裕揮−6

 落ちてしまった。

 もう否定したくても否定出来ない。

 帰って来たワンルームの床に直に座りながら、さっき社長の家で渡された合鍵を指でつまんで眺め、なんだかくすぐったいような気持ちになる。

 いいんだろうか……このまま進んでしまっても。

 一緒に暮らす気には、まだなれない。やっぱりどこか一葉に悪いという気持ちはあったし、何より俺は社長のことをあまり良く知らない。

 それでもそのとき、俺の心はもう完全に社長に持っていかれてしまっていた。


 俺は、『図書館に行く』ということを、自分に対しても社長に対しても言い訳として使い、毎週のように社長のマンションに入り浸るようになった。

 会社での上司と部下という関係ではなく、プライベートの社長に会いたいと思う自分を止められなかった。それでも社長の家に行くと、まだどこか自分にブレーキをかけている自分も居て、つい素っ気ない態度をとってしまう。

 でもセックスのときは無理だった。いつも気づくと夢中になってしまっている。溺れているな、と我ながら思った。

 社長は優しい。ただ、昔の男の痕跡を堂々と残しておくのはどうなんだろう。

 俺は、さり気なさを装って遠まわしにそのことを告げた。

「あんなの全然、タイプじゃないから!」

 社長はそう言って、しきりに恋人なんかじゃなかったと俺に伝えたが、『蒼介』という人が、恋人ではないにしろ、社長にとって特別な存在だったということはわかる。

「哲志は実家どこなの?」

 言ってから、あ、と思ったけど、顔には出さなかった。嫉妬、なのだろうか。会ったこともない『蒼介さん』の存在に、社長を下の名前で呼ぶことで、「俺が恋人だ」と主張したかったのかも知れない。

 哲志は、一瞬びっくりしたようだったけど、すぐに笑って受け止めてくれた。

 その流れで、哲志にピアノを弾いてもらうことになった。

 ソファに座ってかしこまって聴くのもなんだか照れくさかった俺は、哲志の座る椅子に背中合わせになって一緒に腰を掛けた。

 哲志のピアノが静かに鳴り始める。

 綺麗な音色だ。暫く弾いていない、と言う割にはなかなかの腕前なんじゃないか、と素人ながらに感じた。

 途中から哲志が鼻歌でも歌うかのように、小さな声で歌い始めた。

 英語の歌詞だったので、よくはわからなかったけど、所々聴き取れる単語をつなぎ合わせて、なんとか内容を想像する。

 これは、ピアノ弾きと、それを聴きにやって来る客の人生を歌った歌だ。日々の疲れを忘れ、ひとときの癒しを求めてピアノの音色に耳を傾ける客たち。

 サビの部分に入っても、哲志は殊更、声を張り上げることもなく、ずっと小さな声で歌っていたけれど、俺は背中を哲志の背中にくっつけていたので、耳からと同時に、声に合わせて震えるその振動に、じっと神経を集中させていた。

 人生はいいときばかりじゃない。一日のうちにだって感情は次々と変動していく。時間というものを数直線で表すとして、ひとつの目盛りを瞬間とするなら、哲志のピアノの音色にいだかれながら、俺はその瞬間、確かに「今、幸せだ」と感じていた。


 そうやって、俺は哲志と二人、穏やかに日々を過ごしていた。

 クリスマスには、高級レストランを予約するという哲志を必死で止めて、哲志の家でゆっくりすることにした。

 哲志は見事なデコレーションを施したガトーショコラを自分で焼いて、俺に高そうな革のブーツをプレゼントしてくれた。

 俺は哲志に何をあげたらいいのか分からずに、散々悩んだ挙げ句、冗談めかして『肩たたき券』と書いたカードを渡したら、哲志は大笑いしたあと「じゃあ、さっそくやってもらおうかな」と言って、俺は対してこってもいない哲志の肩を揉んだり叩いたりした。


 年末年始はずっと一緒にいた。

 元旦に近所の神社に初詣に行ったときに、「おみくじ引くか?」と哲志に言われたけど、悪い結果が出たら一年間引きずりそうで、「う〜ん」と悩んでいたら、おみくじの隣に『開運』と書かれた、今年の干支の兎を模した小さな鈴があったので、「俺、これ買う」と言っておみくじは引かずにそっちを買った。そして俺は、後からこっそりその鈴を、まだ一度も使ったことのない哲志の部屋の合鍵につけて、財布の中に仕舞っておいた。


 随分と暖かくなったある日。その日は、ちょっと図書館に長居してしまっていた。

 もう何度も通い詰めていたせいか、そこの図書館も少々マンネリ気味になっていて、俺は図書館に置いてある検索機で他の図書館の蔵書検索をしていたのだ。

 目に留まった本を何冊か予約して、図書館を出て足早に哲志のマンションに向かう。

 そして、マンションの植え込みの前にある、それを見つけた。

 一葉の自転車だ、というのはすぐにわかった。

 余りにもボロくて今にも壊れそうなそれは、施設を出るときに、「もうこんなの乗れないよ〜」という職員さんの意見を押し切って、「大丈夫、大丈夫」と一葉が貰ってきて使っていたものだったから。

 なんだか、胸がざわついた。

 一葉が哲志に会いに来る、ということは、宣言どおりMOS検定をパスした、と考えていいだろう。なのになんだろう、鼓動が速くなっていく。

 取り敢えず、マンションのエントランスに入り、いつものようにオートロックで部屋番号を押そうと指を伸ばした。そして、伸ばした指を引っ込めた。

 何故そうしようと思ったのかわからない。

 俺は肩に下げていたトートバッグから財布を取り出すと、中から兎の鈴のついた合鍵を出して、自動ドアのロックを解除した。

 そのままエレベーターに乗り哲志の部屋に向かう。一人っきりのエレベーターの空間が、心臓の音を反響しているかのようだ。

 哲志の部屋の前でエレベーターが止まる。エレベーターを降りる。鍵は使わず、取っ手を下げて手前に引くと、扉は簡単に開いた。

 扉が開いた先には、リビングがある。そして俺は、その光景を目にする。

 リビングの入り口で、哲志と一葉は、目を閉じて抱き締めあい、唇を重ねていた。

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