哲志−18
ピンポーン。
下のオートロックのインターホンが鳴った。
裕揮は相変わらず、俺が開けてやるまで自分で中に入ってこようとはしない。
いつもの休日。俺はインターホンのマイクをONにすると、「裕揮〜ポストの中、見てきて」と声をかけた。
暗証番号は教えてあった。そろそろ届いている頃だろうか。
暫くすると、鍵を開けたままにしておいた玄関ドアが乱暴に開かれ、けたたましい足音と共に裕揮が部屋に飛び込んで来た。
「なんだよ、これ!!」
裕揮は、怒り心頭といった顔でそう言うと、手に持っていた何冊かの冊子の束を、俺が寝転んでいたソファの前のテーブルに叩きつけた。
「何って……大学のパンフだよ。医学部のある」
俺は努めてなんでもないことのように言うと、ソファの上に起き上がってパンフの一つを手にとった。
透明なビニールで包装されたその表紙には、綺麗な校舎と空と緑が最も美しく映えるよう撮られたキャンパスの写真が大きく載っている。
「だから、なんでだよ!まさか哲志が受けるわけじゃないよな?」
「まさか!」俺は苦笑する。
「裕揮が受けるんだよ。まあ無理にとは言わないけど」
俺がチラと裕揮の顔を見ると、裕揮は今にも舌打ちしそうな顔で俺を睨むと、「一葉になんか言われたんだろ?」と吐き捨てた。
俺はそれを軽く受け流すため、「裕揮が大学行かなかったのは自分のせいだって思い込んでたぞ」とまるで世間話でもするみたいに笑ってみせた。
「そんなんじゃないのに……」
裕揮は、今度はちゃんとチッと音を鳴らして舌打ちをして、肩で大きくため息をついた。
「まぁまぁ、いいじゃねえか。理由はどうあれ、裕揮が受けたかったら受ければいいんだよ」
「無理だね」
「どうして?」
「…………」
裕揮がサッと目を逸らす。彼はここから先の会話を避けたいのだ。でも俺はそれを避けるつもりはない。
「金なら俺が出す。生活も面倒みる。裕揮は勉強に集中すればいい。その代わり、ここで一緒に暮らしてもらうことになるけど」
もう既に決めていたことを一気に吐き出した。
途端、裕揮の顔が苦しげに歪み、それを隠すための両手が裕揮の顔にぐっと押し付けられる。
「できないよ。そこまでしてもらったら……なんか、だめだろ」
顔を覆った手の向こうからくぐもった声が聞こえた。
そうだよな。普通、そこまでされたら重いよな。なんか一生、俺に束縛されて生きていかなきゃいけないような気になっちゃうよな。わかるよ。うん、わかる。
だから俺は、たった今から、お前を一生、束縛するよ。
俺は立ち上がってチェストの前へ行き、引き出しを開け、中にあった、昨日受け取ってきたばかりの白いビロードに包まれた小さな箱を開けると、シルクの窪みに差し込まれたふたつのリングを両手にひとつずつ持って取り出した。
そしてリングをくるくる回し、「え〜と……こっちか」裏に『T to H』の刻印がある方を、「はい」と言って裕揮の手を取り握らせた。
「うえっ?!」
裕揮が驚きなのか何なのか、よくわからない変な声を出している。俺はその目の前で、『H to T』の方のリングを自分の左手の薬指に、よっ、とはめた。
そんな俺の姿を裕揮が目をパチクリしながら眺めていた。裕揮のリングは開かれた手のひらの上に載ったままだ。
俺はそのリングをサッと手に持ち、反対の手で裕揮の左手を取って、えい、と薬指にすっぽりはめた。
「あっ!」
不意をつかれた裕揮が声をあげて俺の手を跳ね除ける。でももうリングは、既に裕揮の薬指にちゃんと収まってしまっている。
「はい、これでもう俺と裕揮は家族ね。二人の財産は二人の共有物となります」
俺の言葉に、裕揮はまるでパニックを起こしたかのように、目を大きく見開いたまま、ただ口をアウアウ動かしていた。
「返事は?」
ここまで勝手に一人で進めておきながら返事とか、いささか遅すぎるとは思うが、一応本人の気持ちを確認するうえで俺は裕揮に向かって訊ねた。
「ざ……」
裕揮がようやく何か言おうと口を開く。
「ん?」
「雑すぎんだろ!!」
耳をつんざくような大声が部屋中に響き渡った。え?何だって?
「こ、こういうのってさ、普通、スーツ着て海の見える公園とかで立て膝つきながら『よろしくおねがいします』とか言うもんだろ!なんだよ、部屋着!いつもの部屋!渡し方!びっくりするぐらいの雑さだよ!!」
裕揮が顔を赤くしながら手をバタバタさせて怒鳴る。え〜そこ、こだわるタイプ?
