哲志−10
はああああ〜……。
俺は車のハンドルに突っ伏して大きなため息をついたあと、観念してスマホを取り出し裕揮の電話番号をタップした。
45分って言ったのに。50分になっても裕揮は下に降りてこない。
これがデートの約束とかなら、たかが5分で目くじら立てたりするような、そんな器のちっちゃい人間ではないつもりだが、仕事となるとそうはいかない。しかも今日は初出勤だ。
『おかけになった電話番号は、現在電波の届かないところにあるか、電源が……』
ブチッと電話を切った音が、俺の頭の血管の切れた音かと錯覚しながら車を降りると、俺は足早にマンションの中へと向かった。
初日からこれでは先が思いやられる、とプンスカしながら二階の裕揮の部屋の前に来ると、ドアが微かに浮いていて、鍵がかかっていないことがわかった。
あいつ……戸締まり気を付けろって言ったのに。
むうっとしながら、苛立ち紛れにインターホンを鳴らさずいきなりドアを開けると……玄関に裕揮の靴の他にもう一足、俺の知っている薄汚れたスニーカーが、きちんと向きを揃えて並べた状態で置いてある。……やられた。
俺はズカズカと部屋の中に入っていって、一つベッドの上でスヤスヤと寝息をたてている二人から掛け布団を剥ぎ取り、「起きろーっ!!」と大声を出した。
「……えっ?」
「……ん」
一葉と裕揮が二人同時に目を覚ます。剥ぎ取った布団の下には、素っ裸の二人。そしていくつもの丸めたティッシュ。ローション。封の開いたコンドームの袋がいち、にい、さん……。
こいつら……俺は気が遠くなりそうな頭をなんとか奮い立たせながらジロッと二人を睨んだ。
「あ……て、てっしさん。おはよ〜」
えへへ、と笑って取り繕う一葉とは対照的に、裕揮は無表情のままベッドからむくりと起き上がると、そのまま裸足の足を床に降ろしてペタペタと歩き出した。
「待て!裕揮、どこ行く!」
「……シャワー」
「急げよ!」
裕揮がバタンとユニットバスのドアを閉めた少し後、シャーとノズルからお湯が降り注ぐ音が聞こえてきた。
まったく〜とイライラしながら今度はくるっと、どさくさに紛れてコソコソ服を着始めている一葉の方を向く。
「い〜ち〜は〜」
俺が低い声で唸ると、一葉はビクッと肩を震わせ、「あ、いや、だってさ。なんか慣れないとこで一人で寝るの寂しいっていうかさ。だから、その、なんていうか……たまにはね」と、しどろもどろになっている。
「だってもクソもねえだろ!おまえが裕揮から自立したいって言ったんだろーが!たまには会うだけってならいいけど、やってどうする!」
「あ〜いや、怒んないで。ホントにごめんなさい」
思わず口が悪くなる俺に向かって、一葉は両手を合わせて必死に拝み倒すが、その仕草からはいまいち真剣さは伝わって来ない。大丈夫か、こいつら……。やっぱり徒歩5分は近すぎたか。でもそれ以上、離すと一葉が嫌がりそうだったし。
いや、それより時間!こんな話をしている場合じゃない!
