哲志−15
裕揮が可愛過ぎる。
俺が裕揮に合鍵を渡したあの日以来、裕揮は毎週のように休日になると俺のマンションにやって来るようになった。
本人曰く、「図書館に来るついでだから」なの
だそうで、相変わらず一緒に暮らす気も無ければ、合鍵も使わない。俺が「勝手に入って来ればいいのに」と言っても、毎回律儀にインターホンを押して、俺が開けてやらないと入っては来ない。
それでも俺の部屋に上がると、俺がしている掃除を手伝ったり洗濯物を干したり、食事の支度を手伝ったりして、その後、共に飯を食う。
一度、俺が「裕揮は偉いな。ちゃんと手伝いをするし、『いただきます』とか『ごちそうさま』も言うし、出されたものは絶対残さないし、家に上がるとき靴、揃えるし」とまるで子どもに向けて褒めるようなことを口にすると、少しうんざりした顔になって、「施設長が躾にうるさかったんだよ。施設育ちだからって馬鹿にされないようにしたかったんじゃないの?」と言った。なるほど。思えば確かに一葉も行儀は良かった。でも言ってもやらないやつはやらないだろう。きっと二人は素直なのだ。
昼食が終わると裕揮はソファで、借りてきた本を読んだりスマホを眺めたり、俺はダイニングテーブルでパソコンを拡げて持ち帰った仕事をしたりして、思い思いに過ごす。
お揃いのカップでコーヒーと裕揮のために買った甘いココアを入れて飲み、夕食の支度をしてまた一緒に食べる。
そして夜は二人でベッドに入る。
「……あっ……もっと……後ろも」
よがりながらせがむ裕揮に俺は呆れて「おまえ、絶対ネコ向きだろ。なんでタチやってたんだよ」と訊ねた。そしたら裕揮は「だって、一葉が『抱いて』って言うから」と答え、そんなこともうどうでもいいかのように舌を突き出してキスを求めた。
そんな風に乱れた後でも、事が済めばたちまちスンとして俺に背を向ける。さすがにもう帰ることはしなくなったが、余韻に浸って甘えることも、ない。
俺の方から「ひろき〜」とすり寄って行くと、「やめろよ、もう眠い」とけんもほろろだ。
ツボだ。可愛過ぎる。ツンデレ、最高だ。
あるとき食事の最中に、裕揮の方から俺に指摘してきたことがある。
「なんでか、食器が全部ペアなんだよなあ」
俺はギクッとして動きを止めた。一葉は気づいていなかった。いや、気づいていながら、気を使って黙っていたのだろうか。
「いや、だってお客さん来たとき用にもう一揃えあると便利かなってさ」
「ダブルベッドだし」
「俺、広いベッドが好きで……」
「ダブルベッドだし」
「…………」
はあ、と俺は観念してため息をついた。
「以前、一緒に住んでたやつが居たんだよ」俺は語り始める。自分の黒歴史を。
「元々、今の会社はそいつが継ぐはずで、この部屋の名義はそいつの親父。つまり前社長。俺はアメリカに居たときそいつ、蒼介ってやつだけど、蒼介と会って半ば騙されて日本に連れてこられて会社を押し付けられたんだよ」
「え?押し付けて、それで今、蒼介さんは、どうしてんの?」
「知らね。俺が無事社長に就任した途端、出てったし、今、どこで何してるのかも知らないよ。言っとくけど恋人とかじゃ全然ないからな。あんないい加減でチャラけたやつ、全然タイプじゃないし」
「……ダブルベッド」
うっ……そこまで言わせるか。
「わかったよ!体の関係はありました!でも本っ当に恋人とかじゃないから」
「ただれた関係だったんだ」
「まあ……」
確かに俺はあの頃、荒れていたのかも知れない。一度はアメリカで就職したものの、何を目標にすればいいのか全く分からずにまたフラフラと大学に入り直し、起業でもしようかな〜となんとなく思っていた頃に出会ったのが、同じくフラフラと、世界を放浪していた同い年の蒼介だった。彼は「俺、バイなんだよね」と言って俺の手を握り、出会った初日に俺の唇に自分の唇を重ねた。
「哲志は実家どこなの?」
一瞬、蒼介に言われたのかと思ってドキッとして我に返った。
突然、俺を下の名前で呼んだ裕揮は、何事もなかったかのように、ごく自然な仕草で夕食のミートローフを口に運びながら、俺の顔を見返していた。
「都会のど真ん中で料亭やってるよ」
「えっ?政府のお偉いさんが密会したりするとこ?賄賂の受け渡しとか」
