裕揮−3
電柱のカゲに隠れて社長の車が完全に走り去ったのを確認してから、俺は一葉の住む部屋へ向かった。
俺が退院した日に会って以来ずっと一葉はバイトだったから、ここに来るのはこれが初めてだ。
インターホンを押そうと指を伸ばしかけて、さっき社長がドア越しにしか話せていなかったのを下から眺めていたことを思い出し、手を引っ込める。
一葉は自分が中に居るときは、寝る前にしか鍵をかけてなかったはず。と、ドアノブを回してドアを押してみると、案の定、あっさりとドアは開いてくれた。
勝手に部屋に上がり、短い廊下を奥に進むと、部屋の中央においてあるテーブルの前に一葉が座っているのが見えた。俺の気配に気づいているはずなのに、こっちを見ようともしない。
一葉は時折、涙を拭い、鼻をすすりながら、一度はビリビリに破ったのであろうMOS検定のテキストを、セロハンテープで修復しているところだった。
「満足した?」
かける言葉も思いつかず部屋の入り口にただ突っ立っているだけの俺に、一葉はこっちを見ることもなく、言った。
「……ごめん」
俺はただ一言、それだけ。それだけ言うのでもう精一杯だ。満足するどころか、今、俺を支配しているのは途方も無い後味の悪さだった。
「いいよ。なんとなく気持ちわかるし。立場が逆だったら、多分俺も同じようなことしてたと思う」
一葉が、ビーッとテープを引き出しながら言った。俺は黙ったまま、それを見ている。いや、おまえは絶対、そんな酷いことはしない。
「やっぱり俺たちって変だよね。二人でいることにこだわってさ、あいだに誰かが割り込むといつも変なことになる。あの裕揮が付き合ってた人だってそうだし、今回だって……」そこまで言って一葉は口をつぐんだ。
そんなこと、言わないでくれよ。だって俺は、ちゃんと一葉のことを……。
「俺が悪いんだ」
一葉が、きっぱりとした口調で言った。
「俺が裕揮の気持ちを利用して、中途半端な態度で繋ぎ止めたりしてるから。俺が弱いから駄目なんだ。だから俺、暫くの間、裕揮と会わない」
「え……」
いきなりの一葉の宣言に俺の心臓がドクンと波打つ。
「てっしさんにも暫く会わないって言った。一生会わないってわけじゃないよ。でもせめてこれ全部合格するまで。一人でも頑張れるって、自分に証明出来るまでは、二人には会わない」
そう言って一葉は、修復し終わったテキストを全部テーブルの上に重ねて置き、そこにそっと手を添えた。もう涙は消えていた。
「だからもう帰って」
何も言い返すことの出来ない俺の横をすり抜け、一葉はトイレだかお風呂だかわからない扉の中に駆け込むとパタンと扉を閉じた。その音は、一葉が心の扉をパタンと閉じた音だった。きっと俺がここから立ち去るまでは、出てくることはないだろう。俺はギュッと唇を噛み締めると、くるりと向きを変え玄関から外に出た。
一葉の部屋を出て外階段を降りると、自分のマンションとは逆の方向へ自然に足が向いた。そっちは社長の車が去っていった方向だと、歩き始めて少ししてから気づいた。歩きながら勝手に手が動いて、上着のポケットからスマホを取り出すと、塚本さんのラインの通話ボタンをタップする。
塚本さんは2秒もしないうちに出てくれたけど、出たと同時にいきなり「仕事の電話以外なら切る」と言った。普通こんな時間に電話をいれたら、「仕事の電話なら切る」だろうに。この人は本当に仕事以外で人と関わることが嫌いだ。
俺はその質問が妥当かどうかわからないまま、あまり間を開けると切られるんじゃないかと焦って、思い切って「社長の家って、どこかわかりますか?」と訊ねた。
すると電話の向こうで、少し、沈黙があったあと、「位置情報、送る」と一言、あって電話は切られた。その5秒後には、俺のスマホに社長の家の位置情報が送られてきた。
スマホで位置情報を確認しながら社長のマンションに辿り着くと、まず、うわあ……と嫌な方の感嘆の声が出た。
金持ちしか住んでないんじゃないかと思わせる斬新なデザインのおしゃれで綺麗な外観。眩しいくらいに照明が降り注ぐエントランスに入るとオートロックの前に立ち、ラインに添えられていた部屋番号を押す。
何やってんだ俺は……と、思った瞬間、オートロックの向こうから『はい』と社長の声が聞こえた。
「あの……」そこまで言って言葉に詰まる俺に、社長は『ああ、裕揮か。入れよ』とまるで何事もなかったかのように自動ドアのロックを解除した。心なしか元気が無いのは、まあ当然だろう。
中に入ると、広いホールを抜けエレベーターの上りボタンを押した。
何やってんだ俺は……と、もう一度思う。
ずっと、苛ついていた。
社長の手のひらで転がされている感じにも、社長に向かって嬉しそうな笑顔を向ける一葉にも。全部ぶっ壊してやりたいと思った。だから、あんなことをした。計画は大成功。したはずなのに……。
なのに、計画が終了した途端、すぐに二人を追いかけた。まず、一葉。一葉に突き放されたら、次は社長?俺は、一体何がしたいんだ?