「そんなのなんかベタすぎじゃねえ?」
そもそも面倒くさい。
「ていうか、サイズぴったりってなんだよ!」
「あ、それは寝てる間にこっそり測った」
「なんでそこだけベタなんだよ!」
「だって後で直しに行くの嫌だし。ていうかさ」
俺は両手で裕揮の両手を、ぎゅっと握った。裕揮の肩がビクと揺れる。
「嫌?」
俺と人生を共にするのは嫌なのかい?俺が一番知りたいのはそこなんだけど。
裕揮の目が俺の目を見つめる。俺もその目を真っ直ぐ見つめ返す。
裕揮は、ぎゅと口を結ぶと、足を一歩前に出し、俺の肩に顔を埋めながら、「嫌じゃないよ」と呟いた。
次の瞬間、俺は裕揮を思い切り抱き締めていた。
嬉しい。俺はいつもこうだ。ちゃんと返事をもらって初めて、やっぱり俺は不安だったのだと気づく。
「でもムチャクチャだよ。こんなやり方」
俺の腕の中で裕揮がぼやいた。うん、俺もそう思う。
「でも俺、ホントに思い立ったらすぐに行動したいんだよ。悪いけど慣れてくれ」
「やだよ。心臓が持たないよ。一緒に暮らすなら哲志も俺に合わせる努力をするべきだろ」
言われて俺はハタと気がつく。もっともだ。本当に何もかも、全部裕揮の言う通りだ。でも、今だけは、頼むから俺に合わせて欲しい。
愛してる。
それから裕揮は、俺の部屋に引っ越しをし、会社を辞めて予備校に通い、必死に勉強をして、翌年の春には無事、うちから通える距離にある大学の医学部に合格した。
同じ頃、一葉は料理の腕を買われ、新しく開店する店舗のオープニングメンバーとして、今の場所からは少し離れたところにある店に異動することになり、ショボくれながら隣人が謎すぎるコーポを引き払って、新店舗のそばに引っ越していった。
たまに裕揮のスマホに、ようやく購入したらしい一葉のスマホで撮った楽しげな写真が届くが、新しい店でもどうやらあの最強のコミュ力で他の従業員たちとも仲良くやっているようだった。
一葉が引っ越す少し前、三人でうちに集まって飯を食った。
いつものごとく、一葉が料理をし、裕揮が手伝い、俺がテーブルセッティングをする。
ショボくれている一葉を慰めつつ、裕揮の合格を喜びつつ、一葉の作った旨い飯を食っていると、インターホンが鳴った。
「俺が出る」
一番インターホンに近い場所に座っていた裕揮が立ち上がって、「はい」とモニターに向かって声をかける。
『まる介ぶどう園様からお荷物が届いてますが、宅配ボックスに入らないのでそちらに運んでもよろしいでしょうか』
インターホン越しに宅配業者の声がして、俺はぐへ〜とうんざりした気分になった。
蒼介の親父が送ってきた、宅配ボックスにも入らないものといえば、アレしかない。
裕揮が玄関のドアを開けて、業者の乗ったエレベーターが到着した気配がし、ガラガラと台車の車輪が回る音がしたところで、俺は立ち上がって玄関に向かった。
やっぱり……俺は業者に「ご苦労さまです」と声をかけると、一緒になって、せ~のでワインが何本も入った木箱を台車から玄関の三和土におろした。
「はい、すみませ〜ん。ど〜も」
もう50代かと思しき宅配業者の男性は、頭を軽くペコリと下げ、足早に帰っていく。その背中に、重いのにすみませんね、と思わず声をかけたくなった。
俺は、はあとため息をつきながら、そのまま玄関にしゃがみこみ、木箱の蓋を開けワインの瓶を箱から一本出して、お馴染みのラベルが貼られた赤ワインの瓶の黒色を苦々しげに眺めた。
まったく一気に送って来すぎなんだよ。会社宛てに送ってくれれば、欲しい社員に持って帰ってもらうこともできるものを。
「え〜なになに?ワイン?やったあ、飲もう飲もう!」
さっきまでショボくれていた一葉が、いつの間にか俺の後ろに立っていて、俺が持つワインの瓶を見て陽気な声を出した。
陽気なのも当然だ。5ヶ月前に晴れて二十歳となった一葉は、さっきから自分でハイボールを何杯も作っては飲み作っては飲みで、俺のとっておきのウイスキーをもう半分も空けてしまっている。さすがに飲み過ぎだ。
「ダメ〜。一葉はもう飲み過ぎ〜」
「ちぇ〜ケチ!」
「後でお土産にやるから。今日はもう飲むんじゃないぞ」
「え〜今日はもう休みもらってんらからいいんらって」
「呂律が回ってねえじゃねえか」
俺と一葉が、そんなやり取りをしていると、裕揮が「なんか、あるよ」と言って、木箱の中から白い封筒を拾い上げた。
ん?と俺は封筒を受け取り、中身を取り出す。そこには一枚のカード。
『同居人様の医学部合格祝いと、これからのご活躍を期待して まる介ぶどう園』
俺は裕揮と同居を始めるとき、一応この部屋の持ち主である蒼介の親父に、裕揮をここに住まわせること、そうなった経緯を伝えてあり、その流れで今回の大学合格もチラッと報告してあった。つまりこの大量のワインは、超下戸である裕揮への贈り物であるらしい。
俺は苦笑して、そのカードを裕揮に、はい、と手渡した。
裕揮は最初、複雑そうな表情を浮かべていたが、その顔は、次第に嬉しそうな笑顔に変わる。
「まったく、お節介な親父だね」
俺が言いながらよいこらしょ、と立ち上がると、既にリビングに戻ってウイスキーをドボドボと自分のグラスに注いでいた一葉が、「え〜、一番のお節介は、てっしさんでしょ」と俺に向かってビシッと人差し指を向けた。俺?
「ねっ、裕揮」
一葉が裕揮に同意を求める。そうなの、裕揮?
裕揮は、う〜んと困った顔をしながら、「まあ……そうかも」と言った。
じゃあ、そうなのかも知れない。何故なら、裕揮の言うことは、本当に何もかも、全部その通りだからだ。
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