裕揮−7
チャリィィ……ン。
静まり返った空間に、俺が落とした兎の鈴の音だけがまるで溶けていくかのように響いた。
ハッとして体を離す哲志と一葉の姿を一瞬、見留ながら、俺はゆっくりと体を折り曲げ、玄関の三和土にわざと落とした鍵を拾いあげる。
「裕揮……」
哲志の硬い声が耳に届いた。
「合鍵、渡したの……忘れちゃってた?」
俺は目を合わせないまま静かな声でそう言うと、拾いあげた鍵を肩に下げたトートバッグの中に放り込んだ。鍵につけた鈴が再びチャリンとバッグの中で鳴る。頼むから、浮気するなら、もっと上手くやってくれよ。
「えっ?!」
一葉が大声をあげ、驚いたような視線を俺と哲志の間で何度も往復させていた。
「裕揮とてっしさんって、そういうことになってたの?!」
途端にあたふたし始める一葉の反応を見ると、少なくとも一葉の方には浮気だとかそんな気持ちは更々無かったようだ。
「いや違うんだよ!俺ね、MOS検定全部受かったの!凄いだろ?でね、さっき裕揮んち行ったんだけど留守だったからね、先にてっしさんに報告しようと思ってさ」
まるでお通夜のように静まり返っている俺と哲志とは対照的に、一葉だけが手をあちこち動かしながら早口で喋り続けていた。
「そんでね、今のはご褒美!特別な意味はないから!ホントだよ?じゃあ、俺は、もう帰るね」
「え……」
哲志が、すがるような目を向ける中、一葉は、そそくさと俺の横を通り過ぎ、部屋を出ていった。
玄関扉が閉まったあと、残ったのは静寂だ。
バツの悪そうな顔で頭を掻きながら、何やら頭の中を整理している哲志に向かって俺は、「じゃあ俺も帰るね」と言ってすぐ後ろの扉を開いて外に出た。
「えっ!ちょっと待っ……」
哲志の声が聞こえたけど、言い終える前に扉はバタンと閉まっていた。
エレベーターは、今、一葉が乗っていったため、下へ行ってしまっている。俺は階段を使って急ぎ足で下へ降りていった。追いかけられたくなかった。
一階まで降りて自動ドアを潜り、エントランスを抜けたところで、自転車を停めたまま植え込みの段差に腰を掛け、まるで俺を待っていた風の一葉と出会った。
そして、「降りてくると思った」余裕しゃくしゃくで予感的中とばかりに俺を見て微笑む一葉に、俺は、なんだよ、とムッとしてみせるが、一葉は全く動じる気配はない。
「裕揮は肝心なところで逃げるんだよ。ちゃんとてっしさんの言い訳を聞いてあげたの?」
説教口調で言う一葉に、おい、なんで俺が責められてんだよ、と、ますますムッとなる。かき乱した原因はお前だろ。しかもその何でもお見通し感やめろよ、と言いたかったが、実際一葉とは付き合いが長いだけに、きっと一葉の言う通りなのだろうと納得してしまう自分も、いる。
「ちょっと、歩こっか」
一葉が立ち上がり、自転車のスタンドを上げるのを見て、俺は大人しく一葉の横に並び一緒に歩き始めた。哲志が追いかけてくる気配は無かった。
マンションから図書館のある大通りに抜けると、急に人通りが多くなる。俺たちはその人々の波の間をぬうように、ゆっくりと歩いた。そして一葉はおもむろに、自転車を押しながら、「俺からしたんだよ」と言った。
「え?」
「キス」
ああ、と思い出す。なんだかぼんやりしてしまっていて、さっきまでのことが夢の中の出来事のように思えていた。
「最初はね、ハグしてって頼んだんだよ。てっしさんってさ、包容力の人っていうか、背も高いし、なんか包まれてる感が欲しかったんだよね。頑張ったご褒美に。俺、本当に頑張ったんだ」
一葉の声が、心地よく耳に響く。懐かしいな、と思った。俺はまだ、ぼんやりとしている。
「でも顔が近づいたときにさ、ふと欲しくなって、つい、しちゃったんだよね。人恋しさってやつ。でも裕揮と付き合ってるって知ってたら絶対しなかったよ!これはホントに、神に誓って言う」
最後の台詞は、俺の顔を観ながら、一つ一つ、噛みしめるように言った。
一葉のその言葉はすんなりと飲み込むことができた。信用できる、と思った。でも、哲志は?俺のことが好きなら、振り払わなければとか考えなかったのだろうか。それとも見られていなければ平気だとでも?それとも……。
「でもさー裕揮とてっしさんが付き合ってるなんて俺、超嬉しい!」
深く思いに沈んでいたところ、突然テンションをあげて喋り出す一葉にびっくりして顔を上げた。
