哲志−17
後日、一葉をうちに呼んで、改めて裕揮と俺と三人で、一葉の合格&就職祝いをすることになった。
夜は一葉が居酒屋のバイトで忙しいので、昼にうちでパーティーをしようと、俺はパーティーメニューのレシピに頭を悩ませていたのだが、一葉が「料理は俺に任せてよ!」とスピーカーにしていた裕揮のスマホの向こうで声を弾ませるので、「パーティーの主役がホスト役なんて聞いたことないぞ。俺が作るから一葉は座ってればいいよ」と言ったのだが、一葉が、どうしても作りたい!と言うので料理は一葉に任せることになった。
その代わり俺は、みんなでゆっくりくつろげるようダイニングの方ではなくリビングの方のテーブルを綺麗に磨き、皿やコップや箸を並べ、裕揮と一緒に一葉へのお祝いとして選んだ、キッチンツールのセットをこっそりソファの下に隠したりした。
「違う、違う。上半分だけをくにくにってするんだよ」
キッチンでは裕揮が一葉の助手として、餃子の皮に餡をつめることに苦戦している。でも頭のいい裕揮はすぐに慣れたようで、手際よく次々と餡を皮に押し付けて親指をくにくに動かし始め、一葉に、「そうそう。裕揮は理解力だけはいいよね」と、よくわからない褒められ方をされていた。裕揮は「だけってなんだよ、だけって」と不機嫌そうな声を出して眉をひそめる。
「できるようになるのは早いけど、面倒くさいことは続かないってことだよ」一葉に言われて何も言い返せない裕揮が微笑ましい。
俺はリビングのテーブルをセッティングしながら、こんな風に三人揃って穏やかな時間を過ごすのは、これが初めてだったということにふと、気がついた。
思えばこの半年間、特に最初の数ヶ月はまるで嵐のような日々だった。俺はこの二人に散々振り回されたし……いや、俺も結構、二人を振り回したが、とにかく色々戦って乗り越えて、今やっといい感じに落ち着いたように思う。
ってあれ?半年?まだ二人に会って半年しか経ってないのか。
なんだかもう、十年も一緒に過ごしたかのような、そんな気もちになりながら、俺はキッチンで楽しそうに料理をしている二人の背中を眺めた。
やがてリビングのテーブルの上に、一葉特製(裕揮も手伝った)餃子と棒々鶏と、どでかい天津飯が彩りよく豪勢に並んだ。
「お〜中華だ」
俺は言いながら、これはビールだな、と昼間にもかかわらず冷蔵庫から冷えた缶ビールを一本と、裕揮と一葉のためにジンジャーエールのペットボトルを一本ずつ取り出しテーブルに並べた。
「いただきます」
三人で丁寧に手を合わせ、箸を取る。
「うん、旨い」
どれも本当に旨い。一葉はきっと、いい料理人になる、と予感させる旨さだ。
裕揮は無言だが、箸の進み具合の速さがすべてを物語っている。
「俺、勉強は苦手だけど料理は天才だと思うんだよね」
一葉が臆面もなくそう言い、俺は、まったくその通りだ、と同感する。
その後も箸は止まらず、一葉のおしゃべりも尽きず、店に来たお客さんが面白かった話、今、住んでいるコーポのお隣さんが謎すぎる話、裕揮の子どもの頃のエピソード(これは途中で裕揮に「やめろ!」と遮られた)とまるでいつまでも鳴り止まない音楽のような時間が続いた。
裕揮と二人で静かに過ごす週末も楽しかったが、俺はその日、一葉の話に大いに笑い、絶品の中華を心ゆくまで堪能し、ビールを飲む手が止まらなかった。
「ねえ、俺もそれ、飲みたい」
俺が何本目かのビールを空けた頃、一葉が俺の持つ缶を指差し言った。
「ダメ、ダメ。一葉、まだ二十歳になってないだろ」
俺が軽くいなしても一葉は「いいじゃん!めでたい席なんだし。飲みたい、飲みたい!」と駄々っ子のように手でパタパタとテーブルを叩き、「ね、裕揮」と隣の裕揮に同意を求めた。
俺は、え〜……と困惑しながらも、酔いも手伝って「ちょっとだけだぞ」と一葉と裕揮に350mlの缶ビールを一本ずつ渡してしまった。
その三十分後。
「おい、裕揮。こんなとこで寝るな」
「う〜ん」
俺は酔い潰れてソファに突っ伏している裕揮の肩を揺すっていた。
「裕揮、酒、弱かったんだなあ」
そう言って、もう自分の分はすっかり飲み干して、まだ物足りなさそうにしている一葉は、ケロッとした顔で裕揮が飲み残した缶に手を伸ばしている。どうやらこっちはザルらしい。
「一葉はもう、やめなさい」
「え〜」
俺が、めっと睨んで一葉の手から缶ビールを取り上げると、一葉は名残惜しげにその缶を目で追った。
手に持った感じ裕揮のビールは中身が半分も減っていない。もう飲んでいる段階から、「まずっ」と顔をしかめていたのだから当然だ。それでこの状態とは……これからは裕揮に酒を飲ませるのは要注意だ、と俺はしっかりと自分に言い聞かせた。
俺が寝室に、裕揮にかけるための毛布を取りに行って戻ってくると、一葉が立ち上がってテーブルの上の空いた皿を片付け始めていた。
