哲志−16
「すげー旨い、この蕎麦。俺の好きな固さだね」
「一葉、俺のワサビ食って」
「入れなきゃいいじゃん」
「いや、俺もうこの匂いがダメ」
「んも〜裕揮はお子ちゃまだな〜」
俺の目の前で、一葉が隣の裕揮の盆の上にある小皿から、山のような形に盛られたワサビを箸でひょいとつまんで自分の蕎麦猪口の中に入れた。
昼時で混み合う店内。やっと座れたテーブル席で、俺も自分の注文した箱蕎麦を蕎麦つゆに漬け、ズズッと啜るが味が全くわからない。
何がどうしてこうなっているのか、まだ状況がよく飲み込めていなかった。
俺がここに来る前、裕揮と一葉、二人の間で、一体どんなやり取りがなされたのか。何故、こんな風に三人で、テーブルを囲み蕎麦を食うことになったのか。
裕揮にとんでもない場面を見られ、出ていかれてしまったあと、俺は混乱してしばしフリーズしてしまった。
しかし、取り敢えず追いかけなければと自分を奮い立たせ、サンダルを突っかけ外に出るが、エレベーターは下にある。こうなったら階段だ、と階段に向かったのが間違いだった。
サンダルで階段を駆け下りるのは難しい。一段下りるたびに脱げそうになるサンダルと格闘しながら、やっとこさ一階までたどり着き、マンションの前に出たとき、もう裕揮の姿はどこにも見当たらなかった。
右へ行ったのか左へ行ったのかもわからない。自分の家に帰ったのなら地下鉄のある大通りの方へ向かったのだろうが、俺はまだほぼパジャマ姿にサンダルだ。
この恰好で人通りの多い大通り……いや、しかし恰好なんか気にしてる場合じゃない。でも……と考えて思いついた。そうだ、携帯!
俺はスマホを取りに戻るため、マンションの中に戻り……かけた。そして再びフリーズする。
――俺……鍵、持ってねえじゃん。
鍵がなければ外から自動ドアは開かない。背中にジワッと汗が滲む。どうしよう。誰か降りてくるのを待つか。しかしそれは一体、いつのことになるんだ?
ん〜〜〜と煩悩と戦いながら、えい!と覚悟を決め、俺はオートロックの前に立ち、俺の隣の部屋に住む住人の部屋番号を押した。お隣は確か、もう定年退職をして第二の人生をのんびりと過ごしているらしい老夫婦が住んでいて、休日は大抵、家に居るはずだ。
「はい」
優しそうな御婦人の声がインターホン越しに聞こえ、俺は申し訳なさが最大限に伝わるように出来るだけ柔らかな声を作り、「あ、すみません。お隣の皆川です。実は鍵を持って出るのを忘れてしまってですね、申し訳ないんですが、自動ドアのロックを解除していただけると有り難いんですが」とマイクに向かって頭を下げた。
「あらあら」
幾分か笑いを含んだ返答のあと、どうぞ、と言われて俺は、「ありがとうございます」とお礼もそこそこに開いた自動ドアを潜り、一階に停まったままでいたエレベーターに跳び乗った。
上に到着したエレベーターを降りると、隣の家のドアが半分開いていて、中から白髪ショートヘアーの御婦人が眼鏡越しにこちらを覗いている。いや、そうだよ。確認する権利はあるよ。不審者だったら困るもんな、と心のなかで自分を納得させ、婦人に向かって笑顔を作りもう一度、「ありがとうございました」と軽く頭を下げると、婦人も安心したような笑顔で頭を下げ、家の中へと戻って行った。
ああ、もう汗だくだ。俺は鍵もかけずに出てきた自分の部屋のドアを開け、スマホ、スマホ、とチェストの上に置いてあったスマホをとって裕揮に電話をかけた。
電話はなかなか繋がらない。ああ、くそ!もう裕揮んちまで行くしかないか、と思った矢先、呼び出し音が止んだ。そして聞こえてきたのは、『もしもーし、てっしさん?俺、一葉』
天ぷらと小鉢のついた昼限定の天ぷら蕎麦定食を食べている裕揮と一葉の様子を観る限り、二人は何だかとてもいい関係に落ち着いたように思えた。きっと俺の知らないところで何か雪解けのような出来事があったに違いない。それは、いい。問題は、俺に対して裕揮が如何様な感情を抱いているのか、だ。
上手いこと釈明してくれたのか、と頼みの綱の一葉をチラと見るが、一葉はさっきから裕揮に話しかけてはケタケタ楽しそうに笑うばかりで何を考えているのかわからない。
裕揮はといえば、やっぱり一葉の方ばかり向いて俺とは目も合わせない。
なんか俺だけ拷問じゃないかこの時間、とまた味のしない蕎麦を啜る。
あ、そうだ。と俺は二人の気を引くための良い話題を思いついた。
「一葉に仕事、紹介する約束だったな。もういくつかピックアップしてあるんだ」