興奮する裕揮に俺は思わずハハッと笑って、「ドラマみたいだな。でもあるかもな」と答えた。
「だから哲志の作る料理はいつも凝っていて綺麗なんだ。跡は継がなくていいわけ?」そう訊ねる裕揮の口調は、もう俺を名前で呼ぶことにすっかり馴染んでいる。
「兄貴がやるよ。俺は次男だし、高校んときからアメリカに留学させてもらって好き勝手やってたのに、まさかの蒼介に捕まって日本に拉致されて今に至るってわけ」
「高校んときから?なんでまたアメリカ行こうと思ったの?」
「自分がゲイだって確信したから」
その言葉は、少し、裕揮を動揺させたようだ。
つい、といった感じで目を泳がせる彼に、俺は言い訳のように続ける。
「ほら、向こうは当時から州によっては同性婚が認められてたりしてたからさ。
すると泳いでいた裕揮の目が止まり、その視線は真っ直ぐに俺へと照準を合わせた。少し眩しいほどに。
「それで、どうだったの?」
「え?」
「生きやすかった?」
その言葉に今まで経験したいくつかの出来事が、ほんの数秒間のうちに風のように頭を吹き抜けた。そして、「そうでもなかったな」呟くように答えた。
うん、そうでもない。どこに居たって差別はある。それでもなんとなく折り合いをつけてやっている。時には正体を隠しながら。生きやすい場所なんて、この世の中のどこにあるっていうんだ。
「じゃあ、あれは蒼介さんが使っていたの?」
裕揮がリビングの隅にあるピアノを指差して言った。いつか一葉が、でたらめなアニメソングを弾いた、あのピアノだ。
「いや、俺がたまに弾いてるんだよ」
「え、弾いてるの見たこと無いんだけど」
「趣味でちょこっと弾いてるだけだし、人に聴かせられるほどじゃないよ」
実際、それはそうだった。子どもの頃に習わされていたこともあって多少心得はあったが、留学で暫く離れていたし、今はよっぽど疲れていなければ寝る前なんかにボリュームを絞って弾いているくらいで、指も耳もかなり思うようには使えていない。
「ねえ、弾いて見せてよ」
裕揮が身を乗り出して俺に言った。
「え〜、だから、そんな大した腕前じゃないんだって」
「お願い!」
裕揮がねだるように大きな目を細め、ふっくらと形のいい唇を引いてニコッと笑ってみせる。ずるいだろ、その顔……。
というわけで、夕食の後片付けが終わった後、リビングで俺のピアノ鑑賞会が始まった。
蓋を開け、電源を入れ、鍵盤の上をなぞって軽く指を慣らす。
裕揮はソファに座るわけでもなく、俺が浅く腰をかけている、背もたれの無いピアノ用の椅子の空いたスペースに、後ろ向きで俺と背中をくっつける格好で座っていた。
そこは観客が座るところじゃないんだけどな、と思いながら、すうっと息を吸って、俺が持っているレパートリーの中で、一番好きな曲を静かに弾き始めた。
途中から簡単に歌も入れる。
暫く弾いていなかった割には指がちゃんと覚えてくれていて、でもそれでもやっぱり間違えないように弾くにはそれなりに集中力が必要で、俺はそのとき、背中で身じろぎもせずに聴いている裕揮が、何を考えているのか、何を感じているのかなんて全く想像する余裕もなかった。
そうやって俺は裕揮と二人、穏やかにひとつの冬を越した。料亭が繁忙期に入る暮れや正月も実家に帰って手伝うなんてことはせず、いつものマンションで裕揮と一緒におせちを作り、雑煮を食べ、近所にある小さな神社に初詣に行った。
そして、厚手のコートもそろそろいいかな、と思いながら、梅の花が咲いて、桜の蕾が膨らみ始めた週末の朝、やっぱりその日も、俺は部屋を掃除しながら裕揮がやって来るのを待っていた。
ピーンポーン、と相変わらずまずインターホンが鳴って、俺はいそいそと通話ボタンを押す。
「は〜い」
『てっしさん?俺!』
スピーカー越しに、ボールが跳ねるような明るい声が飛んでくる。この声は……。
「え?一葉?」
『そう!一葉!』
えっ!?意味もなく慌てた俺は「いでっ!」足の小指をチェストの角でぶつけて、「ちょっ……今、開ける!」と、痛みをこらえながら急いでオートロックの解除ボタンを押した。
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