「ああ、いい、いい。一葉、今からバイトだろ?片付けはやっとくからそのままにしとけよ」
「でもまだ時間あるし」
「いや、おまえ酒入ってるんだから、ちょっと休んでから行けって」
俺がもう完全にソファで寝落ちてる裕揮に毛布をかけながらそう言うと、一葉は「そう?じゃあお任せしまーす」と笑って、相変わらず大事に使っているボロいリュックと、さっき渡したキッチンツールのセットが入った紙袋を持って玄関に向かった。気を利かせて帰るつもりだ。
「今日はありがと。また三人でご飯食べよーよ」
これまたボロいスニーカーに足を突っ込みながら一葉が言う。
「ああ。体に気をつけて、仕事頑張れよ」
俺は玄関まで見送りに出ながら、「あ、自転車乗るなよ」と慌てて付け加えた。今、乗ったら飲酒運転になってしまう。
「今日は電車。ていうか、ついに壊れたよ、あの自転車」
一葉がハハッと笑って、くるりと振り向き、俺の顔を真っ直ぐ捉えると、急に真剣な眼差しをしながら「ねえ、裕揮のこと愛してる?」と訊ねた。
俺は突然のことにびっくりしながらも、「愛してるよ」淀みなく答えた。嘘偽りのない、正直な気持ちだったから、なんの躊躇いもなくそう答えた。
「じゃあ、てっしさんにお願いがある」
一葉はまるで、何かの宣誓でもするかのように声を張ると、気をつけの姿勢をとった。その改まった態度に、何だか妙な胸騒ぎを覚える。
「何?」
俺が恐る恐る訊ねると、一葉は真剣な顔をした
まま、俺に向かって勢いよく頭を下げた。
「裕揮を大学に行かせてあげて欲しい」
「大学?!」
意外な言葉だった。裕揮が大学に行くことをみんなに切望されていたことは知っていたが、本人にはそんな気なんか更々ないように見えたから。だから俺は「でも、裕揮は大学に行って何がしたいんだ?」ともっともな疑問を口にした。まさかキャンパスライフを楽しみたいというようなタイプでもあるまい。
「裕揮は医者になりたいんだよ。聞いてないの?」一葉が頭を上げて、伺うように俺に言う。
「医者?!」
そんなの初耳だ。確かにいつも小難しい本を読んではいたが、そんな素振りなどまったく見せたことはない。
俺が豆鉄砲を食らったような顔をしているのを見て、一葉は、やれやれといった風にため息をついた。なんだかマウントを取られた気分だ。
「ま、俺も本人から聞いたわけじゃないんだけどね」
なんだよ。「じゃあ、なんでそう思うんだよ」俺が眉をひそめると、一葉は再び子どもの頃の話をし始めた。
「小学生のときにさ、俺と裕揮で施設の庭で遊んでたとき、裕揮、蜂に刺されてアナフェ?アナフュ?」
「アナフィラキシー」
「そう、それ!それになって救急車で運ばれたことあるんだよ」
そんなことが、あったのか。まだまだ俺の知らない裕揮はたくさんいる。
「それでね、素早く処置をしてくれたお医者さんたちが、めっちゃかっこよかったって。裕揮にしては珍しく興奮して話していてさ。それから裕揮あんまりテレビ観なかったんだけど、ソレ系のドラマだけは、食堂でみんなと一緒になって食い入るように観てたんだ」
なるほど……裕揮にとっては、救急搬送された患者の命を救う医者は、いわゆるヒーローみたいなものなのか。
「でもさ、裕揮は多分、俺のせいでその夢、諦めちゃったと思うんだ。そのことを俺、ずっと後悔してるんだよ。でもさ、俺は今でも絶対、裕揮は医者に憧れてると思うんだ」
一葉が確信に満ちた目で俺をじっと見つめた。俺はその目をじっと見つめ返す。裕揮は一葉の大切な相棒だ。その相棒の夢を、自分では到底叶えてやれない想いを、一葉は俺に託そうとしている。
俺は、はあ、と大きなため息をつくと、「わかったよ」と承諾した。これは受け止めなければなるまい、と。
途端一葉の顔が、ぱあっと笑顔に変わった。
「ありがと!てっしさん、裕揮を幸せにしてやってね」
そう言うと一葉は玄関ドアを開け、手を振り足をバタバタ鳴らし出ていった。まったく慌ただしい。
俺は、知らずフッと笑って、一葉、お前も幸せになれよ、と閉じられたドアに向かって祈っていた。
そして、ガクンと膝から崩れ落ちる。
「医学部って……一体いくら掛かるんだよ」
簡単に請け負ってしまったものの、正直泣きたい気持ちだ。
「あいつ、俺のことどんだけ財布代わりにするつもりだよ。頼めばいくらでも金が湧き出てくるとでも思ってんのか」
玄関でうずくまってぼやきながら、チラと後ろのリビングを見やる。
そして立ち上がってリビングに戻り、ソファの傍らに座って、眠っている裕揮の顔を眺めた。
長いまつげ。つるっとした頬に指を滑らせる。天使だな。こっちの気も知らずにスヤスヤ寝やがって。
「しゃあねぇ。頑張って働くか」
俺は呟いて、一葉の想いを改めてしかと受け取った。
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