「え、なんで?」
「だってさあ、俺これが終わったらもう、てっしさんとの縁も切れるのかなあって思ってたから。俺、てっしさんとは友だちでもないし、親戚でもないしさ。でも裕揮の恋人だったら、裕揮を通してまた会えんじゃん」
「え……」
「え……って!ねえ、まさか俺たちの縁は切れないよね?」
あっけらかんと言う一葉に一瞬ポカンとしてしまった。あれだけのことがあったのに、あっさりともう水に流しているらしい一葉の態度に、俺の気持ちが追いつかない。
いや、あっさりじゃなかったのかも知れない。この数ヶ月間、一葉なりに色々葛藤はあったのかも知れない。
「一葉……ごめん」
「え?何のごめん?」
「ごめん、本当に」
とにかく謝らずにはいられなかった。中学生のとき、初めて一葉に彼女が出来たとき、早く振られればいいのにとずっと願っていたこと。結局、施設育ちを理由に振られて泣いていたとき、慰めるフリをして内心ではホッとしていたこと。施設を卒園する不安でいっぱいになっている一葉を、俺に依存させるように仕向けて縛り付けたこと。そして、哲志との関係をぶち壊そうとしたこと。
施設の食堂で、初めて俺の心にするりと入り込んできた、もこもこヘアーのえくぼが可愛い男の子を、俺はずっと独り占めにしたくて、一葉という人間の幸せを考えてやれていなかった、その罪に対して俺はどう謝罪すればいいのかわからない。今はただ、「ごめん」と繰り返すしかないのだ。
一葉は、そんな俺を真剣な眼差しでじっと見つめたあと、「なんか俺たち、やっといい関係になれそうだね」と笑った。
「遠回りしたようだけど、きっと俺たちには必要な道だったんだ。俺と裕揮は、乱暴なやり方でしかお互いを支え合えてこれなかったけど、それでも俺は裕揮がいて良かったと思ってる」
「一葉……」
俺も、一葉がいて良かった。そう言おうとしたとき、「あと、俺もごめんなんだけど……」一葉がもごもごと言いにくそうに口を動かした。何?
「あのさ、前のアパート引っ越すとき、俺が裕揮の荷物運んだだろ?そのときさ、その、あれ、つい押入れにあった紙袋の中身、見ちゃってさ」
「わああああっ!!」
咄嗟に俺は一葉の言葉をかき消すように大きな声で叫んだ。紙袋の中身……まだ一葉と体の関係を持つ前、初めての給料でこっそり買ってきた大人のオモ……。
「裕揮がそっちが良かったんならそう言ってくれれば俺、頑張ったんだけど」
「いや、いいって!」
「引っ越したあと初めて部屋に行ったときも言おうかどうしようか迷ったんだけど」
「だからもう、いいってば!」
顔が熱い。頼むからその事実は墓場まで持っていって欲しかった。いや、それはそれでキツい。ちなみにあのオモチャは哲志と付き合い始めてからすぐに捨てた。
俺が辱めを受けているにもかかわらず、一葉は涼しい顔をして、「良かったね、てっしさんと結ばれて」と祝福の笑顔を浮かべた。もう、いいよ、なんでも……。
そのとき、俺のトートバッグの中からスマホの着信音が聞こえた。
「あ、てっしさんじゃないの?」
一葉が反応して、急かすように俺の顔を見るが、俺はどうしても電話を取る気になれない。まだどんな態度をとればいいのか、心の準備が出来ていない。
「んも〜裕揮はホントに」
ぐずぐずしている俺に代わって、一葉はイライラしたように自転車のスタンドを立てると、俺のトートバッグに手を突っ込んでスマホを取り出しスイッと通話ボタンをスライドさせた。
「えっ、ちょっ……」
「もしもーし、てっしさん?俺、一葉」
哲志がどんな反応をしているのかは、わからない。
一葉はスマホを耳にあてたままぐるっと周りを見渡し、「えっとね、大通りを地下鉄の方に歩いてね」そして、すぐそばにあった、昼時で行列のできている店を目に止めると、「『はせ川』っていうお蕎麦屋さんわかる?そこで順番とって待ってるから。あ、お財布持ってきてね。俺と裕揮、今、あんま金もってないし」と言うとピロンと通話を終えた。
俺が信じられないといった面持ちで眺めていると、「せっかくだから、奢ってもらおうよ。慰謝料、慰謝料」といらずらっぽく笑って、一葉は俺にスマホを返してよこした。
昔から一葉のコミュ力には感嘆するものがあったが……なんかパワーアップしてないか?
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