「一葉も今日、仕事だろ!早くしないと遅刻するぞ!」
「あ!ホントだ!じゃあね、てっしさん、裕揮をよろしく!」
一葉は、あからさまに解放された喜びを見せながら残りの服を着終え、上着とリュックを掴むとさっさと部屋から退散した。
そしてそれと入れ代わるように、ユニットバスから裕揮が出てくる。今度はこっちだ、とげんなりしながら裕揮に目をやった瞬間……。
ドキ。思わずときめいた。年甲斐もなく。
まるで気位の高い猫のように、どこを隠すでもなく、しなりとした細い裸体から水滴を滴らせ、ヒタヒタと裕揮がこっちに歩いてくる。オーラを放つその美しさに思わず見惚れ、そんな自分に気づいてすぐに視線をそらした。
「おい、急げよ」
「いや、タオルが……服も」
裕揮が素っ裸のまんま、部屋の隅に積まれたダンボール箱の前に屈み込んだ。一つは開いているが、残りはまだガムテープによって蓋が閉じられたままだ。
「まだ荷解きしてなかったんかよ!」
俺はさっきのときめきモードから、一気にイライラモードに戻ると、裕揮の隣に屈み込んで一緒になってダンボールのガムテープを引っ剥がした。
「おまえさ、一葉とああいうことするの、懲りたんじゃないのか?」
俺は俺の車の助手席で、ずっと俺に後頭部を向けたまま窓の外を眺めている裕揮に向かって言った。
道も思ったよりすいているし、時間を早めに設定しておいたおかげで、何とか就業時間に間に合いそうだ。と、目の端でモニターの時計を見ながら俺が胸をなでおろしていると、「俺が誘ったわけじゃないし。昨日は一葉が仕掛けてきたんだよ」裕揮が窓の外を眺めたまま答えた。
てっきり無視されると思ってもう別のことを考えていたところに意外にも返事が返って来たことに俺は驚いて、その後の言葉が続けられないまま時間は流れ、車は会社が入っているオフィスビルに到着した。地下駐車場に車を停め、「ちょっ、ギリギリだから急いで」と裕揮を急かして、まだ上階にいるエレベーターを無視し、階段を駆け上がる。新入社員を初日から遅刻させるわけにはいかない。
本当に時間ギリギリにオフィスに滑り込み、「ごめーん、みんな集まって。昨日、言ってた新入社員、紹介するから」と息を切らしながら社員全員を集めた。
全員といっても小規模企業なので、社員の人数は全部合わせても20人足らずだ。みんなが取り囲む中で「篠宮裕揮くん。エンジニア班で働いてもらいます」と、隣に立つ裕揮を紹介した。
ここで普通は本人からの挨拶だ。俺は朝のゴタゴタで、このときのことについての打ち合わせを裕揮としていなかったことに今更ながら気がついた。まずい……爆弾を落とすようなことを言いだしたりしないだろうか。なんせこれまでの
「篠宮裕揮です。わからないことだらけですが、一生懸命頑張ります。よろしくお願いします」
隣で裕揮がペコっと頭を下げた。みんながパチパチと歓迎の拍手をする。良かった。TPOはきちんとわきまえるタイプのようだ。
「じゃあ、暫くは塚本くんに教育係を担当してもらうから」
「えっ?!絶対ヤダ!」
裕揮よりも、いくらか年上の塚本くんが、TPOをわきまえない発言をした。うん、うちにはこういうタイプが居るからね。油断がならんのだよ。
「じゃあ解散。塚本くん、ちょっと来て」
俺は強引に会合を終わらせると、塚本くんの肩をぐっと引き寄せて、小声で囁いた。
「頼むよ、塚っちゃん。篠宮くん、まだ社会経験も浅いからさ。面倒見てやって」
「なら、なおさら俺は不適任でしょう。俺、社会性ゼロですよ」
自分でここまで言い切るとは、いっそ清々しいくらいだが、俺も引く気はない。
実は俺にはどうしても塚本くんに裕揮を任せてみたい理由があった。
塚本くんは、彼が高校生のときに学園祭で展示していたプログラムを前(前?)社長に見いだされ青田買いされた、いわば逸材。裕揮は俺が見つけた、多分、逸材。そういった人間は、他の人間から突出している分ともすれば孤独になりがちだ。そんな二人が関わりあったとき、どんな化学反応が起こるのか、俺はどうしてもそれを見てみたかった。
「実はこの前のフィギュアコレクターに塚っちゃんの話したんだけどさ」
俺が話し始めた途端、塚本くんの顔色が変わる。
「一回、コレクションを保管してある倉庫に招待したいって言ってたぞ」
「わ、わがりまじだ……」
ぐぬぬ、と俺を睨みつけ、歯の間から絞り出すように塚本くんが言う。
さすがにここまでくるとパワハラ感が否めないが、悪いね、ここはちょっと塚本くんにも頑張ってもらうよ。
「じゃ、篠宮くん。暫くは塚本センパイの指示で仕事してくれ」
俺は塚本くんの肩をポンと叩くと、二人をその場に残して社長室へ向かった。
社長室のドアをパタンと閉め、オフィスとの間を隔てるブラインドを閉じ、完全に一人きりの空間を作ると、ふーと息を吐きながら椅子に深く腰を沈める。
そして組んだ両手をおでこに当てて目を閉じた。
途端に心臓がドクンドクンと、まるでたった今、息を吹き返したかのように激しく波打った。
もう、後戻りは出来ない――。
不安が無いわけじゃない。それどころか、不安てんこもりだ。思えば、ここの社長を引き受けたときもそうだった。いつも始めてしまってから、途端に怖くなる。でも、もうやるしかない。やるしかないぞ、哲志。
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