裕揮−4
塚本さんの席の横に立って、今日こなさなければならない仕事の指示を受けていると、社長が「おはよ〜」と挨拶しながらオフィスに入ってくる姿が目の端に映った。
俺の心臓がドクンと跳ね上がり、一瞬にして塚本さんの声が遠くなる。
やっちゃったな。やっちゃったよな。その場の気分に流されて。だってなんか落ち込んでたし社長も俺も。温もり求めちゃうよな。あれは仕方がな「篠宮くん、僕の話、聞いてる?」塚本さんの声でハッと飛んでいた意識が現実に引き戻された。
「社長の姿が目に入るところでは集中力が削がれるというなら、メールでキミのスマホに指示を送ろうか?」
塚本さんは怒るでもなく冗談を言っている風でもなく、ごくごく真面目な顔をして、良ければそうするけど?といった感じでそう言うとスマホを手に取った。
昨日、俺は塚本さんに電話をかけて、いきなり社長の家の場所を訊いてしまっていたため、俺と社長とのあいだに何かあったのだろうと察するのは自然な流れであるにもかかわらず、塚本さんの興味は俺と社長のあいだに何があったのか、ではなく、ただ、自分の話を聞いているのかどうか、その一点のみだ。
「いえ……大丈夫です。もう一度お願いします」
俺はバツの悪い気持ちでそう答えると、今度こそ指示を聞き漏らさないよう塚本さんの言葉に意識を集中させた。
言われたことを頭の中で整理しながら、自分のために用意されていたパソコン付きのデスクに戻り、椅子に座ってメモ帳にやるべきことを箇条書きにしていると、キーボードの横に置きっぱなしにしてあったスマホがブブッと振動し、画面がパッと明るくなった。そこに映ったのは、社長からのラインの通知だ。
俺はギョッとして思わず、バンッと音をたてて手のひらで画面全体を覆い隠した。
「どうしたの?」
隣の席のデザイナー、加賀美さんがびっくりしてこちらを見る。この人は他の女子社員のように、休み時間のたびにいちいち話しかけてきたりしないので好感が持てる。
「いえ。蚊が」
「蚊?こんな時期に?」
それ以上の言い訳が思いつかず俺が黙ったままでいると、加賀美さんはどうでも良さそうに肩をすくめて、自分の仕事に戻っていった。
俺は、そおっとスマホに載せていた手をどけると机の下、自分の膝の上にスマホを移動させ、周りから見えないような位置で画面を開いて内容を確認する。
『今週の土曜日、必ずうちに来い。社長命令は絶対、守ること』
……変な汗がジワッと全身から滲み出るのを感じた。これはもうパワハラなのかセクハラなのか……やっぱり変人だ、あの人。自分で招いたこととはいえヤバい人と関係を持ってしまった、と俺は思わず頭を抱える。
俺はこのまま、ここで働くことを盾に社長の性欲処理の道具として使用されてしまうのだろうか。それとも一葉のように、相手をするごとに報酬を貰えたりするのだろうか。一葉のように……。
胸がズキンと痛んだ。一葉が今、この瞬間も、一人ぼっちに怯えて泣いているんじゃないかと心配せずにはいられない。今は会社に行ってる時間だ。そんなわけないのに……。駄目だ、仕事仕事。取り敢えず仕事をするしかない。今、考えたところで、どうすることもできないんだ。俺は社長からのラインに返信することなく、スマホを机の上に伏せて置きパソコンのキーを叩き始めた。
次の土曜日、散々、迷ったうえ、社長のマンションの前までやってきたときには、もう正午をいくらか過ぎていた。
朝起きてずっとモヤって、えい、もう!と、やっと決心して自分ちを出たときには、もう昼近かったのだ。コンビニよりも、運が良ければお買い得品がみつかるんだよ、と一葉が言っていたスーパーで30円値引きのシールが貼られた菓子パンを買って歩きながら食べ、地下鉄に乗った。
地下鉄の駅を上がってからここに来るまでに、割と大きめの図書館を見つけたので中に入ってウロウロして、なんとなく本を何冊か手にとって、図書館カードと一緒に貸し出しカウンターに差し出す。俺は市内の公立図書館ならどこででも使える図書館カードをいつも財布に入れて持ち歩いていた。
「じゃ、貸し出し期限は二週間後になりますね〜」
カウンターに座っていた図書館司書が、本とカードに印字されているバーコードを機械で読み取りながら、もう何万回も言っているのであろう、その台詞を流れるように言うと本とカードをこちらに差し出してよこす。
じゃあ二週間後にも、ここに来なくちゃな、と思いながら、なんだかこそばゆい気分になっている自分に気づく。違う。嬉しいわけじゃない。頭を振る。
以前、ふらっと入った店で、190円で売っていたのを見て迷わず買ったペラいトートバッグに本とカードを入れた財布をしまう。
そうだ、本を借りたついでなのだ、と無理矢理、理由をつけて図書館を出て、やっと社長のマンションのオートロックを押した。
「遅ぇ」
部屋に入るなりいきなり社長に文句を言われた。
「時間までは指定してなかったですよね?」
俺は負けじと言い返す。変人にいいようにされてたまるか。
「普通、休日に来いと行ったら遊びに来いということだから、午前中か、せめて午後の早い時間に来るだろうが。もうすぐ3時だぞ」
「そんなニュアンスなかったね。あんな命令形で言われたら、ルンルン遊びに来るような気分になんかなれるわけないだろ」
俺と社長はそのままぐっと睨み合った。まるで子どもの喧嘩だ。
「ま、いいや。じゃ、行くか」
空気を変えたのは社長だ。俺の頭にははてなマークが浮かぶ。行くって、どこに?
「鞄、重そうだな。何、入ってんだよ」
社長が断りもなく俺のトートバッグを取って中を覗いた。
「なんか難しそうな本だな。全部、置いてけ」
バッグから俺が借りた数学書と歴史の本を勝手に出してリビングのテーブルに置いた。
「しゅっぱ〜つ」
社長が嬉しそうに声をあげる。やっぱり子どもだ。
その後、俺は、社長の車で繁華街にあるデパートに連れてこられた。
あまりにも入り慣れてない場所に気後れし、入り口でもう及び腰になる。
「俺、外で待ってるから」
俺がそう言うと、社長は、えっ、という顔をして、「裕揮の服を買いに来たんだから、裕揮がいないと意味がない」と言った。
「え?俺の服?なんで?」
「いや、だっていっつもヨレヨレで色も剥げたような服、着てるから」
「別にいいだろ」カチンときて答えた。いや、今のはさすがに本気でムッとするわ。金がないんだよ、こっちは。アンタと違って。
「俺はいいと思うけど、オフィスでそれは目立つんだよ」
社長はそう言いながら、俺の着倒して伸び伸びになっているTシャツの襟に指を引っ掛けてつまんだ。突然、至近距離まで伸びてきた手にドキッとして顔が赤くなってしまいそうになる。
「服装は自由だって言っただろ!」
俺は社長の手を振り払いながら大きな声を出した。照れ隠しから思わず強い口調になってしまう。
「う〜ん、でもな〜」
社長は腕を組んで困った顔をしながら、俺を上から下まで眺めていた。この人……まさかこのために今日、呼び出したのか?
入り口で向かい合って言い合いをしている俺たちを、横を過ぎる人たちが何事かとジロジロ観ながら通り過ぎていく。ああ、もう面倒くせえ!
「わかったよ!」
俺は覚悟を決めて、先に立ってデパートの中へ入った。
「やった!」
社長の嬉しそうな声が背中ごしに聞こえた。
やっぱり変人だ、この人……。
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