エレベーターが到着し、扉が開いて中に乗り込む。四階のボタンを押す。扉が閉まり、ぐん、と体が床に押し付けられる。
『悪かった』と、帰るとき社長は言った。一葉もなんか言ってたな、『俺が悪いんだ』と。なんでそうなるんだよ。どう考えても、悪いのは俺だろう。
俺は子どもの頃のことを同情してもらったり、気持ちを利用されたことを謝られたりとか、そんなことをしてもらえるような人間じゃない。そもそも元は俺の問題なんだし、二人が謝ることじゃないし……。
そうか、納得いかないのか。俺が悪いことにならないと、二人を痛めつけたことにならないから。うん。そうだ。きっと、そう……なんだろうか?
ピーンと心地よい音が鳴って、エレベーターの扉が開いた。このまま、もう一度、下に降りて帰ってしまおうか、と思ったときには、エレベーターのすぐ前の扉がガチャリと開いて、「よぉ、よくここがわかったな」と社長が顔を出していた。
「あ……塚本さんに」
そのとき俺は、バツの悪い顔をしていたと思う。
社長は、ああ、なるほどな、と呟くと「入れよ」と扉を大きく開いた。
社長はもうお風呂を済ませたのか、上下スウエットスタイルで、いつもはきちんと整えてある髪を、首にかけたバスタオルの端を片手で掴んでワシャワシャと拭いていた。もう一方の手には細かい泡がたった飲み物の入った細いグラスを持って、その人差し指と中指の間には、煙の上がった紙煙草を挟んでいる。
この人は、スーツ姿もバッチリ決まっていて女性にモテそうだけど、こうやって鎧を脱いでくつろぐ姿にはもっとそそるものがある。力の抜けた背の高い背中に、たくし上げた袖から引き締まった腕が見えて、骨ばった大きな手で煙草をくゆらす仕草が、そう……大人の色気というやつが、だだ漏れて……。
「何か飲むか?」
社長に声をかけられて、ハッと我に返った。
「つっても、うち、酒ばっかなんだけど……あ、炭酸水あるわ」
冷蔵庫から取り出した、赤いラベルにWILKINSONと書かれたペットボトルをそのまま、ん、と渡される。
俺は、ペコッと頭を下げてそれを受け取ると、「煙草、吸ってましたっけ?」と社長に訊ねた。オフィスで吸っている姿など見たことがない。といってもオフィスは全面禁煙だ。
「いや、久しぶりに吸った」
社長は、気だるげにそう言って煙を吐き出すと、シンクの上の灰皿に煙草の先をぐっと押し付け、力無く「座れよ」とソファを指さした。
疲れてるな、と思いながら俺は素直にソファに座る。あんな目に合わされちゃ、そりゃ疲れるよ。合わせたの、俺だけど。
パキッとペットボトルの蓋を開け、口元に持っていった瞬間だった。
隣に座った社長がいきなり俺の首元に唇を寄せてきたのは。
俺はびっくりして「うわっ!」と叫んで、よけた拍子にソファからずり落ちる。
「なっ……な、なに?」
かろうじてペットボトルの口を押さえてこぼれるのを阻止した。
「なにって……さっきの続き」
社長は、俺、なんか変なことした?といった顔で答える。
「はあっ?!なに、考えてんの?酔ってんの?」
「酔ってねえよ」
「じゃあただのエロオヤジだろ!!」
俺が床に尻もちをついたまま毒づくと、社長は子どもみたいにむくれた顔をして、「じゃあ、いい。俺、もう寝るから」と、本当にどうでも良さそうにソファから立ち上がった。
「まだここに居てもいいけど、出ていくときにはエアコンと電気消してって。鍵はそのままでいいから」
言いながら、リビングの奥にある部屋に入っていく。ドアは開けたまんまだ。中は暗い。
俺は呆然として、社長が消えた部屋の入り口を眺めていた。
えっ?えっ?あの人、あんな人だっけ?何、今の?
もっと常識人の偽善者だと思ってたのに、あんな目に合ってそれでもまだやろうなんて、あんなのただの変人じゃないか!
パニクった頭で、もう帰ろう、とテーブルにあったリモコンを取って、それがエアコンのものだと確認したあとエアコンに向けて消すを押す。そしてその隣にあったリモコンを照明に向けて、消すを押そうとするのを躊躇する自分に戸惑う。
未練を絶つように思い切り強く照明の消すを押し、WILKINSONのボトルを持って玄関に向かいかけた。
『さっきの続き』と言った社長の声が頭にこだまする。
立ち止まる。鼓動が速くなっていることに気づく。
本当に、どうでもいいのかよ……。
さっき俺の部屋で俺の体を撫でた手。火のついた煙草を口元に持っていく手。
俺はちっと舌打ちすると、振り返ってペットボトルをテーブルに置き、社長が入っていった寝室に向かった。
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