼介さんのお父さんは、哲志と蒼介さんのこと知ってるんだ?」と訊ねた。哲志と蒼介さんのこと。すなわち、二人が同性同士愛し合うことができるということを。

「あの親父は息子に関することなら全部受け入れられるんだよ」

 哲志は苦々しげな顔でそう言ったけど、俺は少し、本当は哲志は蒼介さんのことを羨ましいと思っているんじゃないかとそう思った。

 というのも、俺は今まで哲志の両親には一度も会ったことがないからだ。

 たまに哲志が一人で実家に帰ることはあっても、俺を連れて行ったことはない。俺はその理由を哲志には訊かないし、哲志も俺には言わない。言わないけど、わかっているし、俺が訊かない理由も多分、哲志はわかっている。

 もしかしたら蒼介さん親子は、哲志が俺や一葉と出会う前、哲志がありのままをさらけ出せる唯一の存在だったのかも知れない、とふと思い、俺は膝の上のワインをぎゅっと抱き締めた。

 車の窓から見える空はもう、すっかり茜色に染まっていて、俺は何故か子供の頃に一葉と遊んだ、施設の庭からいつも見ていた夕焼けの空を思い出していた。

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