俺は、ほぼパジャマからちゃんと着替えてきたジャケットの内ポケットから手帳を取り出すと、どこだっけな、とページをめくった。
「あ、それもう大丈夫。実は俺もう転職先、決まったんだ」
「え?」
「え?」
一葉の言葉に、俺と同時に裕揮もまた目を丸くした。どうやら裕揮も初耳だったらしい。
「せっかく探してくれてたのに、ごめんね。俺、バイトしてた居酒屋で正社員にしてもらえることになったんだ。だから今月で今の会社を辞めて、居酒屋一本にする」
一葉がさらりとこちらがびっくりするようなことを言う。
「え?一葉はそれでいいのか?」
居酒屋の給料や待遇がどれほどのものかは知らないが、俺は俺でそれなりに条件のいいところを揃えたつもりだった。
「いいも何もさ、俺やっぱり事務って柄じゃないし、料理するのが好きなんだよね。あ、今まではホール担当だったけど、社員になると厨房にいれてもらえるんだよ。でさ、そこで経験積んで、俺いつか調理師免許取りたいんだ。それで料理人としてどんな店でも働けるようになりたい」
そう言って目を輝かせる一葉は、もう心のなかで、色とりどりの美味しい料理を作っているかのようだ。ふと、俺の頭に実家の料亭のことがよぎるが、俺はぐっと言葉を飲み込んだ。一葉はもう、自分の道を自分の足で歩みだしている。俺の手助けなど、必要とはしていないんだ。
「そうか、頑張れよ」
俺は、それだけ言うと、手帳をパタンと閉じてジャケットの内ポケットに仕舞った。
「じゃあ何でMOS検定受けたんだよ」
それまで黙って話を聞いていた裕揮が口を開いた。
「それはさ、俺なりのけじめだよ。これだけはやり遂げないと、二人に顔向けできないと思ったからさ」一葉が唇を尖らせた。
「なんか逆に負担をかけちゃったな」
俺が申し訳なさそうに言うと、「とんでもない!」一葉が勢いよく言い返す。
「今回のことがあったから、俺、やりたいことがはっきりしたようなもんだし、てっしさんには本当に色々助けてもらったし、感謝しかない!本当に!ありがとう!」
いや、俺こそ感謝しかないよ。あの日あの夜、一葉と出会ったことがきっかけで、俺の日常は彩りと歓びに満ち満ちたんだ。色々あったけど、今、幸せなんだ。だから……チラと裕揮を見る……だからさ、いい加減こっち向いてくれよ、裕揮……。
「じゃあ、俺は今度こそホントに帰るね〜。てっしさん、ごちそうさま」
そう言って一葉は、蕎麦屋の前に停めてあった自転車に跨ると、ぐんと漕ぎ出し遠ざかって行った。
一葉の背中に向かって振っていた手をおろし隣を見ると、裕揮はスンとした顔をしてまだ俺と目を合わせようとしない。
「あの……裕揮、これから俺んちに……」
「ヤダ」
恐る恐る提案した俺の言葉をズバッと切り捨て、裕揮は駅に向かって歩き出そうとした。
ああああ!もう、駄目だ!この雰囲気!俺がもう耐えられない!
「えっ?」
俺は驚く裕揮にお構いなしに腕を引っ張って自分の方に引き寄せると、胸の中に裕揮を包み込み思い切り抱き締めた。
「ちょ、やめろよ!何してんだよ!離せっ」
「ヤダ。離したら帰るだろ」
ジタバタする裕揮を羽交い締めするようにますます腕に力を込める俺。もう抱き締めるというより、拘束だ。
「人が見てんだろ!」
「別にいい」
確かに通り行く人々が皆、何事かとこちらを見ていく。でも、そんなのは本当にもうどうでも良かった。今、離したら駄目なんだ。
「わかってるよ!一葉が可愛そうで振り払えなかったんだろ!」
裕揮がやっと自分を開放したように大声で怒鳴ると、俺の腕の中でいきなりスッと力を抜いた。そして小さな声で、「……嫉妬くらいさせろよ」呟いたあと、俺の肩にコツンと頭を載せて、耳を赤くした。
そのあと、俺と裕揮は、俺の部屋のベッドで激しく抱き合った。
途中、裕揮が俺に向かって「俺のこと好き?」と訊ねた。
「好きだよ」俺は答える。当たり前じゃないか。
「もう一度、言って」
「好きだよ」
「もう一度」
「好きだ」
そんなやり取りを20回も続けた頃、ようやく裕揮は安心したように微笑むと、俺の頬を両手で包んで唇を俺の唇に押し付けた。
伝わっていると思っていた。言わなくたって、十分に。不安な気持ちなど抱かせているとは思わなかった。
なら俺はこれからも何度も言おう。好きだよ、と。
きみが安心して、笑えるようになるまで。
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