哲志−12

 俺の下で裕揮が、ああ、もう我慢できない、といった感じで体を捻ると、声をたてて笑いだした。

「一葉、かわいそ〜。あいつ一人ぼっちにされるの大嫌いなのに。今頃、俺と『てっしさん』に裏切られたってきっとショック受けてるよ」

 嬉しそうに喋る裕揮に、俺はカッとなって思わず手を振り上げた。こいつ、俺だけじゃなく一葉まで傷つけて一体どういうつもりだ!

 俺が手を振り上げていることに気づいた裕揮は、ハッとすると同時に即座に身を縮こませ、両腕を組んで目と頭、傷つけられたくない部分をしっかりと覆って固まった。

 その姿に、俺の手が止まる。

 これは……まるで小さな子どもじゃないか。大人に殴られることに慣れた、防御反応に優れた非力な子ども。反撃することだって出来るはずなのに。

 俺は振り下ろそうとしていた手を、ぐっと握りしめて制止させ、裕揮の上から体を降ろすと床に脱ぎ捨てた服を身に着け始めた。

「……殴んないの?」

 裕揮が恐る恐る組んだ腕を緩めると、そっと俺に訊ねる。

「俺はおまえを殴っていた大人とは違う」

 ワイシャツの袖に腕を通し、袖口のボタンをとめる。そして、ふと、ああそうか、と思い至った。

「さっき言ってた『あいつ』って、子どもの頃の話だったんだな。階段から落としたやつのことじゃなくて」

 スラックスに脚を通し、ファスナーを上げホックをとめベルトも締めた。

「悪かった」

 言いながら俺はジャケットを羽織り、ネクタイは鞄と一緒に手に持って、そのまま玄関へ向かった。

 途中で転がったサラダボウルを避けながら、ちらと中身を確認しようとしたが、表面に張ったラップ一面にべったりとソースがくっついていて、結局中身がなんなのかは分からなかった。


 裕揮のマンションを出て、路駐してあった車に乗り込むなり、俺はガンッと車のハンドルをぶっ叩いた。

 あんな単純なハニートラップに引っかかるなんて、自分の下半身のだらしなさにほとほと嫌気がさしてくる。裕揮はもう俺に心を許しているに違いないという思い上がりに対しても、だ。あんだけ辛辣な言葉を浴びせられて、そんな簡単に人間の意識なんか変わるわけがないだろう。

 いや、そんなことより今は一葉だ。

 俺は車を発進させると、少し行った角を左に曲がり、50メートル程走ったところで車を停車させた。歩いて5分の距離も、車だとたったの30秒だ。

 急いで車から降りると安っぽい作りのコーポの外階段を上る。本当はもっとしっかりしたマンションに住まわせてあげたかったが、一葉は家賃を自己負担しなければならないので、なるべく安いところを探してみつけたところがここだ。

 俺は一葉の部屋の前に立つとインターホンを鳴らした。

 玄関ドアの横にある、格子の入った窓から漏れる明かりで、中にいることはわかる。

 もう一度インターホンを鳴らす。すると中からズリッと靴を踏む音がして、ドアの向こうに人がいる気配がした。

「てっしさん……」

 閉まったままのドアの向こうから、くぐもった一葉の声が聞こえてきた。

「一葉、悪かった!俺……」

「いいよ、わかってる。裕揮が仕組んだんでしょう?『8時半頃、来て』なんて時間まで指定したメール寄越すから、おかしいと思ったんだ」

 一葉の声は、落ち着いていた。でもドアはぴったりと閉じられたまま開く気配はない。

「一葉、開けてくれ。このままにしたくない」

 俺の懇願にも似た声は、既に冬の気配を感じさせている夜の空気に虚しく溶けるかのように頼りなく響く。

「うん、大丈夫。俺もこのままにはしたくない。でも、今は二人の顔、見たくない。お願いだから、暫く一人にしておいて」

「一葉!」

 俺は呼びかけるが、もうドアの向こうからは、一葉の気配は消えていた。

 クソッ。俺はギュッと目をつぶり、無力な自分に対する苛立ちを必死に抑え込むと、ドアの前から離れ肩を落として車へ戻った。

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