裕揮−5
良い匂いがしてうっすら目が覚めた。
甘くて香ばしい匂い。そして味噌汁の匂い。ご飯の炊ける匂い。
一瞬、一葉と暮らしていたあの古いアパートの部屋を思い出す。俺が目覚めたときいつも、すでに俺よりも早く起きていた一葉が、朝ごはんを作っていてくれたから。
だんだんと意識がはっきりしてくるにつれ、そこが以前暮らしていた四畳半の和室に敷いた薄い布団の上ではなく、小洒落た部屋の真ん中にどっかりと置いてある、広くふかふかのベッドの上だということに気づいた。
おまけに俺は裸だ。カーテンの隙間から明るい外の自然光が漏れている。そうだ。俺は今起こっている事態をようやく把握した。
昨日、社長とやって泣いちゃって抱き締められて、そのまま眠っちゃったんだった。不覚にも。
く〜っと歯噛みしながら、昨日脱いだまんまになっている服を床から拾って身に着ける。そして、ベッドから降りて寝室を出ると、リビングの向こうにあるキッチンで、片手を腰にあて、もう片方の手で鍋の中身をかき混ぜている社長の背中が見えた。
「おはようございます」
しぼり出した声が少しかすれて、んんっと喉を鳴らした。
「おう。おはよ」
社長は振り向いて、いつもと同じ笑顔を浮かべると、「シャワー浴びて来いよ。タオル出してあるから。服は昨日買ったのがあるだろ?パンツ俺の新品置いといたから。ちょっと大きいかも知れないけど」とダイニングの奥にある扉を指差した。
「あ、はい」どんな態度をとるのが正解なのかよく分からずに思わずかしこまると、「ぷはっ。なんで今更、敬語なんだよ」と笑われて、ちょっとムッとした。 むしろその、何事もなかったかのような態度を、やめろ。
俺は足早に社長の後ろを通り過ぎると、わざと大きな音をたてて扉を開け、脱衣所に入った。
「いただきます」
きちんと手を合わせて、箸を取った。食卓に並ぶのは、味噌汁、ご飯、玉子焼き、ソーセージ、野菜サラダ。綺麗に盛り付けられていて、見た目も完璧だ。本当にマメな我が社の社長は、俺の向かいに座り、同じメニューを食している。
「なあ、裕揮」社長が話し始めた。
「はい?」
「一緒に暮らさないか?」
「ぶほっ!」
いきなりな提案に思わず口をつけていた味噌汁を吐き出した。
「……きたねぇ」
社長が顔をしかめながら、席を立つ。
俺は、ゲホッゲホッと咳き込みながら「誰のせいだよ!」と怒鳴った。
「突然過ぎた?俺、思ったら即、行動したいタイプなんだよね」
持ってきたボックスティッシュを俺に差し出して社長が言う。でしょうね。あなたがこれまでしてきたことを考えると、でしょうね。
俺はティッシュで口を拭き、一旦箸を置いて両手を膝に載せると、「出来ません」社長に向かってきっぱりと意思表明をした。といっても、目だけはちゃんと合わせられず、宙を彷徨う。
「一葉のこと?」
社長がいきなり核心を突いた。「一葉が一人ぼっちなのに、俺たちだけ二人っていうのは気が咎める?」
「…………」
他にも色々言いたいことはあったけど、一番の気がかりを言い当てられた俺はそのまま口をつぐんだ。
社長は暫く俺の返事を待っている様子を見せたあと、ふう、と息を吐き、椅子に腰掛けた。
「一葉はお前が守ってやらないといけない存在か?」
「え?」
「一葉は、お前が側にいないと、一生一人ぼっちか?」
カチン。いや、何が言いたいのかわかりますよ?
一葉だってもう子どもじゃないんだし、俺との共依存が解ければ、新しい人間関係を築くなりなんなりしてちゃんと生きていけるでしょうね。そのために社長は手を尽くしているわけだし、一葉も覚悟を決めていた。俺だけが同じ場所でいつまでも足踏みをしているんだ。
痛いところをつかれて黙りこくっていると、社長は「まあ、いいや」と声のトーンを変え、テーブルの横に置いてある、ダイニングとリビングの仕切りとなっている横長のチェストの引き出しを開け、何やら取り出した。
「これ、一応渡しとくから」
そう言ってテーブルの上にパチンと音をたてて置いたのは、どうやらここに出入りするための合鍵だ。
「いや、いいよ!重いって」
俺はギョッとして、絶対に受け取るまいと、両手を椅子の背もたれに回す。そんなにどんどん話を進められても、気持ちの整理が追いつかないじゃないか。
「あ、キーホルダーつけるか?確か、事務の佐々木さんが去年、旅行に行ったお土産だって言ってくれたやつがここに」
社長は俺の反応を完全に無視して、またチェストの引き出しの中をゴソゴソと探った。
「ほら」
そう言って取り出したのは、体は人間が全身タイツを着たような姿で、顔だけがこの世のものとは思えない何かの生物が大きな瞳で不気味に笑っている、とにかく貰ってはた迷惑なキーホルダーだ。そのご当地キャラなのか何なのかよくわからないものが、俺の鼻先でぶら〜んと揺れている。
「キモ……」
「うぅわ、佐々木さんかわいそ〜」
大袈裟に手を口にあてて同情したような顔をしているが、いや、アンタもずっと引き出しに入れっぱなしでやり場に困ってたんだろうが!
「つけてやるよ」
社長がお構いなしにキーホルダーを合鍵につけようとするので、「いいって!」思わず鍵を取りあげて手のひらの中にギュッと握りしめた。あ。
してやったりという顔で社長が微笑む。
「ゆっくりでいいから考えて欲しい。嫌なら嫌でいいんだ。それで会社をクビにするなんて絶対ないし、そもそも会社だって、いつ辞めたっていいんだし。でもそのとき俺は裕揮を引き止めるかも知れない。俺は俺のしたいようにするし、裕揮は裕揮のしたいことをやる」箸を取って朝ごはんを再開させる。「自分の心に聞いてみて。自分の正直な気持ちを」そう言って社長は玉子焼きを口に入れた。
自分の正直な気持ちか……。そんなもの、あったっけな。
朝食のあと俺は、今日一日俺はどう過ごせばいいんだだの、まだ一緒に行きたいとこあったのにだの、ギャアギャア喚いている社長を無視して、一人社長のマンションを後にした。
最寄りの地下鉄の駅に入り、甲高い音を出しながらプラットフォームに滑り込む電車に乗って、車内の空いている座席に腰をおろす。休日だというのに、まだ時間が早いせいか、車内は比較的すいていた。
地下鉄は、窓の外を眺めても、真っ暗な壁が見えるだけでつまらない。俯くと、座るときに両足のあいだに挟んだ紙袋が目に入った。中には社長に買ってもらった服が入っている。
本当はもう知っている。あの人が会社とその客、そしてあそこで働く人たちのために、どれだけたくさんの心を砕いているのかを。
社長が持っている金は、その労働で得た対価だ。持っていて然るべきものだ。
それを惜しみなく俺や一葉に注いでくれた。ひょっとしたらただの道楽なのかもしれないけど。いや多分絶対、道楽なんだろうけど。
さっきズボンのポケットに突っ込んだ、社長の部屋の合鍵を出して見つめる。
俺はそれを、まるで自分の体温で命を吹き込むかのように、ぎゅうっと強く握りしめたあと、天井を見上げた。
俺はゆうべ、泣きながらベッドで社長に何かを言いかけた。「これ以上、一緒に居たら……」
自分の心に聞かなくたって、俺はもう気づいている。気づかないフリをしていただけで、もう気づいている。
これ以上、一緒に居たら…………あなたを好きになってしまう、と。
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